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日本物理学会2009年春季大会における私の発表は、物理教育についての28aYE-4「物理チャレンジ・オリンピックの報告を見ての感想」と文法物理学についての30pSF-8「量子論の新文法のエネルギー不定性問題」の2つだった。

2009年3月26日夜高速バスで福山を発ち翌朝27日に新宿に着いた。
宿泊は池袋のサンシャインプリンスホテルで、27日チェックイン、30日チェックアウトだった。
高速バスで行くのなら福山を出発するのは27日夜で良かったのだが、ホテルの予約を取る段階では、まだ新幹線を考えていたので、チェックイン日を27日にしてしまった。
旅行中にデジカメで撮影した写真をブログにアップしておいた。→
即達

今回は、28aYE-4についても30pSF-8についても、OHPには講演概要をほとんどそのまま掲載した。
これは、今までの発表経験によって、(私自身もそうなのだが)聞いている人は講演概要には必ずしも目を通していない、という事が分かったからだ。
OHP09sp-13-2の「IQ試験とも違う」という部分だけが、講演概要と異なっている。

28aYE-4では、付言しながら講演概要を読み上げる、という形を取った。
付言内容は発表前に予めメモしておいた。
実際の口述内容はメモに書かれていない部分を若干含むので、実際の口述内容を以下に書いておく。
「どういう方向に難しくするか」について、「上の学年の問題に走る」とか「理論物理学の特定の能力に偏っている」という方向に成っていて、「理論家の賢さ」というものの方向に難しくするのが正しいと思います、と付言した。
「行き過ぎた難しさ」について、「学習進度の観点から行き過ぎている」と思います、と付言した。
「理論問題が理論物理学の問題に成っていない」という部分について、もともと理論物理学のテストのつもりではない、と言うのなら、テスト全体が実験物理学に偏っている、実験物理学と理論物理学が別だとは思わない、と言っている様な人に、理論物理学の問題は作れないだろう、理論物理学の問題を出すつもりならば、出題者はもっと理論家のやっている事を見た方が良い、明日小林さんと益川さんの講演なんかがあるみたいですから、それなんか手掛かりに成るかもしれません、と付言した。
「理論物理学は理論を問題に適用する営みではなく理論を構築する営みだ」という部分について、理論の適用力を試すテストで勝った者は理論の構築力も優れている、一事が万事だ、という可能性もあるが、それだったら、大学入試で良い点を取ったやつは良い研究者に成る、という従来型の認識に戻り、コンテストの意義の断念と成る、後で「それならば大学入試問題とは質的に違うんだとは言うべきでない」という所が出ます、と付言した。
「そういうテストで高得点を上げた生徒も素晴らしいとは思うが」について、「ほんと、驚くほど素晴らしいと思いますけどね、それも」「そういうものだけが優秀性ではない」と付言した。
「物理に関して最も将来性のある高校生を決定する試験とも言うべきではない」について、権威付けられた試験は人を否定する作用を持つ、たとえば、自分には理論物理学の才能があり、物理オリンピックは理論物理学のオリンピックではないから、それには出ない、とのたまう高校生が居たら、その人はどう言われるだろうか、という事だ、物理オリンピックには理論問題があるから、理論物理学の才能が一番の人は、それで一番に成った人であって、あなたも含めてそれ以外の人は、それ以下だ、という風に使われてしまう、そんな事言ってないよ、と言うかもしれないが、あなたが言わなくても、そういう風に使われる、物理オリンピックや物理チャレンジについてではないが、大学入試の成績について私は十代の頃に似たような事を経験している、と付言した。
ここからは付言内容ではありません。
私は、学力試験の様なものを全否定しているのではない。
学力試験では世界一の才能は測定できないけれども、世界一の才能を持った生徒でも、学力試験で問われる様な能力を全く鍛えなかったなら、その人は世界一の業績を残すには至らないだろう、と思う。
また、私は総じて学力試験の成績が悪かった、のでもない。(上記の大学入試の成績は悪かった)
私は学力試験の成績では世界一でも日本一でもなかった(※1※2)が、私の学力試験の成績が並だったわけではない。
※1私には、高校生の時に全国模試で1位に成った事があるが、その模試の対象は京都大学志望の高校2年生に限定されていた(東大志望の人は受験していなかった)し、1位に成ったのは1度だけだった。
※2また、試験とは別に時間制限無しで私の解けない高校数学の問題を解く高校生(その様な人は大人に成ったら普通の人の100倍の収入を得て当然だ、と私は思う)は日本国内に常に存在していた。
ここまでが付言内容ではありません。
「最も抽象的なレベルで」という部分について、必要とされる賢さは時代と共に常に変化しており、アインシュタインの賢さですら時代遅れだ、今はアインシュタインの賢さとは種類が違う賢さが求められている、だから、どういう賢さを測定するのかを、あまり具体的に特定し過ぎるといけない、むしろ未知の新しい賢さを発掘するぐらいのつもりで臨まなければいけない、出題者の世代の賢さを時代遅れとするような賢さを発掘するわけだから、被験者の能力の次第によっては、自分は出題者よりも賢いんだ、という事が表現できる様なものでなければいけない、それは、最高でも「良く出来ました」、なテストではない、どう転んでも被験者を出題者より上には置かない、という態度ではいけないのだ、それなのに、今までの物理チャレンジと物理オリンピックでは、被験者が出題者に敵わないような能力しか測定されていない、天才というものは高校生のときに既に出題者を超えている、自分の生徒を選ぶ試験ではなく、自分の先生を選ぶ試験だと思って問題を作ると良い、自分たちが既に持っている優秀性はあまり評価せず、自分達にまだ無い優秀性を最高度に評価する、という態度が正しい、私には、20才ぐらいの頃学校の先生から、「理屈ッポ過ぎる」と言われたり「宇田君は優秀だけど時々変な事を言う」と言われたりした事があり、これらを言った先生方の態度はその正反対の態度だ、という点で非常に問題だと、言われて直ぐに思った、という経験があるので、物理チャレンジや物理オリンピックの先生方も、多分にそういう傾向を持った人々なのではないか、という事を懸念している、これ「理屈ッポ過ぎる」とか、過ぎた部分だけが意味があって、それ以外の部分は意味が無い、ほんとはね、それから、「優秀だけど時々変な事を言う」というのは、ほんとは、「たいていは単に優秀に過ぎない事しか言わないけど、時々それを超える事を言う」というのが、ほんとだ、と付言した。
「多面的に」という部分について、既存の多くの分野に渡って、という事ではない、最も抽象的なレベルで特定された理論物理学の能力要素の色々について、という事、物理法則がもし現行のものでなかったとしても業績を残せるような能力を測定すべき、ただし、1つでも欠けていればいけない、と考えるのではなく、1つでも優れていれば良い、と考えるべき、と付言した。
「IQ試験とも違う」という部分について、「IQ試験とか違うという部分についてはですね、IQ試験は速さと正確さの競争であるのに対して、ここで求められているのは、そういうのではない」と付言した。
「理論家の賢さに当たる部分は全て問題文に書かれていて」という部分について、例えば物理チャレンジ2008年第2チャレンジ第1問3番の中には「アインシュタインは・・・同じでなくてはならないと考えた」という、こういう部分「これぞ理論家の賢さだ」という部分なんですが、それは問題文に書かれている、あるいは、冒頭の断り書きに「一見難問にみえても、よく読むとわかるようになっています」という事は、賢さの部分は問題文に書かれている、という事ですね、と付言した。
「これぞ理論家の賢さだと言われるべき考えは一生かかって一つ出るか出ないか」という部分について、また、そういう理論家の賢さなんて、無くて当たり前、有ったら天才、という類のものでもある、しかし、世界一を決めるテストなのだから、無くて当たり前、有ったら天才、みたいなものを競っても、問題ない、世界に少なくとも一人は、そういう高校生が居るはずだ、その人が一番に成れないならば、テストが間違っているという事だ、と付言した。
「上の学年の問題に走る」という部分について、自主的に教科書を先まで読んでいる高校生を高く評価する、という事なら良いが、特訓だか合宿だかで詰め込むと聞いて、どうかと思った、また、教科書を先まで読んでいる、という事は、重要な優秀性だが、それだけが唯一の優秀性なのではない、最重要でもなかろう、予備知識は全て取得した後で競う、という事なら、それには意味がある、けれど、上の学年の問題で競ったところで、全て学び終えた段階で競っているわけでもない、その点から言っても、上の学年の問題を出題する事は、単なる難度の吊り上げにしか成っていない、と付言した。
ここからは付言内容ではありません。
上記の私の付言内容は、広中平祐さんの
「英才教育を考えた場合、例えば数学でいえば、高校程度の数学でひねくった問題を作って落とし穴を作れば、大学の先生でも簡単には解けない問題がいくらでもできる。しかし、それがどんなに難しい問題であっても、あくまで高校の数学の域を出ていないのである。受験問題が難しいということと、レベルが高いということとは違う。どんなにレベルの低いところでも難しい問題は作れるわけである。低いレベルのところで、難しくして競争する英才教育と、できる人はどんどん程度の高い学問をするということとは、少し質が違うわけである。日本ではどちらかというと、前者の傾向があり、とても惜しい気がする」
という意見に賛成だと、かつて私が自分のウェブサイトのどこか(今はそのページは閲覧出来ません)に書いていた、という事実と矛盾する、という風に一見思われるかもしれない。
しかし、それは矛盾ではない。
私の考えは、学習努力・教育活動は低学年難問の解決能力向上に行き過ぎる事よりも学年を上に進む向きに能力を伸ばす様に為されるべきであり、逆に素質・才能測定は学習到達度測定に成らない様にすべきだ、というものだ。
その点、難関中学受験にまつわる事情に関しては、教えられずして解けるか、という事をやるならば、素質・才能測定としてそれには非常に意味がある、と私は思うが、学習努力・教育活動の対象と成っている、という実態に対しては、低学年難問の長所を殺して短所を活かそうとしている、と言わざるを得ない。
ここまでが付言内容ではありません。
「予兆を検出する事は出来るかもしれない」という部分について、けど、やっぱり無理かもしれない、それが出来るか出来ないかが、この種のコンテストの存在意義を大きく左右するだろう、その種の能力を端から測定対象から外す事は、この種のコンテストの有意性を断念する事に等しい、と付言した。
「ネタ切れの問題」について、面白く言うと、単元の個数しか問題を作れない、という事です、と付言した。
「防犯上の問題」について、誰かが暴力事件を起こすとか言う事ではなくて、何でも良いから一つ新しい事を言いなさい、という出題だと、本に書いてあった事や先生から教えてもらった事を覚えておいて、それを自分の意見として言う、という犯罪の防止が難しい、防犯上の問題以外に、トンデモ性を嗅ぎ分ける鋭い嗅覚が採点者に要求される、という点で、採点者の人材確保も難しい、と付言した。
ここで、私は、先生から教わった事や本に書いてあった事を自分の考えとして述べる事を犯罪だと言ったが、それは、そのような行為がルールで禁じられた場合に限っての話であって、受け売り一般を犯罪だと言ったのではない。
最後に、提案として、インターネット掲示板を使っての討論課題というのはどうでしょうか、これだと受け売りをしたら馬脚が現れ易いので防犯上良い、で、リアルタイムで世界中の人が閲覧できるようにしてはどうか、ええ、それで、あと問題としては、母国語の違いによる有利不利の違いが生じる、という問題を、どうするか考えねばならないが、と付言した。

講演概要

28aYE-4
日本物理学会講演概要集
第64巻
第1号
第2分冊
405ページ。
OHP 

OHP-13-1


OHP-13-2


OHP-13-3


質疑応答時間に質問は出なかった。
休憩時間に参加者の一人から質問された。
私(宇田)の口述が良く聞き取れなかったので口述用のメモを見せてもらえないか、という事と、私の発言の内の「物理オリンピックには理論問題があるから、理論物理学の才能が一番の人は、それで一番に成った人であって、あなたも含めてそれ以外の人は、それ以下だ、という風に使われてしまう」という部分について、試験を改良するよりも、そういう言い方を誰もしない社会を実現する方が正しいのではないか、というコメント等だった。
メモは、快く貸して、その日のうちに返してもらった。
コメントに対しては、私は率直に「そうかもね」と答えた。
後で考えてみると、自由にものの言える社会というものがやはり大切なので、間違った言い方に対しては、それに対する反論を強化するしかない。
その人は、私のホームページを読んでくださっていたらしく、私(宇田)が学生時代に力学の論文を書いた、と書かれていました、と言ったので、私は、論文誌に載ったわけではありませんよ、とコメントした。
後で調べてみると、確かに私は「論文」という言葉を使っていた。→
宇田英才教室 > プロフィール > 履歴 > 学生時代
そう言えば、
物理学正典についても訊かれたのだった。
おおよそ、次のような会話だったと思う。
相手:全部自分で書いたのですか?
私:極論すると、そう言うためには、生まれてから今まで他人の話を全く聞いた事が無い、というのでなければいけない。
相手:では本を読んで書いたのですか?
私:はい。しかし、物理学正典は非常に独自性が強いものなので、極論しなければ、全部自分で書いた、という言い方で良いと思う。
相手:目次は全部自分で書いたのですか?
私:はい。目次は普通は著作権の対象に成らないと考えられるらしいが、私の目次は著作権を主張したく成る様な出来でしょう?
おおよそ、ここまでのような会話だったと思う。
私がどういう本を読んで勉強したかは、
物理学正典 > アドレスバイキング > 書籍ページの最右列に書かれている。
2009年3月28日には、私は、午後のセッションにも参加した。
28pYE-1で、私のウェブサイトに部分的に内容の重複する記事が存在する事を指摘した、のを思い出す。→
物理学正典 > 相対性理論正典 > COM-3-1
28pYE-10では、私は「UPO-NETが完成したら学校というものは無くなるんですか?」という質問をした。
2009年3月29日には、私の発表は無かったが、小林さんと益川さんのノーベル賞記念講演というものがあったので、28日や30日と同様に立教大学池袋キャンパスまで出向き、11号館地下1階のZA会場で、それのライブ中継を視聴した。

30pSF-8でも、付言しながら講演概要を読み上げる、という形を取ったが、こちらの付言の量は少ない。
OHP09sp-sr-1で、Φが解に成っているという話はまだしていないが「・・・同じ量子歴史を表す」という話は既にしたので今回はしない、「このΦを良く見てみると、・・・」の部分からが今回の本論だ、という意味の事を付言した。
OHP09sp-sr-2の「上記のΦは新文法版シュレディンガー方程式の解でありかつ解でない、という事に成りはしないか、という問題」について、それがどういう問題なのかを付言した。
それは、Φ[χ]=exp{(i/h)α∫dt[pχ(t)−Et]}は新文法版シュレディンガー方程式の形式的な解に成っているが、Φ[χ]=exp{(i/h)α∫dt pχ(t)}は新文法版シュレディンガー方程式の形式的な解に成っていない、しかし、両者が同じ汎関数だとすると、その汎関数は解でありかつ解でない、という事に成る、という問題だ、という内容の付言だった。
OHP09sp-sr-2の「既存の量子力学の波動関数の時間への陽な依存性によって何らかの物理的な状況が表されている場合私の新文法ではそれを表現する術が無い、という事に成る、という問題」について、既存の量子力学の波動関数の時間への陽な依存性によって何らかの物理的な状況が表されている場合がある、という事を認めての発言ではなく、そういう場合がもしあるとすれば私の新文法ではそれを表現する術が無い事に成る、という意味だ、と付言した。
また、そういう場合がある、という考えは、量子力学の理論形式が完成するまでの過渡期に現れたもので、完成された量子力学の抽象的なベクトル空間を用いた定式化は、そういう場合は無い、という考えに与する、と付言した。
つまり、そういう場合が有るか無いかについては、私は意見を述べていない。
従って、今回の発表のテーマである「私の新文法ではEの項は何の役にも立っていないのか」という問題に対して、何の役にも立っていない、というのが正解だと分かったとしても、それが即刻私の新文法の破綻を意味するわけではない。
この問題で私の新文法を破綻させるためには、Eの項が何の役にも立っていない、という事と、既存の量子力学の波動関数の時間への陽な依存性によって何らかの物理的な状況が表されている場合がある、という事の両方が、立証されねばならない。
私は、既存の量子力学の波動関数の時間への陽な依存性によって何らかの物理的な状況が表されている場合が有るのか無いのか分からないので、念のために、そういう場合があるとしたらどうなのかを問題として挙げた、だけだ。
OHP09sp-sr-3の「∫dt[pχ(t)−Et]が有限値と成らなければいけない」という部分について、ものすごく形式的に考える時には、それが発散する場合についても、∫dt[pχ(t)−Et]を無限大という一つの数と考えて通す場合も有るが、そうではない厳密主義的な考え方をしてみる、という意味の事を付言した。
OHP09sp-sr-4の「新文法版エーレンフェスト定理の証明(JPS2008秋23pSP-10)等の法則レベルの議論を定義域を考慮に入れた形に厳密化できれば、その考えには見込みがある」という部分について、
JPS2008秋23pSP-10で与えた証明は厳密なものではなく形式的なものに過ぎない、という意味の事を付言した。
最後に、既存の重力場の量子論は、古典時空を与えてそこからのフラクチュエイションを量子化する、というものだと思うが、OHP09sp-sr-3の「χ(t)=f(t)+(E/p)t」は、直接には時空の話ではないが、時空の古典部分とそこからのフラクチュエイションの量子化の両方を単一の量子論から同時に導き出すための、ヒントに成りはしないか、と思う、という意味の事を付言した。

講演概要

30pSF-8
日本物理学会講演概要集
第64巻
第1号
第1分冊
20ページ。

English
OHP 

OHP-sr-1


OHP-sr-2


OHP-sr-3


OHP-sr-4


質問時間には、百瀬勝久さんから、現在という時点で実験したら新しい過去が作り出されてしまう遅延選択実験というものが有るが、そういう場合に量子歴史はどうなるのか?という質問が出た。
それに対して私は、そういう解釈上の問題によって私の量子歴史の新文法が反証される可能性はあると思う、と答えた。
すると百瀬さんは、追加的に、量子力学にとって歴史というものは有るのか?という質問を私にした。
これに対しては私は、私という人間が私の新文法仮説とイクオールなのではないが、私の「量子論の新文法」という仮説は、量子論にとって歴史はある、という仮説だ、と答えた。
ここでの私の発言は、遅延選択実験というものを私が知っていて、そういう事が確かにある、という事を私が認めていての、それに基づいての発言、ではない。
私は、遅延選択実験という言葉を、百瀬さんの口から初めて聞いた。
その言葉と説明を聞いて、私は、それが観測問題に属すると判断し、私自身、もし私の新文法が話に成らないぐらい間違っているとすれば、それは観測問題の辺りでだろうと、かねてから思っていたので、上記の様に答えた。
現在という時点で実験したら新しい過去が作り出されてしまう、という事がある、という風に、私が信じているのではない。
有り得ないと確信しているのでもない。
私という人間が私の新文法仮説とイクオールなのではない、とは、私は、今発表している具体的な新文法を一つの可能性として検討しているだけであって他にも色々な可能性を検討すべきだと思っている、その内の特定の一つの可能性を現実だと固く信じているわけではない、という意味だ。
後で思い出したが、私の新文法ではEPRが時間方向に起こるはずなので、現在という時点で実験したら新しい過去が作り出されてしまう、という可能性については、既存の量子力学よりも私の新文法の方が、それを許容し易いのだった。
30pSF-8では間違った事を言ってしまった。
Eの項がΦの定義域を定めると考えればEの項は無意味ではない、という考えは正しいが、OHP09sp-sr-3の8行目の(E/p)tが古典解に対応する、というのは間違いだった。
なぜなら、E=p^2/(2m)のときにはE/p=p/(2m)は粒子の速度ではないからだ。(粒子の速度はp/m)
したがって、OHP09sp-sr-3の「χ(t)=f(t)+(E/p)t」は、直接には時空の話ではないが、時空の古典部分とそこからのフラクチュエイションの量子化の両方を単一の量子論から同時に導き出すための、ヒントに成りはしないか、という付言も間違いだ。
しかし、ひょっとすると、相対論的な理論では、この不都合が起こらないかもしれないので、その点を後で調べてみようと思う。

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最終編集2014年09月27日