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日本物理学会2014年春季大会での私の発表は、文法物理学についての27pTG-2「ダルマ落とし確率公式と定常散乱描像の関係」と、教育についての30pAG-10「ソレダケノモン方式コーチング」の2つだった。
発表旅行中に撮影した写真は、
私の写メール投稿ブログ「即達」の2014年03月部分2014年04月01日に投稿された記事に掲載されています。
私の発表についてのご意見ご感想は
Wooder!掲示板にお寄せ下さい。

TG会場は、東海大学湘南キャンパス16号館2階16-205教室だった。
27pTG-2「ダルマ落とし確率公式と定常散乱描像の関係」の講演では、液晶プロジェクターでJPEG画像を掲示しながら、以下の様に口述した。

発言タイミング 発言内容 注釈
ohp14sp-sr-1
(タイトルや名前が書かれているだけなので、このページには掲載しませんでした)
ダルマ落とし確率公式と定常散乱描像の関係について[音1]発表しますwww.GrammaticalPhysics.acの宇田雄一です。
今回は、2013年の春に私が発表した波動関数に2013年の秋に私が発表したダルマ落とし確率公式を適用した結果、の大づかみな特徴を推測します。
そのまま計算[音2]するのは今の私には技術的に無理だったので、今回は、そのまま計算するのではなく、簡単な関数を波動関数の代わりに用いて様子を見る程度、に留めます。
発言開始時刻は13時50分06秒頃です。
パソコンの調整のために予定より数分遅れました。
先行発表や議事進行の遅れは有りませんでした。
[音1]や[音2]は、このページの下の方で説明されている妨害音の発音タイミングを表しています。
ohp14sp-sr-2 2013年春に私が発表した波動関数というのは、3次元空間内で、x1軸とx2軸とx3軸の全てから等距離に在る直線を斥力中心とする斥力を受けつつ、この直線に平行な一様一定磁場の中で運動する荷電質点、の量子力学の波動関数です。
-
ohp14sp-sr-3 2013年春の発表では、この波動関数は、量子歴史を表す汎関数の漫画、として登場しました。
量子歴史の文脈では、座標軸の番号1,2,3が円環時間の時刻の値に対応し、x1は時刻1/αにおける位置座標、x2は時刻2/αにおける位置座標、x3は時刻0における位置座標です。
ただしαは、私が導入した新しい物理定数で、2005年秋の発表資料に既に現れており、2006年春の発表では正式に言及されています。
2013年春に私が発表した波動関数ψ(x1,x2,x3)は、量子歴史を表す汎関数の漫画です。
一方2013年秋に私が発表したダルマ落とし確率公式は、2/αだけの時間経過に伴って位置がwからxに遷移する振幅が、(積分を使って書かれた式を指して)この様な式で表される、という物でした。
講演概要には時間経過3/αと書きましたが、これは間違いで、2/αが正しいです。
でも、その違いを言えるぐらいキチッとした話が出来てるのかどうなのか、チョッと、そこは疑問なとこなんですが。
もの凄〜く大雑把な話をしてるので、2/αと3/αの違いを区別するレベルじゃないだろうが、みたいな所は有ります。
この公式に[音3]代入するために、x1軸とx2軸とx3軸の内の1つに垂直な平面内での波動関数の値を、(最後の3行に書かれている式を指して)こういう風にですねえ、遠似します。
って、これ、あの、という風に遠似してみます。
[音4]近似と言える程似てはいないので、遠似と書いて[音5]おきました。
遠似の根拠は、本件の荷電質点の運動を古典力学で解くと、直線の方向には等速運動、直線に垂直な方向には直線に巻き付きながら接近し離脱する運動に成る、という事です。
[音6]この古典運動は、2013年春の発表で、説明しました。[音7][音8]
2013年春の発表後に気付いた事ですが、「直線の方向には等速運動、直線に垂直な方向には直線に巻き付きながら接近し離脱する運動」という部分は間違いで、力学的エネルギーがゼロの場合だ、という事を考えに入れると、正しくは、直線に垂直な平面内で直線に巻き付きながら斥力中心まで永遠に接近し続ける運動です。
ohp14sp-sr-4 さて、[音9]遠似関数を代入すると、遷移振幅の[音10]積分は、極座標を用いて、この様に書けます。
[音11](冒頭の2行の式を指して)これですねえ。
r'とθ'はrとθの関数で、(中段右の図を指して)この図から定まります。
x-wの絶対値に√2を掛けた(図の直下に添え書きされた文字を指して)これなんですが、これは、2つの遠似関数の[音12]中心間の距離です。
r→∞では(図の左のr→∞の場合の式を指して)こう、rがゼロに近づく時には(図の左のr→0の場合の式を指して)こうだから、r→∞と、rがゼロに近付いた時に、それぞれ、積分の計算結果は、(最後の2行を指して)こういう風に、ああ、そうか、そうか、rでの積分はまだ、せずに残しておいて、θの積分だけ実行すると、(最後の2行を指して)この様に成ります。[音13]
(最終行を指して)下の分はこれ、もうrで積分してもゼロはゼロですね。
(最後から2番目の行を指して)上は、まだrの積分が残ってますが。
[音14]こう成ります。
-
ohp14sp-sr-5 [音15]さて、この様子を図に描くと、こう成ります。
遷移振幅の積分計算は[音16]、(x,x)を中心とする回転運動の波動関数と、(w,w)を[音17]中心とする回転運動の波動関数の内積です。
漫画としては、[音18]そうです。
矢印の向きが揃っている領域からの寄与は大きく、これは要するにこの、(図中の該当領域を指して)両方の中心から、両方ともから離れてる領域の事ですね、矢印の向きが揃っている。
で、矢印の向きが揃っている領域からの寄与は大きく、矢印の向きがぶつかり合ってる領域からの寄与は小さく成ります。
ぶつかり合ってるというのは、(図中の該当領域を指して)こういう辺りですねえ。
従って積分結果は、2つの波動関数の中心間の距離の減少関数に成り、遷移振幅はx-wの絶対値の減少関数に成りそうだ、と推測出来ます。
これ以上の事は分かりませんが、変な結果が出て来ないかの最低限のチェックには成った、と思います。
以上です。
左記発言終了は13時55分28秒頃です。

画像をクリックすると拡大画像が表示されます。
講演概要


日本物理学会講演概要集・第69巻・第1号・第1分冊・9ページより。
OHP

OHP-sr-1


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質疑応答時間には、鈴木貞吉さんと私の間で、以下の様な問答が行なわれた。
過去には毎回質疑応答時間が鈴木さんとの問答だけで使い果たされて来たので、今回は、他の人の質問を待ってくれ、という風に発表開始前に鈴木さんに頼んでおき、鈴木さんは発問を遅らせてくれたが、他の人から質問は出なかった。
発言者 発言内容 注釈
鈴木 宇田川先生はですね、 -
宇田 あの、宇田です。 -
鈴木 結局微分積分を、この先も、続けて行かれようとされてるんですけれども、結局私が言う既存の欧米文明はね、もう一度やり直すという事は、微積分というのは結局、原子爆弾を作るための学問であったと、 -
宇田 そんな事は無い、と思いますけど。 -
鈴木 うん、だから、そこのね、そこの所を、やはりわきまえないとね、例えば文部省で、我々の時代と同し様な教育をね、続けて行った場合に、果たしてそれで良いんかどうか、そういう問題も出て来るわけですよね。
で、そういう意味において、どう言うのかなあ、既存の微積分に代わるね、やっぱり数学という物を、もう一度ギリシャ文明から作り替えたらどうか、という私はそういう意見なんですよ。
いかがなもんかと。
-
宇田 はー、ちょっと、それは、あの、即座には良いか悪いかチョッとコメントし兼ねますが、鈴木さんがそれ為さるんだったら、そりゃあ大変やると良いんじゃないでしょうか、と思いますが、私は、するつもりは無いですけど。
微積分に代わると言うと、微積分に代わるという言葉の意味にも依るんでしょうけど、数学というのは、どんどんどんどん発達して行くと、後に出て来た何かもっと凄い数学というのが、前に出て来た初等的な数学みたいな物を呑み込んでしまって、前に出て来た初等的な数学を使うとこんなにこの問題を解くのは大変だった、というのが、後に出て来た数学を使うと簡単に解けてしまったりとか、そういう意味で、微積分に取って代わる凄い数学とか、そりゃまあ、数学の専門の人に大いに見付けてほしい、と思いますねえ。
だけど、そういう物が、微積分に取って代わる様な物が出て来ても、そういう物が出て来れば今度はそういう物理学を駆使した兵器という物から遠ざかるかと言えば、その向きには関係ない様な、物事がどちら向きに進むかという事には関係ない様な気がすんですよ。
微積分に取って代わる物が出て来ても、やっぱり微積分と同じ様な傾向を持ってるんじゃないか、そういう兵器にはどの様な影響を及ぼすかという事について言えば、微積分よりは影響が少ないとか、そういう事は全然ないんじゃないか、と思いますけどねえ。
-




AG会場は、東海大学湘南キャンパス1号館2階B翼1B-201教室だった。
15時30分時点では参加者は17人(私と座長を含めたか覚えていない)だった。
30pAG-10「ソレダケノモン方式コーチング」の講演では、液晶プロジェクターでJPEG画像を掲示しながら、以下の様に口述した。
発表の様子は、
学会発表の実況(日本物理学会2014年春季大会30pAG-10)@動画でも御覧いただけます。

発言タイミング 発言内容 注釈
ohp14sp-13-2 ソレダケノモンという慣用表現の意味は、次の対話例文に表れているごとくです。
「こんなに、もらって、いいのかな、と思って」→「もちろん、ですとも、ダンナが、ソレダケノモンだって事なんですから」
「全部ダメだったじゃないか、どうしてくれるんだ」→「そりゃあ、あんたが、ソレダケノモンだった、って事じゃないのかい」

ドレダケノモンであるか、をアマウンツと呼ぶ事にします。

ソレダケノモン方式コーチングは、効率を上げる方法ではなく正義の基準です。
だから、ソレダケノモン・ルールと言うべきかもしれません。
これは、先生対先生の競争は、先生のアマウンツ-対-先生のアマウンツ、の競争でなければいけない、というルールです。
これは、授業について言えば、先生も生徒も自分の守備範囲をシッカリやる事が出来るだけであって相手の守備範囲に干渉は出来ない、というルールと等価です。
これに逆らう事は必ず、何らかの形で他人の物を盗る事に当たります。
ソレダケノモンに逆らう事は無理であり、無理は自分で自分に課す場合にのみ、本人の自由です。
先生が生徒に無理を課す事は、先生が他の先生に勝つ為に生徒の物を盗って使う、という事であり、容認できません。
何年か前に日本物理学会の物理教育会場で、宿題を増やせば生徒の学力が向上した、という発表を見た際に私が、強いるんですか、と質問したのは、この観点からです。
強いるか強いないかは全く問題ではない、という発表者の返答は、私を驚かせ心配させました。

私の主張は、自分を見限れ、高望みするな、という事ではありません。
分相応に、という意味だとは言えますが、高望みする性質を持っている事は、それもまた、その人の分だ、と言えます。
自分で自分に無理を課した場合は、それがその人であるから、それはソレダケノモンに反しません。
また、ソレダケノモンという言葉に、ナンダトという風に反発し発奮して積極度を高めたなら、それもその人のアマウンツです。

生徒のアマウンツは、生徒の性質と生徒の能力であり、生徒の性質とは、意欲、向上心、積極性、価値観、好み、忌避感情、などの事です。
生徒の能力とは、先天的な素質・才能や、後天的に獲得した能力や、後どれくらい元気が残っているか、後どれくらい体は持つか、などの事です。

先生のアマウンツの成分としては、(ohp14-13-2の先生の知識、表現力、模範価値、観察力、責任感を指して)これら、が考えられます。
知識は、その学習種目のノウハウ、魅力、情勢についての専門知識や、教授法等の教育学的知識、それから生徒時代に経験を通して感じ取った事、などです。
表現力としては、説明の分かり易さや生徒を感化する力が挙げられ、これらは説明技術や話術や実技能力の高さによって実現されるでしょう。
生徒に技のコツが良く見える事は、分かり易さに属し、自分もそれが出来る様に成りたい、と生徒に感じさせる事は、感化する力に属します。
模範価値は、先生が生徒の目標にどのくらい成っているかで決まり、これには先生の過去の栄光や現在の実技能力の高さが寄与するでしょう。
その学習種目の権化として生徒の目前に現存している事が、先生の模範価値の究極の形です。
観察力は、自分の生徒や他先生の生徒を観察して、それらの性質や能力や現況を見抜く力です。
責任感は、監督責任を果たそうとする性質であり、業績ノルマに対する責任感ではありません。

学習種目のアマウンツの成分としては、(ohp14-13-2の学習種目の魅力、人気、競争の激しさを指して)これらが、挙げられます。
魅力の中の、動作快感は、動作に伴う快感であり、触覚的な気持ち良さ、です。
面目快感は、外見的なカッコ良さを始めとする、面目が立った快感です。
実用性は、身に着けた能力が生活で役に立つ事です。
汎用性は、身に着けた能力が他種目でも役に立つ事です。
どうぞ他にも魅力を見付けて下さい。
人気は、どれだけ多くの生徒が、この種目に、どれだけ大きな積極性を持っているか、であり、これは、魅力の結果として生じます。
競争の激しさは、例えば試合で1位に成る為に必要な積極度の高さ、であり、これは、人気の結果として生じます。
左記の発言は16時04分00秒に開始された。

ソレダケノモンルールへの違反が他人の物を盗る事に当たる、というのは、先生が自分の生徒の物を盗る、という形においてだけではありません。
不正競争の観点から、先生がライバルの先生やその生徒から盗る、という形においてだ、という意味もあります。

ライバルの先生の生徒から盗る、という文脈を私は特に重視します。
これは、顕著なアマウンツの生徒を目立たなくする、埋もれさせる、という事です。
これについては、盗る、という言葉よりも、殺す、という言葉の方が適当です。
他人の長所を殺す、という事だからです。

先生の知識は、生徒がどうすれば学習結果がどうなるか、についての知識や、先生がどう教えれば生徒がどうするか、についての知識が中心です。
ただし学問の場合には、学習結果である所の知識の方が中心でしょう。

先生対先生の競争は総合力での勝負なので、模範価値や実技能力が低くても、その事だけで直ちにアマウンツ不足とは言えない。
ボクシングのトレーナーの様なスタイルが、先生の最小構成として可能である。

「どうぞ他にも魅力を見付けて下さい」という発言は、網羅性を主張しているわけではない事を示す為の物です。
これが無ければ、私の意見は偏狭だ、という風に誤解される恐れがありました。

ohp14sp-13-3 生徒の積極度をx、学習種目をy、学習結果をzで表す時、生徒の性質は、xz平面内の、xしてでもzを得たいと思う領域と、xしてまでzを得たいとは思わない領域の、境界を表す関数で表され、これは、yごとに、また、生徒ごとに、異なります。
学習種目の人気は、各yについて、全ての生徒の性質関数を集めて、それに統計処理を加えた物で表されるでしょう。

生徒の能力は、xz平面内の、xすればzを得る事が出来る領域と、xしてもzを得るのは無理な領域の、境界を表す関数で表され、これは、yごとに、また、生徒ごとに、異なります。
学習種目の競争の激しさは、zとして相対評価指標を用い、各yについて、全ての生徒の能力関数を集めて、それに統計処理を加えた物で表されるでしょう。

ここで私は、積極度という指標を新たに導入しましたが、これは、どのくらい一生懸命に頑張るか、を表す指標です。
積極度は、現時点では全く名前だけなので、これを客観的に数値化する科学を発達させる必要があります。
-
ohp14sp-13-4 次に、どの生徒がどの先生からどの学習種目を習うか、どの先生がどの生徒にどういう教育種目を教えるか、を決定するプロセスを説明します。

今回は、無料の私教育の場合の原理的な図式だけを提示して、小・中・高等学校で教員資格を行使して行なわれる公教育や、その他の有償の教育において、それがどういう修正を受けるかについては、論じない事にします。

まず、生徒と先生が別々に、自由意思に基づいて、志望順位を決めます。
先生は、どの教育種目を教えたいか、という形で志望順位を決めます。
教育種目とは、どの学習種目をどういうアマウンツの生徒に教えるか、定員は何人か、を指定するものです。
生徒の能力をどちら向きに伸ばすか、という事も、教育種目の指定と考えられますが、これは、学習種目に含まれそうです。
教育種目は、対象とする生徒アマウンツを内容として含むので、この事から擬人的に、教育種目は選択的に生徒を志望する、と考えられます。

全体としては、(最下部の円環図を指して)この図の様に、先生が教育種目を、教育種目が生徒を、生徒が先生を志望する、という循環形に成るのが本来のあるべき姿だ、と思います。
学習種目の人気や競争の激しさの定義に倣って、教育種目の人気や競争の激しさという物を定義できそうだ。

生徒と先生が互いに相手を差別しない事は、教育種目は生徒にはアマウンツ指定しかしない事と、生徒は先生をアマウンツのみで選択するという条件で、明文化できるだろう。
ohp14sp-13-5 全ての先生と全ての生徒が志望順位を決め終わったら、それに基づいて、次の条件から帰属関係を導き出します。

左上の図を見ながら見て下さい。
先生Tに入学しなかった生徒Sが、Tの生徒志望順位で、Tに入学した何れかの生徒よりも上位であるのは、Sの先生志望順位で、Tより上位の先生にSが入学できた場合だけである。

次は右下の図です。
生徒Sに就職しなかった先生Tが、Sの先生志望順位で、Sに就職した先生よりも上位であるのは、Tの生徒志望順位で、Tに入学した全ての生徒がSより上位である場合だけである。

これらの条件から先生対生徒の帰属関係は一意的に導き出されるだろう、と思いますが、証明はしていません。

生徒が先生に就かずに独学する事、を否定する物ではありません。

これは先生と生徒の間に種目が入っていないので種目を入れた形に改良する必要が有りますが、いずれにせよ数学の問題です。
「左上の図を見ながら見て下さい」は「左上の図を見ながら聞いて下さい」の誤りです。
ohp14sp-13-6 次に、授業のソレダケノモン的な構成を、説明します。

授業では、先生の言動は、生徒から参照されるだけです。
オリエンテーリングにおける地図やコンパスのごとくに、です。
それは、非常に重んじられるかもしれないし、非常に軽んじられるかもしれませんが、どちらにするか決めるのは生徒であり、先生ではありません。
ただし、軽んじた場合に悪い結果が出た、という過去の実例を生徒に見せる事や、どうしてそう成るかを説明する事は、先生の自由です。
先生の模範価値は、単なるお飾りではなく、ここで効果を発揮します。
先生の模範価値が高ければ、生徒は先生の言う事を信じ易く成ります。

最上段の表は、先生が〇△君の為に作った参考資料です。
何をどれだけやるか、の各々について、必要な積極度と、やり遂げた場合に見込める学習結果が表にしてあります。
積極度の書き方では、地震の震度の書き方を真似てみました。
例えばメニュー1について見ると、その内容は、1年間毎日時速10kmで30分間走る、という物で、〇△君の場合には、これを実行するのに必要な積極度は4であり、これを最後までやり遂げたら試合で1位に成る確率は10%、2位に成る確率は30%、3位に成る確率は60%だと思う、という先生の予想が、ここに書かれています。

(表の右下の灰色の人物図を指して)この人物図は、先生が実演するなどして、生徒に説明している様子です。
先生のする説明は、どういうトレーニングをすれば結果がどう成る、とか、試合でどういう技を使えばどういう貢献が出来る、という法則性について先生が信じている事の提示や、生徒がそれを知れば生徒の選択が変わるかもしれない様な事を生徒に知らせる勧誘、等です。
最上段のメニュー表は、どういうトレーニングをすれば結果がどう成る、という法則性について先生が信じている事を示す物です。
信じている事をそのまま提示する限りは、それが間違っていても反則には成りませんが、生徒に危機感や自信を持たせるために、信じていない事を信じていると偽って提示するハッパは反則です。
ソレダケノモン・ルールは、先生が生徒に特定の選択を強要・強制する事を否定しますが、勧誘行為まで否定するものではありません。
勧誘行為の許容範囲は、商業で販売員が行なう勧誘行為の許容範囲を模範とするべきです。
つまり、商業での押し売りに該当する行為は、授業でも反則と見なされるべきです。
また、ライバルの先生への対抗措置の許容範囲も、商業での商売敵への対抗措置の許容範囲を模範とするべきです。

(黒色の人物図の右手を指して)この部分は、ルームランナーが倒れない様に先生が手で抑えて生徒の練習を補助している様子を表しています。
学問の場合には、教室での板書しながらのレクチャーは説明と補助の両方を担っている、と言えるでしょう。

また先生は、生徒の状態をリアルタイムで観察し、それを頭の中で評価し、評価した結果を主に口頭で生徒に表示します。
これは先生がスピードメーターや心拍計等の他の計器類と同様の働きをする、という事です。

この様に生徒は、先生の言動を参照し、それを参考に何をどれだけやるか自分で選択し、自分の決めた事を実行します。
生徒が先生に不明点を質問する事も、参照に含まれるものとします。
学問の場合には、先生の説明を聞いて理解する事も、トレーニングの実行に属します。
これが生徒の守備範囲です。

先生は、説明、補助、観察・評価・表示の他に、110番や119番に関する事件の発生を未然に防ぐ監督を行ないます。
これが先生の守備範囲です。
これは、突き詰めれば正しい指導では何をしている事に成るのかを四角四面に言った物であって、その通りにやれ、という事ではない。
同等の事が出来ているのが理想だ、という見解です。
つまり、コンピュータプログラムに例えると、ここに書いてある事は機械語の様な物であり、実際の良い授業においては、これが潜在していて見えないのが普通でしょう。
また、容量的に出来ない事をやれ、という意見でもありません。
出来ない事を義務だとする意見には私は一貫して反対です。

先生の言動をどの程度重んじるか生徒が決めるので、先生の言動を軽んじた事によって悪い学習結果が出ても、その責任は生徒に帰せられます。
この事が、生徒は学習結果のみをアメ(賞)としムチ(罰)とする、というモチーベーション原理とセットで、先生の言動に対する生徒の評価に真面目さを与えます。
これが、実益を賞として与え実害を罰として課す、という邪道に取って代わるべき正道です。

この場合の生徒の責任は、それをどう思うか、までであり、悪い学習結果が出たら責任を取ってもらう、という様な意味では全くない。
悪い学習結果に対して先生が何らかの実害を罰として生徒に課す事は、学習種目のアマウンツを不正に水増しする行為と見なされる。

それでは罰が軽過ぎる、と思われるかもしれないが、そんな事は無い。
他人が自分の事をどう思うか、に介入は出来ない事と、馬鹿にされるのを防ぐ為に行なわれる不正行為の多さと悪質さ、を考えると、この罰は本人の感じ方次第では幾らでも重い罰であり得る。
生徒に実害を罰として課す、という先生の不正行為の動機も、ルーツは、馬鹿にされたくない、という事にある場合が多いわけだから。

自尊心の強い生徒にとって、学習結果が期待通りでない事は、先生が抱きしめて一緒に泣いてくれたとしても、そんな物は何の足しにも成らない、と思ってしまうぐらいに厳しい罰である。
神の怒りの様に厳しいこの罰は十分に厳しいので、それに加えて先生が罰を補う必要は無く、先生はただ、その厳しさをオブラートに包みながら小出しにするだけで、十分だ。
サンシャイン2057という映画の開始後2分14秒が経過した所から1分53秒間続くシーンが、その状況の喩として示唆に富む。

ここまで解き明かすと、生徒に実害を罰として課し、同時に、他人を馬鹿にしてはいけない、と指導する事は、馬鹿にされる、という罰から自分が逃れる為に、自分の負うべき事を他人に負わせる行為であり、一つ嘘を吐けばそれを隠す為に次々と嘘を重ねなければいけなく成る、という事情に似ている。

馬鹿にされる、という事は、人間が取って付けた人工罰ではなく、全ての人工罰を取り除いてもなお残る自然環境である。
心の中で馬鹿にする、という事は、意志に基づく行為ではなく、自然に湧き起こる感情だから、それを禁止する事は、その人に存在するなと要求する事であるのに対して、馬鹿にされる人間は、そういう要求をするなと要求されるだけであり、存在をやめろとまでは要求されないので、譲るべきは明らかに馬鹿にされる人である。
自分を馬鹿にしている他者の心という物は、鏡に写った自分の姿の様な物であるから、自分を馬鹿にする人を、その事を理由にして攻撃する事は、鏡に写った自分の姿に傷付いて鏡を蹴っ飛ばす事が八つ当たりであるのと同様に、八つ当たりである。
中には出来の悪い鏡もあるだろうけれど、鏡として出来が悪い事が、馬鹿にされた人に何か加害をした事には成らないのも、当然だし、また、鏡の出来が悪いから自分の姿がそれに歪んで映っている場合には、傷付きもしないし腹も立たないはずである。

何をどう思うかは、強要してはいけない、と言う以前に、強要(しろ、さもなければ・・・するぞ)によって変える事は心理学的・生理学的に不可能な代物なので、何をどう思うか、について義務を置けば、そこから先はずっと嘘の連鎖と成り、それは到底耐えれない鼻の曲がる程の悪臭ふんぷんたる物である。

笑うなという要求でも既に無理に近いのに、可笑しいと思うなという要求に相当する「馬鹿にするな」という要求が、正当であり得るわけがない。
可笑しいと思っても笑うな、という要求でさえ、それが正当であるのは、葬儀の場や手術室の中などの、例外的な状況だけだ。
ついでの話、これは、自分を馬鹿にした者に報復として
笑う事から始める陥れを行なう事に含まれる矛盾の指摘にも成っている。
そういう陥れを行なう者は、自分の笑った事を、それは笑っただけであり処罰や実害を与える報復の対象としてはいけないものである、という道理を利用しているが、馬鹿にするという心境はもっとそうなのである。

強要を超えて、薬物や拷問を用いて被害者の心身に直接的に介入し、被害者の、何をどう思うか、を改変する事は、心理学的・生理学的には可能な場合もあろうけど、それが越えてはいけない一線を越えた凶悪犯罪である事は、言うまでもない。

どう思うかだけでは罰が軽すぎる、とする態度は、どう思うかを脅迫や拷問によって改変しようとする意図に由来しがちであり、後者は、他人がどう思うかに自分が耐えれない事の表れだから、その意味で一周回って矛盾に達している。

自分はたったの馬鹿にされるだけでも嫌、それを防ぐ為に他人には馬鹿にされるだけでは軽すぎる、とする態度は、自己矛盾である。

何をどう思うかを変えろと要求する事は内面の自由や人権に対する不理解の最たる物であり以ての外だ、という私の主張を過ぎた潔癖主義だと批判する意見に対しては、それじゃあ何故セクハラの事はあんなに言うのか、と言い返したい。
特定の女に特定の男を好きに成れと要求は出来ない、というのは常識中の常識であり、私の言ってる事はこれと何ら変わらないはずなのに。
思うものは思うし、思わないものは思わないのだ。
それは他人からとやかく言われる筋合いの事ではないし、言われたからと言って変わる物でもないのである。

ともかく人は馬鹿にされないためにここまでしているのだから馬鹿にされるだけという罰は馬鹿に成らない

学習結果が悪くてもケロッとしている生徒には、罰効果は生じないが、それを補正しようと手動で罰を追加する事は、不正である。

先生が生徒にする説明には、自分の過去の生徒の実例を話して聞かせる事や、自分の経験や歴史上の人物についてのエピソードを生徒に話す事も、含まれ得ます。

先生の自分の経験は、自分が生徒だった時には、こうすればこう成った、とか、こうすればこう成ると一般に言われていて自分もそう思う、とか、自分はそう思わない、とか、自分がやってみると違った、といった事です。

「どういうトレーニングをすれば結果がどう成る」という部分では、「どういうトレーニングをすればどういう能力が身に着く」と言った方が良かった。

補助の代表例としては、腹筋運動で足首を浮かない様に抑えて助ける補助が挙げられます。
ルームランナーを倒れない様に手で抑える補助は実際には全く行われる事が無いでしょうけど、図の都合で、そう描きました。

先生による生徒の守備範囲への不当な干渉の例としては、生徒の‘何をどう思うか’への避難・侮辱・呵責が挙げられる。
先生や雇用者でなければ、この中の侮辱については許されよう。
2014年04月現在で、最近、学校教育で生徒に、特定の物や事や人を好きに成れ、という教育をしているらしく、これは変だ、という指摘をテレビで見た事があるが、この指摘はもっともだ。

愛国心等の、生徒が何をどう思うか、についての教育は、それを知れば生徒が先生の期待通りの思い方をする様に成りそうな事を知らせる、という範囲内で行なわれなければ、いけない。
逆に、その様な教育まで、愛国心教育だから、という理由で否定する事も間違いだ。

教育に限らず、子供に対してに限らず、強制できるのは、行為からであり、内面への強制力の介入は、人権侵害である。
内面の如何によって損をするのは、フェアな競争の結果を通してのみ、でなければいけない。

ohp14sp-13-7 冒頭で述べた様に、先生対先生の競争は、先生の守備範囲内での業績同士の競争でなければいけません。
先生の業績は先生のアマウンツの測定値と見なされます。
先生の守備範囲内での業績を一言で言うと、それは、生徒に及ぼした影響です。
先生対先生の勝負は、その影響が良い方に大きい人が勝ち、という風に決められるべきです。
先生の影響は、生徒の学習結果の高さとは異なり、生徒の能力の変化、ですらありません。
なぜなら、生徒の学習結果の高さや生徒の能力の変化には、生徒自身の努力や素質からの寄与も含まれているからです。
生徒の能力関数への変調が先生の業績だ、と考えられます。
つまり、先生が居た場合と居なかった場合の違いを見るわけです。

(悪い例の図を指して)従って、生徒対生徒の競争の結果をもって先生対先生の競争の結果とするのは誤りです。

(良い例の図を指して)こういうイメージが正しい、と思います。

先生が犯しやすい過ちは、生徒の成績や自種目の人気を高めるために、自分の守備範囲を超えて、生徒の守備範囲まで自分でやってしまう事でしょう。
この傾向は、先生の業績が、生徒の成績や自種目の人気で評価されるべき事ではなく、それらへの影響で評価されるべき事だ、という点をわきまえれば、おのずと抑制されるでしょう。
その影響が良い方に大きければ、その先生は優れた働きをした、という事に成り、その場合には、生徒の成績や自種目の人気が低くても、その事は、その生徒がそれだけのものだった、その種目がそれだけのものだった、という事を表すに過ぎません。

私の言う通りにすれば、その種目全体のレベルが下がりダラダラしたダラシナイものに成る、という批判が考えられますが、そう成るならば、その種目はそれだけのもんだった、という事です
ソレダケノモン方式でも、その種目自体に大きな魅力が有るならば、生徒はそれを熱心にやるはずです。
そうでない種目を熱心にやれと生徒に強制する事は悪です。
たるんだ自由は突き抜ける様な野心を生む。
これが最も正しい動機付けの在り方だ、と私は思います。

以上です。
質問を受けます。

生徒への先生の影響としては、能力関数への変調以外に、性質関数への変調も挙げられるべきだが、性質関数への変調については、どう変わるのが改善でどう変わるのが改悪なのかを評価する基準が、価値観に依存する。
1つの種目に限れば、同一結果を得るためにしてもよい積極度が上がる方が改善である事に異議は無いだろうけれど、ある種目への積極性が増加し、その分だけ別の種目への積極性が減少した、という変わり方については、その評価は自明ではないはずだ。

教育は、第一義的には、生徒が先生を用いる物であって、先生が生徒を用いる物ではない。
義務教育も、生徒の徴用であってはいけない。
悪い例では先生が生徒を用いているのに対して、良い例では生徒が先生を用いている。

因みに私は、下図(空手ではない)の様な経験をさせられた、という風な印象を、ものすごく受けている。

これは、悪い例の変形だ、と言える。
こういう悪の先生は、私をへこます為なら自分の生徒を犠牲にする事も辞さない、と考えている点で倫理的に間違っている。
もちろん、俺だって生徒なんだぞ、という事もある。
落ちこぼれや校内暴力の問題は、そうやって先生が見栄を張ったせいなのではないか。

先生が優れた働きをしても生徒の成績が低く成ってしまう理由としては、生徒や種目のアマウンツが低い事だけでなく、運が悪かったとか、不正行為の被害に遭った、という事も考えられる。
結果は確率的に出る物であって決定論的に出る物ではないので、運が悪かった場合は、誰のせいでもない。
不正行為の被害に遭った場合は、不正行為の行為者のせいです。

「そうでない種目を熱心にやれと生徒に強制する事は悪です」における悪は、冒頭で述べた、何らかの形で他人の物を盗る悪です。

左記の発言は16時15分16秒に終了した。


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講演概要


日本物理学会講演概要集・第69巻・第1号・第2分冊・460ページより。
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2014年03月30日撮影分@学会発表の実況@動画

質疑応答時間に入って、しばらく待っても質問やコメントは出なかったので、座長に一言断った上で補足コメントをした。
その内容は次の様であった。

補足コメントの内容 注釈
1 また、異なる教育種目を選択した先生間の業績を比較する自明な基準は存在しません。
選択した学習種目が同じであっても、です。
「先生の守備範囲内での業績を一言で言うと、・・・生徒自身の努力や素質からの寄与も含まれているからです」という部分に対する補足コメントです。
2 この他に、例えば、スーパー先生が居て、その先生の生徒の東大合格率は90%だけど、東大を卒業する前に30%の人が死んでいる、という事ではいけませんね、という観点も、先生の業績の評価基準に組み入れる必要が有ります。 「生徒の能力関数への変調が先生の業績だ」という発言への補足コメントです。
3 積極度や疲労は、その曖昧さが人権を侵害する手段としてトコトンまで活用し尽される傾向があるので、これを客観的に数値化する科学的研究が待たれます。
その逆の研究が人権学習という名の下に行なわれているのではないか、と私は疑っています。
労働の現場で、労働者がいくら一生懸命働いても、お前の働きは足りない、としらばくれられたり、労働者がどんなに怠けても搾取されていると言い続ける事が出来る、という状況を打開するには、こういう研究が必要かつ有効だと思う。
双方とも、するべき事をしたら「これで文句は無かろーが」と言える事が、人権の保障という物である。
4 また、名誉棄損や営業妨害に該当する行為は、授業でも反則と見なされるべきであり、抽象的には、競争を促進する行為は許されるが妨害する行為は反則だ、という言い方が出来るのではないか、と思います。
これはライバルの先生に対する対抗措置についてですね。
「ライバルの先生への対抗措置の許容範囲も、商業での商売敵への対抗措置の許容範囲を模範とするべきです」という発言への補足コメントです。
5 対象とする学習種目が同じであっても、対象とする生徒アマウンツが異なれば、教育種目としては異なるわけですから、そういう先生間の業績をどうしても比較したければ、新たに基準を案出する必要が有ります。 補足コメント1の続きです。
高アマウンツの生徒の指導で優秀性を発揮するには、先生の学習者としての優秀性が高くなければいけません。
そうでなければ、どちらが生徒でどちらが先生なんだか分からない、という種類の不適合が生じます。
これに対して、低アマウンツの生徒の指導で優秀性を発揮するには、先生の教育者としての優秀性が高くなければいけません。
どちらの先生が上なのかは、学習者としての優秀性と教育者としての優秀性のレベルの間に換算レートを置かなければ判断できない事です。
6 また、もっと高級な視点から言うと、学問の場合、ある地点から先は先生が居なくなり、生徒の業績はそこからです。
そこで、先生が居ない所を進む能力が教育によって鈍(なま)らされるのではないか、という懸念が生じます。
つまり、学習終了時の結果を高めようと先生が生徒に大きな影響を及ぼせば及ぼすほど、生徒のそういう能力を眠らせたままにする危険性が有る、という事です。
そういう種類のマイナスの影響が小さくプラスの影響が大きい事も、学習終了時点での結果までへの影響よりも、もっと高級なレベルでの先生の業績と言えます。
補足コメント2と共に、医療用語の「予後」に類似の観点です。
7 生徒を燃え尽きさせ、生徒から、その後の人生で使うために取っておかねばならない資源を、奪う教育をプラスに評価する事は出来ません。
というのは、これは、東大卒業までに30%の人が死んでいるという事ではいけませんね、という事に対する補足ですね。
補足コメント2の続きです。

補足コメントでは、推敲時に削除した部分を読んだので、順番が滅茶苦茶に成ってしまいました。
この後、質問が出て、次の様な質疑応答が行われた。

発言者 発言内容 注釈
五十嵐靖則先生 この研究の狙いって何ですか?
宇田雄一 狙いというのは、日本の、とは言わないけど、世界中の教育を、より正しい物にする事によって、より良い物にする、ある人が別の人を食い物にする事が無い様にする、その様な不幸が世の中から無くなる様に、その事に少しでも力に成ればと思い、発表しました。 食い物にする、という犯罪よりは、自分には無い他人の良い所を殺す、という犯罪に対する対策として発表しました。
「少しでも力に成れば」の所は「ものすごく力に成れば」と言えば良かったな、と後で思った。
金城啓一先生 ポストテスト、プレテストの様な、前の段階でどうだった、終わりの段階でどうだった、という事だけでなく、最終的な目標行動が一体どこにあるのか、それが適切であるかどうかをキチンと議論しなければ意味が無い、という事を先生(宇田)が強く思われているのかな、という風にお聞きしたんですけど、そう考えてもよろしいでしょうか?といった意味の質問。
宇田 ちょっと全部は把握し切れませんが、先生(金城)の御意見の中の‘教え過ぎるな’という部分はですねえ、最後に補足しました‘もっと高級な視点’という部分に該当するかなあ、と思います。
そういう意味ではですねえ、「そう思ってよろしいでしょうか」に対して、「はいそうです」という事なんじゃないか、と思うんですけど。


発表前の準備で作ったメモの中から、発表時間の制約の為に割愛した部分を、以下に書き出しておきます。

今回は、学習種目としては、個人種目の場合を念頭に置いたが、団体種目で修正すべき点が直ぐには思い浮かばなかったので、個人種目の場合についてだ、とは断らなかった。
深くは、結局は、また、強い者が勝つのではいけない、というアンチな思想に体罰の根がある。
私の言う通りにすれば、素晴らしい人がますます素晴らしく、くだらない人はどんどん差をつけられる、という事に成る。
これに対して、くだらない人にヤキゴテを当てて素晴らしい人を見返してやろう、という邪なコーチが出て来る、という事だ。
ohp14-13-7についての私の発言に対する注釈欄の「悪い例の変形」を、私はそういう風に見ている。
弱い人にヤキゴテを当てて強い人に勝たせる事は、強い者が勝つ事よりも、明らかに醜い。
これが、強い者が勝つのではいけない、というアンチな思想の正体であり、弱い者を如何にして勝たせるかの部分は、隠さねばならない様な、公言できない様な悪行だ、というのが、たいていは真相である。
これは、悪者が善なる敵を悪者に仕立て上げ、自分は正義の味方に成りすまし、もっと悪い事をやり果せる事の、一例である。
選手が素晴らしくなければ、オリンピックは素晴らしくない。
観客は選手の素晴らしさに憧れるために見るんだから。
選手が馬鹿にされ貶められるのはオリンピックにとってオウンゴールだ。
選手の何が素晴らしいのか、自由意思の下での行為。
苦しくても途中で止めなかった、というのは自由意志に属するが、苦しくても止める事が出来ない様に束縛されていた、となると、それは自由意志ではない。
普通に暮らしていて、何かの事故で、体が何かに挟まって、その結果自由意思によってではなくした運動が世界記録でも、そういうのは災難と考えられる。
こうやって考えて行くと、結局、私の言う様な事に行き着く。
自由主義というのは、成り行きに任せる、成るように成る、ということ。
意志の力でしてもよいのは自分の事だけ。
それがトレーニングの究極のスタイル、ソレダケノモン方式につながる。
高級な視点:合意の貸し借り
生徒が後々に成って、強制されてよかった、と思うケース。
13日@2013年01月@日記20日@2013年01月@日記の歯磨きの話の部分。
入学試験によるマッチングは、ここで述べたプロセスを具現するための実際的な方法ですが、しかし、第1志望の学校の試験に落ちたので第2志望の学校に行こうとしても、第1志望の不合格を知る事が出来るタイミングが、第2志望の締め切りの後である場合もある、という欠点や、試験日が重なっていて両方を同時に受験は出来ない、という欠点が、現行の試験制度にはあり、その分だけ具現が不完全です。








2014年03月28日午前06時54分頃、ホテルの自分の部屋のドアを内側から開けようとして、開ける事が出来なかった。
サムターンを回しても、写真(
即達の2014年03月28日の記事にも掲載されている)の様にサブ・バーが退かなかったので、ノブを引いても開かないと思い込み、ノブを引かなかったからだ。
 
ホテルの職員に来てもらって説明を受け、職員立会いの下での確認をせず、職員を帰らせた後で確認すると、やはり開かなかったので、もう一度来てもらった。
今度は、07時10分頃までに、私が自分で要領に気付いて、開ける事が出来た。
サムターンを回してもサブ・バーは退かないが、その状態でノブを引くと開くのだった。
もし、私がこの様に早期に自分で開け方に気付かなかったとしたら、おかしいじゃないか、という事で、私とホテル職員との間で口論が発生していた可能性がある。
口論に成らなくても、フロントを何度も呼び付けてしまう可能性が有った。
このドアのこの異常な構造は、改装等の言い訳を用意しての事ではあろうが、宇田が自分の事実誤認を原因として非の無い他者を責めアチコチで揉め事を起こしている、という事実を捏造し、それを理由にして私を精神病院に入れたり警察に逮捕させたりする事、を狙っての罠だと思われる。
(多分2002年頃Yahoo!掲示板に、確か「天才の部屋」というタイトルだったと思うが、そういうトピックが在った。トピ主が水野晴郎氏の顔写真かそれに似た顔写真をプロフィール写真として表示していたトピックだ。そこでトピ主から、私の1986年の三鷹の下宿での石油ファンヒーター騒動について、全部宇田が悪かった様ですね、と尋ねられた時に、私が全く返答しなかったのは、この文脈を背景としての事だ。自称天才の私を誹謗中傷ではなく歓迎の体裁を持って迎えてくれた、という意味で、そのトピ主には私は今でも好感を持っている。もっとも、自分は天才だという主張を真に受けてのトピックではなく、あくまで天才意識は錯覚であるとの認識を前提としたトピックであっただろうとは当時から思っていたが。これとは別の場で、私が何度も返答しなかった事を理由に、意思疎通不能者というレッテルを私に貼った者が居るが、その時に私が返答しなかったのも、同種の問題を背景としての事であり、私が意思疎通不能者だったからではない。その時には、答えれない様にした上で尋ねる、という態度が相手に見られた、という事もある。)
ドアを開ける事に成功して直ぐに私は、フロントに朝食を取りに行ったが、その帰りにエレベーターから出る時に、私が出るのを待たずにエレベーターの出入狭口を同時に通過する様にフロアから入って来る通行嫌がらせを他客がした。
罠不発のカバー(セカンドチャンスを狙った罠)だろう。
フロントで朝食を受け取る時に、私の部屋まで来て説明してくれた佐藤B作風の小柄中年男性職員はそこで電話していたが、これは罠不発の報告に見えた。
あるいは、電話対応で手が離せない所で私に苦情を言わせ、それを電話対応というホテル業務への妨害行為だとし、その声を電話の相手に聞かせて証人とする、という手口も考えられる。
その筋の人には、過去のそういうケースについては、全て蒸し返して調べ直してもらいたい。
07時18分頃までに、416号室内の私に、屋外で誰かが「怖い」と言う声が聞こえた気がする。
これも、鍵の変則的な構造が罠だった事の証拠と見なせる。
あまりに悪質な犯罪においては、被害者を確実に取り殺さなければ、被害者という生きた証拠が出歩いている事に成り、証拠隠滅が出来ていないので、犯人は怖いと感じるはずだ。
このホテルのロビーに掛けられている絵の中の電車の前面には110と書かれており、110番つまり警察が犯行に加担しているらしい事が、暗示されていた。

2014年03月28日と29日は、学会には出席せず、千葉県の旧住所周辺に記憶確認に行った。
その際に何件か不審事が有ったので、それらを以下に書く。
2014年03月28日京葉線市川塩浜駅で降りて昼食を取り、午前11時40分発の行徳行バスを待ったが、来なかった。
バス停の前のコンビニで弁当を午前10時29分頃に買ってバス停付近で食べ、食べた後も少なくとも数十分はバス停を見張っていたが、乗りたいバスの次のバスが来たので、そのバスの運転手に尋ねると、最寄りの公衆電話から自分で問い合わせて下さい、と言われた。
バスに備え付けられているはずの通信機で問い合わせてくれないか、と依頼したが、発車まで時間が無いので、という理由で断られた。
私は、市川塩浜駅から東西線行徳駅まで歩いた。
2014年03月28日13時30分頃、JR津田沼駅7番バス乗場で標識の内容を見て新習志野駅行が出てない(事前にインターネットで調べた際には出ている事に成っていた)事を確認した。
私は自分の旅程を、自分のパソコンと自分の携帯電話にしか保存していなかったので、この事から、それらは盗み見られているらしい、と推測できる。
2014年03月29日午前09時14分頃、東海道線東京行が急停車するのを同車車内で経験した。
車内の非常レバーが使われたため、というアナウンスがあった。
午前09時15分39秒頃に再び動き出した。
急停車のタイミングは、今急停車すれば宇田が自分の携帯電話を周囲の物や人にぶつけてしまうだろう、と思われる様なタイミングだった。
非常レバー以外では、運転手以外がそういう時間精度で急停車を起こすのは無理だろう。
つまり、車内で問題を起こして連絡を受けた運転手にブレーキを踏ませる、とか、運転手に電話を掛けてブレーキを踏ませる、という方法では、タイミングをピッタリ合わせる事が出来ない。
その分だけ、私の様子に合わせて非常レバーが引かれた、と考える事の自然さが増える。

2014年03月29日午前06時30分から午前06時35分に掛けて、ホテルのロビーのパソコンで、そのホテルのオフィシャルサイト, Google検索「宇田雄一」, Yahoo! Japanと、3つ連続アクセス失敗し、「このページは表示出来ません」というエラーメッセージを見たので、フロントの職員に声を掛けて、そのホテルのオフィシャルサイトを出してもらった。
私によるアクセス失敗から1分も経っていなかったと思うが、職員がアクセスすると何事も無かったかの様に正常に表示された。
「私が壊したと思われるといけないので声を掛けた」と言っておいた。

私が「ネットに繋がってない、という事は無いですよね」と質問すると、職員は、「このぺージは表示出来ません」というエラーメッセージが出ているので、繋がっているけどアクセス先のサーバーが正常に機能していないケースだ、と答えたので、その職員は、アクセス障害を目撃している。
青年までの男性にはIT知識で見栄を張る傾向が有る、という事を利用した罠の気配を、その職員の応対から感じた。
だからというわけではないが、私は、自分の無知を隠さない点では臆面の無い態度を貫いたので、全く危なげ無かった。
この件にも、私が使い始める前から故障していた物を私が故障させた事にされる危険性以外に、アクセス障害の発生自体が私の勘違いであったとされる危険もあった。
それを狙っての故意人為のアクセス障害だった、と私は確信している。

2014年03月30日の午前07時34分までに、ホテルの館外だがホテルの直ぐ近くのコインランドリーで自分の衣類の洗濯と乾燥を行なっていた際に、黄色刺繍入り黒色頭巾の小柄女性(赤文字入り黒ウェア上下たぶんアディダス、緑ネック縁赤白シャツ、赤バッグ)が後から来て、私にライターを借りた。
性別については、たぶん女性、とまでしか言えない。
これなんかは、ライターをすり替えて私に返し、私の指紋付きのライターをどこかの犯行現場に置かれる危険性や、私に返すライターに予め危険な化学物質や細菌を付着させておく可能性が指摘できる。
このコインランドリーには、その前にも別の女性が来たが、こちらは明らかにセクハラ取り狙いだった。

2014年03月30日午前11時05分台に、1号館1階休憩室内で、小銭を数える口実で嫌がらせ騒音発生が始まった。
口腔不快音も出されていた。
午前11時34分台には、自動販売機のコンプレッサー音が一斉に出来るだけ増加された。
温度センサーに基づく自動制御の結果であれば複数の自販機が揃って一斉にこう成る事は無いはずなので、遠隔操作でコントロール出来る様に成っている事をハッキリと感じた。
昼12時09分頃、意識的に聞いてみて、大変な量の妨害音声が出されている事がよく分かった。
これ以前に学校内でハッキリそう意識した事は無かったが、思い返してみると、私が学生だった頃にも大学構内で似た事が身の回りで起こっていた気がする。
ただ、その頃の私は、それを陥れとは思わなかっただけだ。
そう言えば、空き教室の机で自習している時に、友人(複数だったと思う)から「大丈夫か?」と声を掛けられた事があった。
それが周囲の喧騒についてであると私には分かったが、その時の私は、自然にそう成っている、との認識に立脚していたので、「大丈夫だ」と返答して自習を続けた。
声を掛けて気遣ってくれた友人は、私の神経の太さに呆れる、という意味の感想(否定的なニュアンスは無かった)を独り言風に一言つぶやいて去った。
また、これも私の学生時代の事だったと思うが、学外で、東京でだったか実家付近でだったか、近所のおばさんから「あなたは周りの喧騒が気に成らなくて良い(得な性分だ)ね」と声を掛けられた事があった。
その時も、気に成らないのは不思議だ、と思われるぐらい濃密に嫌がらせが私に仕掛けられていた、という事だろう。
このおばさんのこの発言を私が今でも覚えている、という事は、この発言から私が何らかの解せない印象を受けたからであり、その事は、嫌がらせが存在していた、という仮説に対する正の証拠と見なせる。
何ら不審な点が無い発言は、聞いても直ぐに忘れる物である。

2014年07月01日に、このページを執筆するために、2014年03月27日のTG会場での自分の発表の録音を聴き返してみて、明白な妨害音が含まれている事、に気付いた。
そう言えば発表中にもそう思ったのを思い出した。
この音を無視して発表を続行する事が誰にでも簡単に出来るわけではない類の物だった。
音14の音声ファイル, 父のハサミ音

時刻 音色 発言文中の位置
13時50分11秒頃 爪切りのパチンという音に似た音 音1
13時50分29秒頃 音2
13時52分39秒頃 爪切りのパチンという音に似た音 音3
13時52分53秒頃 爪切りのパチンという音に似た音 音4
13時52分56秒頃 無声音での「くそー」という言語発声ではないか。 音5
13時53分13秒頃 不自然な鼻で笑う声 音6
13時53分18秒頃 爪切りのパチンという音に似た音 音7
13時53分19秒頃 爪切りのパチンという音に似た音 音8
13時53分21秒頃 爪切りのパチンという音に似た音 音9
13時53分23秒頃 爪切りのパチンという音に似た音 音10
13時53分27秒頃 爪切りのパチンという音に似た音 音11
13時53分47秒頃 爪切りのパチンという音に似た音 音12
13時54分16秒頃 爪切りのパチンという音に似た音 音13
13時54分26秒頃 爪切りのパチンという音に似た音 音14
13時54分31秒頃 爪切りのパチンという音に似た音 音15
13時54分36秒頃 爪切りのパチンという音に似た音 音16
13時54分40秒頃 無声摩擦音発声 音17
13時54分45秒頃 爪切りのパチンという音に似た音 音18
発言文中の位置は、文字起こし文中に、記入しておきました。
発音タイミングについては、盗聴によって事前に私の口述予定文を入手しておき、自前のセオリーに従って効果的なタイミングで発音している、という事が、有り得ない話ではない。
最近のNSAスキャンダル的な文脈で考えれば、十分に有り得る事である。
[音6][音7][音8]の発音タイミングなんかは、その事を物語っている。
まるで、私が次のスライドに切り替えるタイミングを知っているかの様だ。
この他に鼻すすり音が多数回聞えました。
鼻すすり音は、私の主観では嫌がらせ音や妨害音にはあまり感じられないが、客観的には嫌がらせ音や妨害音でしょう。
この音も、過去の私の経験において多数回、いぶかしく登場しています。
その中で最も顕著な例は、大学の量子力学の先生が常習的に発していた鼻すすり音です。
もちろん、生理不調のためでは絶対にない、と私は考えている。
爪切りのパチンという音に似た音も、過去に多数回経験しました。
その中で最も顕著な経験は、
私の写メール投稿ブログ「即達」の2013年11月10日の記事の写真を撮影した後、歩いて自宅まで帰る途中に、Google地図での位置=34.562795, 133.402423の道路の東に隣接する民家のうちの2つから同じ音が発せられたのを聞いた経験だ。
2つの家のどちらも、夫らしい人が縁側に座ってこの音を出し、その直ぐ傍の庭に妻らしい人が立ってこっちを心配そうに見ていた。
2件が全く同じフォーメーションだった事が、トレーニングの結果らしい事を示唆する。
また、Google地図での位置≒34.560186, 133.404338の畑から草刈り機の騒音を出した男とその妻のフォーメーションも類似だった。
2013年11月10日の写真撮影後の帰り道では、爪切りのパチンという音に似た音を聞いた後、Google地図での位置≒34.560737, 133.402856を歩行南進の瞬間に東方至近の民家から突然ピアノの音が発せられた。
父の仕事での金属薄板を切るハサミ音も、会場での妨害音に似ており、私が聞こえる位置に来た時に、父が嫌がらせ目的で多用する。
リンク先の音声ファイルは、2014年07月18日に、私の自室の階下の父の仕事場の父の椅子の付近で父が発した物を、2Fから階段の上端に出て直ぐの位置で私が録音したものだ。
従って、音源とマイクの距離が結構離れている。
自宅北に隣接する畑で母の姉(岡井姓)が、ハサミ音を出す事も多かったし、その他の人がその他の場所で不審にハサミ音を出すのも多数聴いた。
1986年秋に私が大学に出なくなって下宿にこもった時、隣接する庭に植木職人が来ていた。
その時にハサミ音が出されていたか否かは覚えていないが、他の例で植木の手入れを口実にハサミ音が出される例は幾つもあった。
当時は気付かなかったが、今考えると、間違いなく陥れる為に来ていた、と分かる。
植木職人が来た、という事以外にも、色々と思い当たる事があるからだ。
植木職人による植木の手入れ、という行為は、無駄な枝を切り落として整える、という意味で、無駄な人を切り落として整える事を暗示していると思われ、この認識は、甚だしい思い上がりである。
参考:
即達 > 2013年10月11日の記事即達 > 2013年11月10日のもう一つの記事

2014年03月30日昼12時50分頃AG会場で、蛍光灯が十分に消せない様にスイッチが割り当てられている事を知った。
蛍光灯は黒板に垂直に3列あって、そのうちの最も窓側の列は消されていた。
この列は、液晶プロジェクタのスクリーンのある列だ。
中央の列と廊下側の列は連動しており、中央の列だけ消す事は出来ない様に成っていた。
蛍光灯のスイッチは、壁に3つあったが、窓側、中央+廊下側、黒板灯の3つだ、と参加者の1人から聞いた。
元は違ったのではないか、と疑った。
スクリーンの列が消せないと、全部消そうという事に成り、中央と廊下側が別々だと、廊下側だけ点ければよいと言われる可能性がある。
それだと中央消灯だからスクリーンを十分に妨害出来ない。
以上の計算による工作だろう、と思った。
これは、私が発表する前に思った事だ。
事実、
私の発表の動画では、天井の蛍光灯の効果で、スクリーンの映写内容が判読できない。

2014年03月30日AG会場では、発表前に、古文書館の資料は撮影が禁止されている、という意味の事を言う人が居て、スクリーンに映った古文書館の資料を撮影してはいけない、というルールに気付かされた。
それだけかと思ったら、その後、座長から、古文書館の資料だけでなく他の発表も撮影してはいけない、という話を聞いた。
言われて黒板を見ると、撮影禁止の貼り紙がしてあった。
録音も禁止だ、と言われるに及んで、証拠隠滅の意図の存在を確信した。
念のために尋ねて、自分の発表を自分で撮影する事はOKだ、という返答も得ておいた。
その時には、今回のこの会場に限ってではなく、今後はだ、という風に聞いたが、その後、次回以降については分からない、と言われた。
私は、他者の発表の質疑応答時間にコメントする際に、自分のしゃべっている間だけICレコーダを録音状態にして録音する、という事をした。
不便過ぎる。
その場では従ったが、録音は禁止できないのではないか、という疑問を今でも持っている。
NHK「クローズアップ現代」で隠し録音についての報告を見た際に、面談においては相手に無断で密かに録音する事ですら違法ではなく、それは盗聴とは異なる、という事情を知った。
記録の是非は、その弊害と証拠隠滅の弊害とのバランスにおいて考える必要が有り、片方の弊害だけを偏重する事が間違いであるのは勿論の事だ。
この観点から言って、音楽演奏ならともかく、言語表現を内容とする公会議の発言を録音させない事に、何らかの正当性があるとは到底思えない。

2014年03月30日AG会場では、猪本修氏による30pAG-3「物理概念獲得の制限要因としての言語運用能力と数学的記述力」が講演取り消しに成っている事を、黒板の貼り紙で知った。
毎回こういう貼り紙を目にする。
先述した1号館1階休憩室内での出来事から類推して、今回は、それらの講演取り消しは、嫌がらせ工作による陥れにどこかで引っ掛かったためではないか、という風に思う様に成った。
以前から少しはそういう風にも思っていたかもしれないが、今回は、この人の発表内容も考え合せて、特にそう思う様に成った。
講演概要を見ると、中等教育での理科嫌いや理科離れの原因は理科の数学的側面にある、という既存の指摘への反論と超克が予定されていた様だ。
講演概要には、数学はむしろ支えに成る、という意見が書かれている。
私は、これを、正しそうだ、肝心な点について良い事を言ってそうだ、と思う。
この意見を不都合とする者達が、発表を妨害したのではないか。
理科教育ではもっと実験をしろ、という主張の人気が、こういう風にして作られているとしたら、それは大変な醜聞である。
この人の言う通りだとすると、数学を生徒から取り上げて、生徒を手も足も出ない様にして、生徒が賢く成り過ぎない様に、負のコントロールをしようとする隠された意図が、教育界に及んでいるのではないか、と勘ぐってしまう。

2014年03月31日午前11時50分頃、姫路駅で新幹線の改札を出る際に、私の前を歩いていたオレンジ色キャリーバッグの客(薄茶色上着、焦げ茶色ズボン、薄茶色靴、黒小ショルダーバッグ背負い)が、改札を出て直ぐに改札の出口を塞ぐ形で止まり駅員と交渉を始めた。
私は、寛容にも、その人が去るまで改札の入口で改札に入らずに待ち、その人が去ったので改札に入ろうとすると、向こう側から乗車客が私より先に私の前に入って来て、私を退かせた。
私にとってはもう珍しい事ではないが、この嫌がらせには、私が知らない多数の人が連携している、という特徴も出ている。

類例としては、次の様な事も有った。
2014年03月29日午前08時13分頃、小田原駅改札を入る際に、青春18切符を駅員に提示する為に私が出る客を待つと、私を無視して次の出る客が駅員にコンタクトし、それを見て私は「すみません、こっちも待ってるんですけど」と駅員に声を掛けたが、駅員はそれを無視し、その代わりに割り込み客の1人の女性が私の声に反応して、私が退けないと通れない所を故意に通って、私を退かしながら改札を出た。
この嫌がらせの被害を最小限に留めて改札を通過した後、私の受けた被害が自分の期待していたよりも遥かに小さい事を悔しがる物らしい年配男性の咳き込み(改札通過時の事象を嫌がらせだとする私の解釈の正当性を裏付ける)が改札の内側の離れた場所から発せられる、のを聞いた。
この件では、駅員が嫌がらせに協力している、という点で2014年03月31日午前11時50分頃姫路駅新幹線改札での件との共通性が見られる。
店舗のレジでの支払い時に同様の割り込み嫌がらせで店員が協力するケースも、私は多数経験している。
ここまで10行程度執筆アップに応じて、2014年05月10日昼12時51分頃、屋外至近距離から草刈り騒音嫌がらせが始まった。(
参考1,参考2)

私が行く予定の店舗等の施設に何者かが先回りして嫌がらせを手配しているらしい、という事情に関連する事としては、広島県福山市神辺町新湯野3-39-6に在るBOOKOFF神辺店の正面出入戸を出て直ぐ携帯電話で怒鳴り付ける様な口調で「ここの店長は子供店長だから言う事を聞かない」と言って不満をぶちまけている非常に小柄な中年男性を屋外から目撃して不審に思った事が数年前にあった。

2014年04月01日昼12時23分頃、岡山駅構内の食堂sereno店内で食事をしていると、店外構内に、Kenny Rogers風の中年男性が立って、私の様子をうかがっているらしいのが見えた。
この男性のいでたちは、オレンジ刺繍入り黒帽子、白タオルを首に掛け、赤っぽい格子入りシャツ、青ジーパン、白靴、オレンジバッグ、黒っぽいサングラス、白ヒゲ、大柄で太り気味、という物だった。
先述の黄色刺繍入り黒色頭巾やオレンジ色キャリーバッグとの共通性が、私には気に成った。

不審事以外については、2014年03月28日には、千葉県に住んでいた頃によく行ったJR新検見川駅最上階の軽食喫茶店が無くなっている事を、確認した。
2014年03月28日には、JR稲毛駅近くの稲毛図書館から旧住所まで、そこに住んでいた頃と同じコースを歩いてみて、道順を思い出した。
2014年03月28日の移動経路は全体としては、小田原→東京→市川塩浜→徒歩→行徳→西船橋→津田沼→徒歩→津田沼→稲毛→徒歩→新検見川→秋葉原→東京→小田原だった。
2014年03月29日の移動経路は全体としては、小田原→東京→新習志野→徒歩→茜浜緑地付近→徒歩→新習志野→海浜幕張(自転車を借りた)→幕張メッセ→花見川遊歩道→幕張メッセ→海浜幕張(自転車を返した)→東京→小田原だった。
2014年03月29日はJRの改札を入る時に青春18切符にスタンプを押してもらっていない事に、2014年03月30日に成ってから気付き、2014年03月30日または2014年03月31日に駅員に申し出たが「今からでは押せない」と言われた。
その後、青春18切符の使用期限までに5日分全部を使い切る事は無かった。


最終編集2014年09月22日