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日本物理学会2018年春季大会での私の発表は、文法物理学についての23pK402-3「量子力学の観測問題と宇田文法(2)」のみだった。
発表旅行中に撮影された写真は
リンク集 > 宇田雄一のウェブサイト > 即達 の2018年03月分のページに掲載されています。


K402会場は、東京理科大学野田キャンパス理工エリア内講義棟4階の東から2番目の教室だった。
23pK402-3「量子力学の観測問題と宇田文法(2)」では、液晶プロジェクターで資料を掲示しながら、次の様に口述した。
発言タイミング 発言内容 注釈
OHP-sr-1 宇田雄一です。
量子力学の観測問題のうちで、シュレディンガー方程式は決定論的なのに測定プロセスは何故非決定論的なのか、という問題について発表します。
左記発言は2018年03月23日13時44分39秒に開始されました。
OHP-sr-2 シュレディンガー方程式に従った量子状態の時間発展は決定論的なのに、被測定系と測定装置を合わせた系の量子状態の時間発展は確率論的です。
これは何故か?
その答えとして私は、これら5つ(A〜E)の可能性を考えています。
決定論の自発的破れ、
量子歴史の時間方向のエンタングルが異時刻測定結果間の相関を作る、
全ての場合の量子歴史の重ね合わせが宇田方程式の解に成る、
被測定系と測定装置を合わせた系への外部からの影響が皆無ではない、
巨視系はシュレディンガー方程式に従がわない、
以上5つの可能性です。
これから、これらの各々を説明します。
サイエンス社が出版している「数理科学」という月刊誌への谷村省吾さんの寄稿で他の可能性を見た様な気がするが、勘違いかもしれない(※)
OHP-sr-3 決定論の自発的破れは、対称性の自発的破れをヒントに私が考え出した概念で、例えば、こういう事です。
一様一定重力場中で鉛直平面内のこの様な曲線[d|x|/dy=√(y-1/3-1)]上に滑らかに束縛された質点、に対するニュートンの運動方程式の解は、時刻ゼロで頂上に静止している、という単一の初期条件に対して複数個あります。
(グラフの赤線をなぞりながら)頂点に静止したままの解、左または右から登って来て頂点に達し任意の時間だけ頂点に留まり左または右に滑り降りる解、過去ずっと頂点に静止していた物が任意のタイミングで自発的に左または右に滑り降りる解、左または右から登って来て頂点に達し頂点に永遠に留まり続ける解、といった具合にです。
その事は、y座標が0からYまで変化する時間を計算してそれが有限である事を確かめる、だけで分かります。
その計算をここ(長方形枠の外)に書いておきました。
この等号(長方形枠外の式の第3等号)の成立理由はエネルギー保存の法則です。
さて、これで決定論が自発的に破れる事を示せたわけですが、それって対称性の自発的破れでしょう?って言いますか?
OHP-sr-4 じゃあ、これだと、どうですか?
質点を束縛する曲線を左右非対称に変えておきました。
これでも、前のページの理屈がそのまま成り立ち、従がって、時刻ゼロで頂上に静止している、という単一の初期条件に対する解は、やはり複数です。
つまり、質点は必ず勾配の急な方に滑り落ちるとは限らないのです。

対称性の動的な破れでは、等価な複数の結果の中の1つが、同じ確率で確率論的に選択されます。
これを見て破れの原因は対称性だ、と私は長い間思って来ました。
条件が対称でなければ最も安定した結果が決定論的に選択されるはずだ、条件が対称だとそれが出来ないから破れのプロセスが非決定論的に成るのだ、と思って来たわけです。
しかし、それは間違いでした。

正確には、決定論が自発的に破れるのではなく、決定論的だと言われているニュートンの運動方程式が隅から隅まで決定論的なわけではない、という事です。
そして、ニュートンの運動方程式が決め切れない部分は何らかの確率論的法則で補われる、と考えるのが自然でしょう。
ここまでの説明で分かる様に、ここで私が説明している決定論の破れの意味で解にバラ付きが出るのは、「細かく見ると初期条件にバラ付きがある」からでも、「外力によるカク乱が皆無ではない」からでも、ありません。
ニュートンの運動方程式は時間についての2階微分を含むのに対して、シュレディンガー方程式は時間については1階微分しか含まないので、シュレディンガー方程式についても同様の事が言えるかは不明です。
OHP-sr-2 観測問題に対する解答Aは、シュレディンガー方程式についても同じ事が言える、という考えです。
OHP-sr-5 重力場中の曲線上に滑らかに束縛された質点の問題と同様の具体例として、以下の2つを挙げる事が出来ます。

半径が異なり表面が滑らかな剛体球を、中心が一直線上に並ぶように接触させ、両端から力を加えると、配列に乱れの生じる位置は確率論的に決まるだろう。

弾性定数が底面からの距離のみに依存する円筒形弾性体を、底面のみに力を加えてヨジルと、途中のどこかにコブが出来る。
どの位置にコブが出来るかは確率論的に決まるだろう。
私は、この事に、
捩るのではなくて捩った位置で全体を支えておいて、ある瞬間に一斉に支えを外す、と条件付ける方が正確です。
OHP-sr-6 ゴム動力のプロペラ飛行機の玩具をヒントに気付きました。
この玩具では、ゴムを巻き上げて行くと、ゴムのどこかにコブが出来ます。
OHP-sr-2 量子歴史の時間方向のエンタングルが異時刻測定結果間の相関を作る、という可能性については、
OHP-sr-7 ファインマンの経路積分がそれを具現していて、ファインマンの経路積分の被積分汎関数がそういう量子歴史を表す汎関数だ、という可能性があります。
しかし、これだと、第1測定以前と第2測定以後の部分で積分が取られないのは何故か、および、測定が3回以上行なわれる場合はどうなのか、という疑問が残ります。
もう1つの可能性として、宇田方程式の解の中にそういう量子歴史を表す物が有る、という可能性があります。
私が2013年秋季大会で発表したダルマ落とし公式は、この可能性を追求した物でしたが、間違いである事が後で分かりました。
ファインマンの経路積分の被積分汎関数は宇田方程式の解ではありません。
OHP-sr-2 可能性C、全ての場合の量子歴史の重ね合わせが宇田方程式の解に成る、という可能性を説明します。
OHP-sr-8 xを被測定系の自由度、yを測定装置の自由度、tを時刻とし、全体系の波動関数をΨとします。
測定される力学変数の固有状態の波動関数をξ12とするとき、測定過程で全体系の波動関数は、シュレディンガー方程式によればこれ[ξ(x;t)η(y;t)]からこれ[ξ1(x)η1(y)+ξ2(x)η2(y)]へと変化するはずですが、実際にはこれ[ξ(x;t)η(y;t)]からこれ[ξ1(x)η1(y)]またはこれ[ξ2(x)η2(y)]へと変化します。
このうちの後者の場合つまり実際の場合の、測定結果の各波動関数をΨ12とし、これ[Ψ1(x,y;t)]イクオールこれ[expφ1(x,y;t)]である様な関数小文字のφ1と、これ[Ψ2(x,y;t)]イクオールこれ[expφ2(x,y;t)]である様な関数小文字のφ2を使って、汎関数大文字のΦ1と汎関数大文字のΦ2をこの様に(赤色長方形枠の直上の2つの式で)定義します。
すると、大文字のΦ1も大文字のΦ2も宇田方程式の解ではないが、これらの和は宇田方程式の解である、
OHP-sr-2 これが可能性Cです。
OHP-sr-8 この考え方は多世界解釈に数学的表現を与える、かもしれません。
OHP-sr-2 被測定系と測定装置を合わせた系への外部からの影響が皆無ではない、という可能性を説明します。
OHP-sr-9 xを被測定系の自由度、yを測定装置の自由度、zを外部系の自由度、tを時刻とし、全体系の波動関数をΨとします。
測定過程で全体系の波動関数はシュレディンガー方程式に従がって時間発展しこれ[ξ(x;t)η(y,z;t)]からこれ[ξk(x)ζ(y,z)]へ変化する、とします。
kとζは、ポテンシャルエネルギー関数Vとξとηで決定論的に決まります。
その関数関係をFで表し、この式(k=F[V,ξ,η])を成り立たせるη全体の集合をYk[V,ξ]とします。
すると、測定結果の確率論的性格はηのバラ付きに由来し、コペンハーゲン解釈と同じ結果が出る為には、こう(η∈Yk[V,ξ])である確率がこれ(|<k|ξ>|2)でないと、いけません。
それが不可能なのか否かは不明であり、例えばこう(最も下の長方形枠内の条件が成り立つ)なら可能です。
可能でありそれが現実だ、と示す事は、量子デコヒーレンスの理論の基礎付けに該当するのではないか、と思います。
このページで説明した考え方は、外部系の自由度が隠れた変数に当たる、という意味で隠れた変数の理論の亜種だと思うので、私は、これには否定的です。
OHP-sr-2 巨視系はシュレディンガー方程式に従がわない、という可能性については、
OHP-sr-10 巨視的な物質塊の極低温での比熱は量子統計の計算結果に一致するので、違うだろう、と思います。
シュレディンガーは、巨視系に量子力学を適用するな、という事が言いたくて猫の思考実験を提示したらしいですが。
比熱のみならず巨視的な物質塊の物性全般が量子力学から導き出される事は、2018年03月23日に森戸記念体育館内でJr.セッションと共に行なわれたポスター発表でも多く見られた。
OHP-sr-11 ウェブ上のこのアドレスに報告記事を書きます。
以上です。
左記発言は2018年03月23日13時55分18秒に終了しました。


それは多分、数理科学2012年04月号20,21ページに記載されている「3. なぜ非可換だと確率論なのか ?」というパラグラフだと思う。
しかし今読み返してみると、これは私が挙げた5つの可能性とは別の第6の可能性ではないらしい、事が分かった。
量子論の基礎についての
数理科学への谷村省吾さんの寄稿には、この他に以下の物が有る。
数理科学2015年02月号26〜32ページ、
数理科学2013年12月号14〜21ページ、
数理科学2009年02月号14〜21ページ。
最新の研究に着いて行けている極めて聡明で博識なこの著者の記事からは、今回の私の発表内容に関係の有る先行著作に辿り着く為のキーワードを得る事が出来る。


画像をクリックすると拡大画像が表示されます。
講演概要

23pK402-3
日本物理学会 第73回年次大会(2018年) 概要集
Web版 ISSN 2189-0803 DVD版 ISSN 2189-079X
37ページ
より。
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2018年03月23日録音分@学会発表の実況@動画

この発表の原型は
Origin of Non-deterministicity @ Measurement Problem @ Problems @ Forum @ www.GrammaticalPhysics.acです。

質疑応答時間には、鈴木貞吉さんと私との間に、次の様な対話が生じました。

発言者 発言内容 注釈
鈴木 私がね、命っていうのを波動関数で表せたとすれば、波動関数、相対論が解けるっていう事、そういう事も話したつもりなんですけどもね、宇田さんがやっている、その、宇宙にも命があるわけですよね。
だけど宇宙の命と人類っていうか我々の命は違うと思うんですね、やっぱり本質的に。
宇宙は、また、再び、こう、戻るわけですよ。
だから宇宙の循環があれば人間が生き代わらなければならないんだけれど、人間は生き返る事は出来ないっていう事は、そもそも宇宙の命と我々の命にね、本質的に違う。
だから、この理論はね、どっちを言ってるんかね、そこをやっぱり突かないと、ただ理論を展開してる事に成っちゃう様な気がするんですけどね。
いかが?
私の苗字は宇田です。
宇田川ではありません。
宇田 そういう命の問題とかいう、そういう難しい問題を解決する役に立つ物かどうか分かりませんが、直接そういう問題に対しての答えを提示できている段階とは程遠い物ですね、私の今日までの発表内容という物は。
将来的にも、ずっと、ひょっとすると無関係かもしれないし、ひょっとすると何か、そういう命について研究なさる方が、私の研究を引用して利用するかもしれないので、そう成ると役に立てれるなあ、と思いますけどねえ。
今のところは全然、関係性がちょっと見当たらない、といった感じです。

昨年までは自分の発表が含まれるセッションのみに参加して来たが、今回は学会大会初日の前日にホテルにチェックインし、学会大会最終日の翌朝ホテルをチェックアウトした。
そして、2018年03月22日と2018年03月25日にはK510会場でのセッションを、2018年03月23日午前にはJr. セッション会場でのポスター発表を見学した。
K510会場を選んだのは、もし私が物理教育分野でも発表したならばその会場で発表する事に成ったであろうからだ。

Jr. セッション会場には高校生の発表を目当てに行ったが、結局きちんと説明を聴いたのは博士級の研究者の発表2件だった。
その後で、会場を出る時に、その事に気付き、今のは高校生のじゃなかったな、とつぶやいた。

22aK510-8「参加型デモンストレーションによる波動現象の学習」の質疑応答時間に私は次の意味の事をコメントとして述べた。
人体を太い棒で突くと体ごと吹っ飛び体のパーツは壊れません。
針で突くと体は吹っ飛ばず体に穴が開き(パーツが壊れ)ます、しかし体を構成する分子は(押し退けられるだけで)壊れません。
もっと細い針で突くと原子核や遺伝子(分子)が壊れます、これが放射線の被害です。
これは、放射線はスーパー・シャープ・ニードル(super sharp needle)である、という私の解説法だ。
私が「放射線が波動とどうつながるのか分からない」と言うと発表者は、やや不機嫌に「それは今発表した通りです」と答えた。
あ、そうか、放射線は量子力学に従がう、量子力学は波動関数を扱う、という繋げ方が発表で為されてた様な。
「その繋げ方は的外れだと思う」とコメントすれば良かった。
この私の発言の冒頭部分「人体を太い棒で突くとどう成りますか」という部分を言い終わった瞬間に聴講者の1人がクスクスではない会場全体に聞こえるハッキリとした作り笑い声を立てた。
しかし、それにつられて笑う者は全く居なかった。
私の発言が終わると同時に音源不明のブーブーないしボーボーという低い共鳴性の集団ストーカー工作音が始まった。

22pK510-10『水入り孔あきコップのつりあげ〜複合領域新作教材を目指して「15」』の質疑応答時間に私は「底に穴が開いている時には空気が流入するのに底に穴が開いていない時には空気が流入しないのは何故ですか」と質問した。
すると発表者は、しばらく考えた後で「
それは凄い質問ですね」と褒めてくれた。
発表者は、考えている間、杖で床を2回突いた。
その間に、答える事が出来るはずだ、という認識から出発して、答えの探索に行き詰まり、最終的には答える事が出来ない事に気付き、その事に驚いた、そういう事だろうと思う。
素直な良い先生だと思う。
発表の主旨も、理論と実験の掛け合いの醍醐味を訴える物で、正しい方向性だと思う。
ただし、全ての研究や学習がそうでなければいけない、という考えには私は反対です。
物理学の基礎理論の現代の研究は、理論が仮説を作り実験がそれを検証する、という理論先行型であるのが正しいし、学習においても多くの実験を割愛する事が時間的制約から必要だろう。
「穴から空気が流入していて上部からは空気は流入してない、という事は無いですか」と私が質問すると発表者は「そういう事は絶対に無いはずだ」と答えた。

K510のどの発表だったか忘れたが、その質疑応答時間に私は、次の様なコメントをした。
等速円運動の求心力を突然断つと質点はそれからどんな運動をするか等の力学事始(ことはじめ)の部分を題材に生徒の誤解や誤概念の実態を非常に多くの先生が色々な切り口で調査発表するのを見て来ましたが、それは切り口に当たる研究手法を確立発展させ、それに基づき物理学の全学習項目に渡って教材や教授法を改定する為の第1歩だと思う。
しかし、話が第1歩の次に進んだのを見た事は一度も無い。
物理学の学習項目は力学事始以外にズラーッと沢山有るわけで、それらの大部分は手付かずのまま放って置かれている。
そもそも、良い教材を作れ、というのは、名曲を作れ、というのと同じだ。
統計調査で名曲が作れないのと同じ様に統計調査を駆使した定量的方法論で良い教材を作る事は出来なかろう。
良い教材を作るのは優れた先生の優れた勘である。
このコメントは、どれか1つの発表だけに対して、ではなかったので、どの発表の質疑応答時間に言っても構わなかった。
「名曲を作れ」という部分では「受けるギャグを作れ」という例も挙げるべきだった。
また、例えば自由落下で重い物体と軽い物体が同じ速さで落ちる事は、ガリレイが実験で示して見せるまではアリストテレス以来何世紀にも渡って思弁によって「そうではない」と誤解され続けて来た事からも分かる様に、頭で幾ら考えても割り出せる結論ではなく、実験結果を見て初めて判明する事だから、その点で生徒が間違える事に「何て馬鹿なんだ、何故こんなに馬鹿なのか」と驚くのは、この問題への理解不足だ。
実験結果がどうだったか忘れてしまったら頭だけで考えざるを得ず、頭だけで考える限り先生が考えても答は出ないのだから、「生徒が誤答した」という事は単に「生徒が答を忘れた」という事に過ぎないからだ。

私の発言が「優れた先生の優れた勘です」という部分に差し掛かった瞬間に聴講者の1人がクスクスではない会場全体に聞こえるハッキリとした作り笑い声を立てた。
しかし、それにつられて笑う者は全く居なかった。

1人が笑い声を立てれば、それを聞いた人は、内容に対して笑うのではなく、笑い声につられて笑う、その繰り返しで笑いの雪崩ないし笑いの連鎖反応が起こる。
この原理を利用して、宇田は発言内容のせいでいつも会場で皆の笑い者に成っている、事にしてしまおう、という狙われ方をしているものと私は思っている。
上記の作り笑い声2件は、そういう狙いでの私への集団ストーカー工作だ。
過去には笑いの雪崩が起きた事も多かったが、今回は会場の先生方全員がそう成らない様に意識して気を付けて下さっている風だった。

私は自分の
物理学正典が、それと同一の教育目標を達成する手段としては、最善(世界標準と成るべき物)であり、どんなに多くの先生がどれだけ沢山定量的研究をしても、それに基づいて物理学正典を超える教科書は作れない、と確信している。
どれだけ良い教育が出来るかは、どれだけ早く物理学正典に屈服するかで決まる、と私は自負する。
屈服するのが早ければ早いほど良い教育が出来るし、先生が意地を張って屈服するのが遅れれば遅れるほど学生が要領の悪い教育の犠牲に成る。

そして、私の物理学正典は大学の理学部物理学科で学生が学ぶべき学習項目のリストだ、とも考えられる。
それを見れば、大学の理学部物理学科の学生が学ぶべき事が如何に多いか、が分かろう。
さらに、私の物理学正典には未だ熱力学と統計力学が含まれていないが、学生は熱力学と統計力学も学ばねばならない。
慣性の法則や自由落下の法則で足踏みしている場合ではないのだ。

統計調査に基づく定量的物理教育論の欠点は、どの学習項目のどの側面について調査するかはその方法では決める事が出来ない、という点だ。
テストで誤答者が多い問題を調べる、というのでも、テスト問題は統計調査に基づいて定量的に作成されているわけではない。
どの学習項目のどの側面について調査するかや、テストにどういう問題を出すかは、先生が勘で決めているのである。
だから結局、先生の優劣は、どちらの先生の方がかゆい所に手が届くか、という形の勘(察しの良さ)の優劣に帰着するのだ。
私の上記コメントにおいては、そういう事が念頭に置かれていた。

統計調査に基づく定量的物理教育論への私のこの批判は、以前に(たぶん日本物理学会2009年秋季大会28aVE-1で)、座長の並木雅俊先生から「生徒のつまづきを取り除く事は重要だが、自分がつまづいたというだけでは、そこを急所だと判断して解説する意義は低い」と、さもまことしやかにとうとうと(西澤潤一著「十年先を読む」発想法・講談社文庫1986年版83ページで軽蔑の対象と成っている口ぶりで)コメントされた事に腹を立てての報復でもあった。
その時の並木雅俊先生は、私が言い返せない様に自分のコメントを、私に割り当てられた(発表+質疑応答)時間の末尾に行なって言い終わると直ぐに座長の権限を使って私の(発表+質疑応答)時間を終了させてしまった。
私の発表やそれで紹介された物理学正典の記述の特徴は、自分がつまづいただけでなく、それに加えて「他のほとんどの人は分かってないはずだ、つまづかなかった人は深く考えなかっただけだ」という見当に基づいた物だった。
その見当の正しさは、並木雅俊先生も私に言われるまで既存の解説のどこが不足なのか分かっていなかった事を対話を通して確認できた事、によって裏付けられた。

ついでに言わせてもらうと、私のある友人は私の物理学正典の内容を見て「確かに(宇田君が前々から言ってる通り)これは受験勉強には向かない(とは種類が違う)ね」という意味の事を感想として述べた。
その背景には、兼ねてから私が「試験は勉強の邪魔だ」と言って来た事、試験勉強という物は私が自ら追求して来た本来の学問とは別の低俗な勉強であるという私の価値観、が有った。
近年ディープ・ラーニングという言葉が人工知能について用いられるので紛らわしいが、私が主業務として自ら行なって来た本来すべき勉強は、ディープ・ラーニングという名前を付けたく成る様な勉強だ。
これは、テストにどういう問題を出すかの従来の選択の伝統および試験制度そのものへの痛烈な批判、と受け取られるべき事だ。

従来の伝統的テストが本質的に抱えている欠点は、
日本物理学会2011年秋季大会での私の発表24pRF-4「進級時飛躍内容教訓化学習の勧め」でも、述べられている。
受験者は答を他者から教えられなかった、という事を保証する必要が有るので、技術的限界の為に、テストという物は、肝心でない事のテストと成らざるを得ない。
テストではテストできる事しかテストされないし、選抜テストは差が付く問題を主とせざるを得ない、その結果テストという物は大袈裟に言えば「どうでもいいこと」のテストと成らざるを得ないのだ。

大阪地検特捜部主任検事証拠改ざん事件をキッカケとして検事登用試験の問題がテレビで紹介された事がありました。
テレビに出演していた人は「難しい」としかコメントしなかったが、私は「これは、落とす為だけの試験問題であり、それ以外の機能をほとんど全く持たない、不合格だとする理由をこじつける事だけを目的とする極度の悪問だ」とハッキリ思った。
それは選抜試験の悪い面を濃縮した様な問題だった。

文部科学省局長が東京医科大学に裏口入学を依頼して逮捕された、という事件が最近話題に成ってますが、極端に難しい試験という物は元々、誰も合格できない様に作っておき、それとセットで、恣意的に特定の人を不正に合格させる、という方法を用いる事によって、選抜は試験によって行なわれた、という仮面を被せて、本当は選抜をコネ等で行う為の物ではないか、という疑いを私は前々から持っている。
入学試験が著しく難しい大学は、自校には例外的にしか居ない本当に頭の良い学生を看板としてチラ見せして全部の学生がそうであるかの様に世間に思わせる事によって、そういう不正の発覚を防いでいるのではないか。

学会での発表という物は、学術論文のオリジナリティーとまでは行かなくても、何かしら今までに無かった新しい事の発表である必要が有る。
この事は、大先生(権威者)が行なった教育まで含めて従来はどこにも無かった、という事を意味する。
発表者の社会的地位(人)を見て差別的に、お前らごときチンピラが気付く様な事は必ず従来のいずれかの権威者が先に指摘しているんだ、学問や教育への新しい付け足しや修正は上位の権威(先生・先輩)が下位の権威(生徒・後輩)に対して行なうという形でのみ存在し下位の権威者や権威なき者が学問や教育へ付け足すべき事を他の誰よりも先に発見する事は全然ないのでないと絶対に嫌だ、とばかりに権威者を庇い立てする卑しい傾向が並木雅俊先生には(他の大勢の人にも有るんだけど)有る、と私は感じている。
並木雅俊先生の場合、その事が個別の発表の価値を揉み消そうとする発言と成って現れており、問題だと思う。
たぶん
日本物理学会2016年春季大会19pBB-5『「アイデアを形に」がもたらす科学・技術教育の効果について』への並木雅俊先生のコメントを自分の耳で聞いた時にも、そう思った。
その時の私は、発表者を擁護し並木雅俊先生のコメントを批判するコメントをしたいと思ったが、言葉がまとまらなかったので挙手しなかった。
正直に無価値だと思うから「無価値だと思う」と発言する事は、健全な批判であり奨励されるべき事だ。
しかし、(自分はそうは思わないという点以外で)敵だから批判する、(自分もそう思うという点以外で)味方だから擁護する、という事は学問のやり方としては不正行為である。
私はお前より偉いんだからお前は私より賢い事を言うな、という態度は、私の言説の方があなたの言説よりも賢いという事は私の方があなたより偉いという事だ、から間違っている。
私より若く日本物理学会の会員らしい人から学会大会会場で非公式発言として「並木雅俊先生の態度には問題が有ると思いませんか」と質問された事が有る。
これは客観的な証拠だと思う。
それに対して私は、敵だから批判するという事は有ってはいけない、と思う余り勢い余って「並木雅俊先生は包容力の有る良い先生だと思いますよ」というトンチンカンな答えをしてしまった。
反省してます。
並木雅俊先生は、国際物理オリンピックに参加する日本の高校生を指導するコーチ陣の中で中心的な役割を果たしておられるので、生徒には科学倫理面でも良い影響を与えて欲しい所なのだが。
たぶん
日本物理学会2010年春季大会23pRC-10で「学校に行かなければ学問をしてはいけない、という事であってはいけない」という私の発言に並木雅俊先生は無声音で「プッ」と発音して反発の意を示した。
この人に「科学倫理を分かれ」と言っても無理なのかもしれない。
ちなみに、この「プッ」が私に敵対的な意味で色々な人の口から発せられるのを私は何度も聞いた事が有るが、不審な事に、それは、私(宇田)の有る友人が、自分の方が年長である事などが災いして自分と宇田では才能に雲泥の差が有る事を理解できないでいる人[そういう人にアドヴァイスですが、今の私と今のあなた、という比較で考えるのではなく、生まれてから死ぬまで通して一生で出来る事の差で考えてみよう。子供の頃から既に私が大人をすら見下していたのは、そういう(俺ゃそんなもんじゃ終わらんぞという)目で見ての事です]の愚かさを腐す意味で同じ「プッ」を発音した以前には、一度も聞いた事が無い物だった。
この不審さは集団ストーカーの属性である。
私のその友人は、私(宇田)が高校時代に(学研や旺文社や進研等の出版社系のではない)予備校系の大学入試の2次試験志向の全国版の模擬試験で(約1万人中で)1位に成った事が有るのを、その態度「プッ」の理由としていた。
自分の志は受験学力なんていう低俗な物ではない、という意識は高校生時代の私に既に芽生えていたので、その結果を大事に保存する事を私は、あえてしなかったが。
出版社系の模擬試験と予備校系の模擬試験の間には、小学生向けの学校算数と受験算数の違いに似た違いが、当時は有った。
共通一次試験の問題の特徴と大学ごとの二次試験の問題の特徴の違いも、そういう違いでした。

権威主義批判として、ついでの話だが、1999年に私は書き上げたばかりの
書籍「古典物理学」を、在学中親切にして下さった高校の数学の先生に見せ、その高校の図書館に置いてもらえないか尋ねた事が有る。
その先生(公務員)は、私に職業を訊ね、私が私塾経営だと答えると「他人の子供を責任を持って預かる身の自分には私塾経営者ふぜいの著書を図書館に置く事は出来ない」と言った。
その様な意見を遠慮せず率直に述べる事は許されねばならず「失言だから責任を取れ」等と要求してはいけない(間違った意見への正しい対策は「言わせない」ではなく「反論を述べる」だ)というのが私の意見だ。
しかし、それが正しい意見なのか否かは別の話であり、「私は公務員だから私営事業者との癒着は出来ない」というのなら分かる気がするが「著者が私塾経営者では著書の内容が心許ない」という評価は私にとって心外だった。
私としては「あなたの知ってるあの宇田君が書いた本だから信用に値するでしょう」という頭だったが、その先生は、3年間自分の目で見て宇田君はどうだったかよりも、今現在の宇田君の職業は何であるかを、宇田君の著書の出来を推測する根拠として優先的に採用した、という点が残念だ。
その高校の図書館に置かれている本は、ほとんど全て私立出版社が発行した本のはずだが。
その先生が私に「物理の先生がどうのこうの」と言ったからだと思うが「高校の物理教諭ふぜいでは私の著書を査定するのは無理だ」と言えば良かった、と後で思った。
先に相手が私に「私塾経営者ふぜい」と言った事が、その発言への免許として成立している。
その数学の先生は私を含む生徒に対する授業で「必要条件」と「十分条件」を教える際に覚え方として「ならば」を表す矢印の始点の側に縦線を補って「十」を作り、矢印の終点の側に加筆して「※(必)」を作れ、と教えた。
これに反して私の理解の仕方は「AならばB」を「(not B ならば not A だから)Aが成り立つ為にはBが成り立つ事が必要だ」「Bが成り立つ為にはAが成り立つだけで十分だ」と言い換える、という方法であり、これだと何故「必要条件」「十分条件」と呼ばれるのか分かり、何も暗記する必要は無い。
(理解すれば暗記しなくてもよく成る事は多かった、様な気がする。)
高校生の時に(その授業を聴講した時にも)既に私は、そういう理解の仕方をしていました。
これに比して加筆して「十」や「※(必)」を作る覚え方は、理解法ではなく暗記術です、お粗末ではありませんか。
(こういう差はテストでは試されない、という点が私のテスト批判の一例だ。その高校は難関校で入試が非常に難しいのですが、大学入試も、それに合格しなければ私ほど才能が有っても学問の道に進む事が出来なかった、というのでは危なっかしくていけない。同級生には○×県の良い種達(たねたち)とも言うべき人が多かったので、それを選抜した試験にも一理ありますが)
さて、どうですか?
これが受験勉強と本当の勉強の違いです。
私の様に教えるのと、私を教えた数学の先生の教え方と、どちらの方が責任を持って他人の子を預かっている、と言えますか?
(ただし、2次方程式の解におけるカンマは「or」だ、という指摘を数学の授業でこの先生から聞いた事が、私を論理学へ開眼させました。そういう質の良い啓発をする事も、この先生には多々ありました。この先生は数学の先生としては非常に優秀な先生です。私は、それを否定しているのではなく、私と比較してどうか、を言っているだけです)
また、
日本物理学会2011年秋季大会24pRF-1,2の講演者の著書は、著者が大学教授だから、という理由で私の母校(件の高校)の図書館に置かれていたりしないでしょうね?
置かれていたら、それでも、他人の子を責任を持って預かっている、と言えますか?
生意気言うんじゃないよ。
このページのここまでの記事で私はその先生をコテンパンにヤッツケたわけですが、集団ストーカーは私のこういう言動に対して来ます。
その先生等が集団ストーカーを雇ったわけはないはずですが、それ(雇ったの)と同等の結果が生じる、という事が常態化しています。
世の中の既得権益は商売敵に集団ストーカーを行なう事によって保護されている、という不正な社会構造が存在する様です。
高校生時代には気付きませんでしたが、登下校中に他校のヤンキーの襲撃を何度か受けた事は私が通っていたそのエリート校内での出来事に応じての物ではなかったか、と今では疑っています。

高校時代に、その数学の先生は私等生徒に「limx→af(x) = b という式における等号は普通の等号と意味が違う」と教えましたが、limx→af(x)はx→aでのf(x)の極限値を表す、と考えれば(普通そう考えると思うんだけど)そんな事は無いんじゃないか。
これについては、その数学の先生の教え方は普通以下だと思う。

25aK510-11「ランベルトのW関数が現れる物理と演示実験の可能性について」の質疑応答時間に私は、次の様にコメントした。
『着いて行けなかったけど、たぶん全部正しいんだと思います。「ランベルト関数」で検索しても個々の適用例で検索してもあなたの記事がヒットする様に、その発表内容をウェブ上に恒久的に公開すべきだと思う』
この中の「たぶん全部正しいんだと思います」の部分では笑い声が起こったが、それは悪気の無い物だった。
ウェブ上でこの人のそういう記事を見付け次第、そのSEOを助ける為に、このページからそこへリンクを張るつもりだ。
色んな所に色んな人がナンバーワンコンテンツを置いているのがインターネットの健全な姿であり、特定の者の特定のアドレスに全てのコンテンツを独占的に集中させるのは間違っている、と私は考える。
Googleで検索すれば出るんだから、何もしなくても既に1つにまとまってるんだよ。
その意味で、FacebookだのTwitterだのが私は嫌いだ。

25aK510会場では、新田英雄さんだとされているらしい座っている人を斜め後ろから見たが、その人は日本物理学会2015年春季大会24pCKの座長とは別人だった。
日本物理学会2015年春季大会のプログラムには、24pCKの座長は新田英雄だと明記されている。

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