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< 日本物理学会2008年秋季大会 >

日本物理学会2008年秋季大会における私の発表は、2008年9月20日の岩手大学上田キャンパス教育学部2号館1階162教室での午前10時30分から午前10時45分までの物理教育についての20aRA-1「密度を積分すると質量に成るのは何故か(3次元の場合)」と、2008年9月23日の山形大学小白川キャンパス教養教育3号館1階312教室での16時から16時15分までの文法主義物理学についての23pSP-10「新文法版シュレディンガー方程式と新文法版エーレンフェスト条件の関係」の、2つだった。

まず、物理教育についての20aRA-1「密度を積分すると質量に成るのは何故か(3次元の場合)」について述べる。

発表会場に早めに着いたので、五十嵐靖則さんと彼の発表内容(20aRA-5)について話をした。
熱という語の使用はエネルギーの移動の種類を表す目的に限定されるべきで、エネルギーの種類を表すために熱という語を用いるべきではない、という彼の意見には私は全く同意した。
これは、熱エネルギーという用語に対する批判だ。
しかし、用語の習得というものは、それ自体の合理性からだけでなく、他人の言ってる事が分かるように成らなくてはいけない、という観点からも考えなくてはいけないので、熱エネルギーという語が既に広く通用しているからには、学習過程に熱エネルギーという語が入っている必要はあるだろう、という点を私はコメントした。
それと、どうしても誤解の余地を無くしたければ、熱力学特有の用語を用いず力学用語だけを用いて話をすれば良い、ただし、それだと、統計力学を伏せて熱力学について語る、という語り方は出来ないが、という事も私はコメントした。
彼の発表内容のうちの他の部分については、その時は、間違ってはいないかもしれないが特にヒットしているわけでもない、と感じたので、非常に懐疑的なニュアンスを込めた口調で「う〜ん、いいかもしれない」とコメントした。
ただし、こういう感じの事をこの人が言いたがるように成った、というのは、とても良い事だと思う。
何事も目指さなければ始まらない。
確か、以前はこの人は気の利いた簡易学生実験の提案みたいな事に向かっていた、のではなかったか、と私は記憶している。
別の人だったかなあ?
五十嵐さんは、発表時に参加者から、分子の並進の運動エネルギーを分子の回転や振動のエネルギーと区別している点が良くない、という意味の指摘をされていた。
どれも分子を構成する原子の運動エネルギーであるという点で本質的には同じ、という事だろう、と思って、私は、その指摘を聞いた瞬間に、その指摘に頭の中で納得した。
後で考えてみると、振動の自由度のエネルギーには、運動エネルギー成分だけではなくポテンシャルエネルギー成分も含まれていた、と思うが、それでも、五十嵐さんの言う事よりは、その参加者のその指摘の方が、より正しいだろう。
私は、その日の内には、五十嵐さんの言う事が間違っているとは、ハッキリは分からなかった。
発表前に、五十嵐さんから、熱としてのエネルギーの移動は、分子の並進の運動エネルギーのみを通して起こるのであって、分子の回転や振動のエネルギーを通して起こる事は無い、という意味の事を聞いた時も、その辺りの事を良く思い出せなかったので、それを否定できず、非常に懐疑的なニュアンスを込めた口調で「そうでしたっけ?」としか言えなかった。
後で考えてみると、五十嵐さんのその意見は、たぶん間違っている。
温度の異なる物体を接触させたときに、温度の高い方の物体の分子の並進の運動エネルギーが、温度の低い方の物体の分子の並進の運動エネルギーに変わるだけで、それ以外の形態でのエネルギーの移動というものは無い、というのが、五十嵐さんの意見なわけだが、分子と分子の衝突を原子と原子の衝突に還元して考えれば、分子の回転や振動のエネルギーも、そこで移動するだろう。
「そうでしたっけ?」と言ったときには私は、言いながら、そういう描像が脳裏をよぎったが、でも温度の定義は分子の並進の運動エネルギーで出来ているから五十嵐さんの言う通りかなあ、と迷った。
この問題についての、最もスッキリした理解を、ここに示しておく。
それは、エネルギー等分配の法則の観点からの理解だ。
五十嵐さんの考えだと、エネルギー等分配の法則を成立させる種類のエネルギーの移動は各物体内部でのみ起こる、という事に成る。
しかし、これは間違っていて、本当は、高温の物体から低温の物体への熱としてのエネルギーの移動においても、エネルギー等分配の法則を成立させる種類のエネルギーの移動が、起こっているはずだ。
この種のエネルギーの移動は、ポテンシャルエネルギーについては、もう少し考えてみなければ分からないが、分子の並進の運動エネルギーと分子の回転や振動のエネルギーが互いに他に移り変わる、というものでなければ、ならない。
そうでなければ、エネルギー等分配の法則は成り立たないはずだ。
高温の物体内部でも低温の物体内部でもそういうエネルギーの移動が起こるが、高温の物体と低温の物体の接触域ではそういう事が起こらない、なんて事があるはずない。
量子論的には自由度の凍結という現象はあるけれど、ここでそれが議論の対象と成っているわけではなかろう。
エネルギー等分配の法則の観点から言えば、分子の並進の自由度のみが特別とは見なされず、温度の定義としては、1自由度当たりのエネルギーの平均値、を使うのが良かろう。
温度の定義は、気体分子運動論に由来するため、3自由度分のエネルギーの平均値を使って為されているが、それを、あまり、分子の並進の運動エネルギーだ、とは考えない方が良いのかもしれない。
どの自由度の、とは特定せずに、1自由度当たりのエネルギーの平均値×3ぐらいに思っておいた方が良いかもしれない。
その点に気を付ければ、五十嵐さんのような誤解(温度測定では分子の並進の運動エネルギーを測定しており分子の回転や振動のエネルギーは温度測定にはかからない、という考え)は生じないはずだ。
エネルギー等分配の法則が成り立つ以上、マクロな温度測定に関しては、どんな測り方をしても、特定の自由度のエネルギーの平均値だけを測っており、他の自由度のエネルギーの平均値は計っていない、と言える保証は、何処にも無い。
高温の物体から低温の物体への熱としてのエネルギーの移動と、異なる自由度間のエネルギーの移動を、まとめて、どちらもエネルギーの等分配が実現される過程だ、という風に統一的に理解すると、スッキリすると思う。
この辺りの認識が学生時代の私にとって既知であったか否か良くは思い出せないが、五十嵐さんの話を聞かなければ、少なくとも今私がこういう事を考える事は無かったろう、という意味において、良い刺激だったと思う。
発表前の空き時間での私と五十嵐さんの会話では、熱エネルギーという言い方に対する批判のついでに、電気エネルギーという言い方に対する批判にまで、話が及んだ。
電気エネルギーという言い方も実はおかしい。
正真正銘の電気エネルギーという事に成ると、それは、クーロン力のポテンシャルエネルギーの事か電磁場の持つエネルギーの事だろう。
しかし、我々が普段電気エネルギーと呼んでいるものは、クーロン力のポテンシャルエネルギーの事でも電磁場の持つエネルギーの事でもない。
発電所で発電機に為された力学的仕事が電気エネルギーに変えられ、その電気エネルギーが送電線内を通って家庭まで運ばれ、それが家庭の扇風機で力学的エネルギーに変えられる、という描像は、実は間違っている。
送電線内には電子流体が流れていて、それがエネルギーを伝達する、というのが、本当だ。
こう言っても、まだ、やはり、それは電気エネルギーが流れている、という事ではないか、と思うかもしれないが、送電線の代わりにホースを使い、中に水を流し、発電機の代わりにポンプを使い、扇風機も水力式にしたらどうだろう?
ポンプは力学的仕事を水エネルギーに変えた、と言うだろうか?
言わない。
水エネルギーって何よ、それ?って事に成る。
水と電子では違う、と思うかもしれないが、正の電荷が止まったままか動くかが違うだけで、それらを近似的な非圧縮性流体たらしめているのは電気力だ、という点においては違わない。
水エネルギーとは言わない、だから、電気エネルギーという言い方も変なのだ。
物理専門でもこの考え方を知らない人は多いはずだから五十嵐さんもたぶん知らないだろう、と思って、電気エネルギーという言い方も実はおかしい、と私が切り出したら、五十嵐さんは、その通りだ、知っている、という意味の反応を示した。
そこで、その続きを聞いてみると、五十嵐さんは、我々が普段電気エネルギーと呼んでいるものも電磁場の持つエネルギーだ、送電線内のエネルギー流は電磁場のポインティングベクトルだ、という意味の事を言ったので、私は、またしても、非常に懐疑的なニュアンスを込めた口調で「そうかなあ?」と言った。
送電線内には電磁場だけではなく荷電物質(電子)も詰まっているから、それは違うんじゃあないか、と私が言っても、五十嵐さんは、やはり、送電線内のエネルギー流は電磁場のポインティングベクトルで間違いない、という意味の事を言ったので、私は「そうかなあ?」を繰り返した。
送電線内を電子が移動していれば、電磁場のストレスエネルギーテンソルに由来するポインティングベクトル以外に、電子のストレスエネルギーテンソルに由来するエネルギー流も存在するはずだ。
それに、その時には私は気付かなかったが、五十嵐さんの意見は、送電線内を流れるのは電磁場のエネルギーである、電磁場のエネルギーを電気エネルギーとは呼ばない、だから送電線内を流れるのは電気エネルギーではない、という意見だという事になるが、上に書いたように、私の言っているのは、そういう事ではない。
その時には、私は、仮想的に電子間にクーロン力しか働かない場合を考えれば、厳密には現実と違うけれども、それがこの問題の本質です、クーロン力だけならポインティングベクトルはゼロですよね、という風に説明しながら、2つのプーリーにベルトがかかっていて、ベルトの部分が数珠つなぎに成った電子であるように、図を描いて見せた。
片方のプーリーを駆動するものが発電所の発電機に相当し、他方のプーリーが負荷だ、という風に説明した。
ベルトの内力は張力でなくてはいけないがクーロン力は斥力だから、この例えは上手くない、という事も言ったかもしれない。

私の発表に関しては、講演概要原稿を書く段階では、私はまだ証明をやっていなかった。
その後、発表当日までに証明をやってみたところ、証明は思ったよりも簡単だった。
そこで、発表本番は「ガッカリさせるとゴメンなさい、なんですが」と言う事から始めた。
それに続いて、大学初年級の問題であること、密度を積分して質量を求めるという技法は大学初年次の学習のどこに出てくるか、などを前置きとして述べた。
さらに、私が分からなかっただけでなく、その点を分かるように書いた解説記事も見た事がない、という事と、大学初年次の学習内容には、高校数学と高校物理を非常に優秀な成績で修めても、それだけでは準備として不十分である、と感じさせるようなものが、この他にもいくつも含まれており、優等生にとっても高大接続の不連続性というものが存在する、という事を前置きとして付け加え、本論に入った。
本論としては、まずOHP-13-1を提示して、「x,y,zをデカルト座標とし点(x,y,z)での密度をρ(x,y,z)とするとき、何故∫dx∫dy∫dzρ(x,y,z)つまりρ(x,y,z)をzで積分し得られた結果をyで積分しさらにその結果をxで積分すると質量に成るのか?」という問題についての発表である事、および、「∫dy∫dzρ(x,y,z)が何を意味するか分かればそれをxで積分した∫dx∫dy∫dzρ(x,y,z)が質量に成る理由も分かりそうだが∫dy∫dzρ(x,y,z)が何を意味するか分からない。∫dzρ(x,y,z)が何を意味するか分かればそれをyで積分した∫dy∫dzρ(x,y,z)が何を意味するのか分かりそうだが∫dzρ(x,y,z)が何を意味するか分からない」という風にボーッと頭の中で思い浮かべて行き詰まりキチンと書きながら取り組む事はまた後になってからで良いや、と考えるだけの状態に、私は長い間(初めて疑問に思った18才の頃から41才に成った今まで)留まっていた事、を述べた。
次に、OHP-13-2を提示して、第1行目の式の意味を説明し、それが質量である事は密度の定義から言える事、および、第1行目の式が最終行の式に一致する事を示すのが目標である事、を述べた。
第1行目の式の意味としては、x軸を長さ凅の区間無限個に分割し、各区間に番号を付け、i番目の区間の中点のx座標をxiとした事、yやzについても同様である事、を述べた。
それから、第1行目の式が最終行の式に一致するのは何故か、の説明に入った。
その説明の内容は基本的にはOHP-13-2に書かれている通りだが、口述としては、第2行目から第3行目に移行するときと、第4行目から第5行目に移行するときと、第5行目から最終行に移行するときに、1次元の場合の微積分学の基本定理を使った、という事を述べた。
積分範囲を省略しているので不定積分と同じ書き方に成っているが、ここで登場した積分は全て定積分だ、という事も述べた。

講演概要

20aRA-1
日本物理学会講演概要集
第63巻
第2号
第2分冊
338ページ。
OHP 

OHP-13-1


OHP-13-2

それで発表は終わりとし、質疑応答に入った。
質問としては、まず金沢喜平さんから、積分記号は∫dx∫dy∫dzρ(x,y,z)ではなく∫∫∫ρ(x,y,z)dxdydzと書くべきではないか、という質問が出た。
それに対して私は、高校数学では後者だけが用いられるが大学では前者も用いられ、大学高学年では前者しか用いられなくなる、という風に答えた。
すると金沢さんが、概念が違うような気がする、と言ったので、それを受けて私は、概念的には前者は∫dxや∫dyや∫dzという演算子が左から作用している、という考え方を反映している、と述べた。
その際に私は、ジェスチャーとして誤って腕を自分から見て左から右に押すように動かしたので、相手から見るとそれは「右から左に」というジェスチャーに見えたはずだ、という事に後で気付いた。
それを受けて金沢さんは、抽象化した記号法ということですか、と述べたので、それに対して私は、抽象度は後ろに付けるものと前に付けるもので同じだと思う、後ろに付けるものに比べて前に付けるものの方が抽象的であるとは思わない、と答えた。
次に勝木渥さんから「OHP-13-1の第3式ではρ(x,y,z)として線密度を考えれば良いのであって、3次元密度をまずzで積分し次にyで積分し、という風に考えて行くのは屁理屈である。宇田の言ってる事は当たり前の事であるから、宇田が自分で勉強して自分で納得すればそれで良いことであって発表には値しない。だからと言って、発表してはいけない、というわけではないが」という意味のコメントを頂いた。
見た人でも、ここを読まなければ分からないかもしれないが、顔には出さずとも私はこれには非常に腹を立てた。
単に言ってる事が正しいのにそれを間違ってると言われただけ、ではない、態度についての妥当しない批判だ、と感じたからだ。
もちろん、批判だから腹を立てた、という事ではない。
特に、屁理屈という言葉は、もし屁理屈でなかったら切腹する、というぐらいの慎重さをもって用いるものだ、と私は心得ている。
屁理屈という言葉に対するそういう理解を、この人(勝木さん)からは微塵も感じなかった。
私は、自分の発表内容が自明であり公的な意義を持たない可能性を認めていたが、この人(勝木さん)にとっては自明ではない、という事を、勝木さんの発言を聞くだけで十分に見抜いたから、その批判は妥当しないものだ、と私には分かった。
私のこの考えの方が正しくて、勝木さんの発言の方が間違っていた、という事は、この後を読めば分かる。
勝木さんの批判に対して私は「全く私的な事項であって公的な意味は無いかもしれないと懸念していたので、それが本当であれば、謹んで御批判をお受けするしかない」と答えた。
すると勝木さんは「僕の言った事を良く反省して考えてみてください」と言った。
私は、こちらが何か譲ればその分だけ付け入って来るとは図に乗っているな、と感じて、さらに腹を立てたが、その事は表情にすら出さず、正しい言葉だけを言うように心がけた。
その人(勝木さん)に対して、言葉の正しさこそが最も厳しい報復であるはずだ、と私は知っていたからだ。
(そして、結局、その様に成った。)
私の返答に続いて勝木さんは領域13についての一般論を述べ始めたので、その話の切りの良いところで私は「ちょっと言いたい事あるのでいいですか」と言って反論を開始した。
そして「OHP-13-2が当たり前であるので公的な意味を持たない宇田個人の問題だろう、というのなら分かるのですが、OHP-13-1を見るだけで当たり前であるというのは納得が行かない。OHP-13-1の第3行目でρは線密度じゃないし第2行目でρは面密度じゃない」と私は言った。
すると勝木さんは「ρ(x,y,z)と書かれたものは実は面密度のことなはずです」と言ったので、それに対して私は「違います」と言った。
それを聞いて勝木さんは「じゃあ、これ以上はいいです」と言って発言を終了した。
「これ以上は」と言ったところを見ると、これまでにした批判も覆された事に成る、という事が、どうやらこの人には分かっていないらしい。
私は「ということであれば、やっぱし公的な意味も持つのかなあ、分かっておられない方も多いのかなあ、と思う」と言った。
他にも、他の参加者から「単位体積当たりの質量という密度の概念やOHP-13-1の第2行目や第3行目が概念として何なのか、概念を確定して行く統一的作業の方が大切。数学的な技術は問題によってデカルト座標が便利な場合もあれば極座標の方が便利な場合もあるから」というコメントを頂いた。
これに対しては私は、密度を積分すると何故質量に成るのか、という問題よりも、密度とは何か、という問題の方が重要だ、という意見だと思ったので「概念の方が重要だと私も思うが、技術について学生がつまづく可能性もあるので、技術について発表した」とコメントした。
ついでに言うならば、技術については今回私が発表した部分が既存の教材に欠けているが、概念については既存の教材に欠点を私は感じない。
後で気付いたが、この参加者の意見は「証明をOHP-13-2のようにではなくOHP-13-1の第2行目と第3行目の意味を明らかにする事によって行うべきだ」という意味だったかもしれない。
(え、まさか、私の発表をデカルト座標で積分を実行する技術についてだと誤解してのコメントではなかろうなあ。極座標の方が便利な場合もある、ということを理由に挙げている点が、どうしてそれが理由になるのか分からないので、その可能性もあるとは思うが。)
OHP-13-1の第2行目と第3行目の意味を明らかにする事によって証明を行なうのは良い事だ、と私も思う。
が、私が長らくこの問題を解決できなかったのは、そういう方向でしか考えなかったためだ。
誰かがそれをやって「大学の物理教育」誌にでも発表すれば、私は拍手したい。
極座標の話が出たが、密度を積分すれば質量に成る事の証明を、極座標については別個にやらなければいけないのか、それとも、デカルト座標で証明されていればその結果を利用できるのか、という点が、問題だと思う。
最後に座長の並木雅俊さんから「学生のつまづきを少なくする事は非常に意味のある事だが、どこでつまづくかが問題であり、そこでつまづくという事が統計的に裏付けられている場合に比べて、発表者個人が学習時にそこでつまづいたから、という理由での発表の公的意義はちょっと薄いかな、と思う」という意味の事を、述べた。
これに対して私が言葉を返す時間は与えられなかった。
休憩時間に並木さんに話しかけたが、並木さんは用事があって私と話す時間を取れない、とのことだった。
二回ほどそのようなことがあった。
私の意見としては、一つには、今回私が発表した箇所が学生がつまづく箇所なのかどうかを会場で確認したかった、という事と、つまり、確認した後で発表すべきとは限らず、確認するために発表する、というのもありだろう、という事と、もう一つには、コメディアンがネタを考えるのに客が何を笑うかの統計調査に基づいてネタを作っても、ろくなものは出来やしないだろう、という事、つまり、統計調査をするには、それに先立ってチェック項目として何を選ぶかが問題で、それは統計調査のみによって決められるものではない、という事だ。
発表会場で参加者に尋ねて、密度を積分すると質量に成るのは何故かが、多くの参加者にとって答えられないような事項だったならば、私の発表は公的な意義を持つし、多くの参加者にとって自明だったならば、私の発表は無価値だった、という事になる。
発表前に、自明である可能性に気付いたが、それでもどちらなのかハッキリしない、と判断したので、私は発表した。
勝木さんに対する私の発言に「それが本当であれば」という語句が含まれているのは、そのためだ。
そのような私の判断はしばしば他者を買いかぶっている事に当たる場合が多い、という事も自分で分かっている。
今回もそうだった。
手応えとしては、自分の発表は発表に値するものだった、と感じている。
自分から「当たり前かもしれない」と言い出さなかったら、そうだそうだ、と言い出す人も出て来なかったろう。
なぜなら、そうだそうだ、と言い出した当の本人にとって、そうではなかった、からだ。
発言は、自分にとって当たり前であるか否かの正直な判断に反しない範囲で行なわれなければいけない。
私の発表したセッションが大した影響力を持つとは思わないが、物理教育について発表する最も正式な場所の一つなのだから、そこで、当たり前でない事を参加者の面目勘定で当たり前だという事にしてしまえば良い、という態度が見られたならば、学生の名誉や便益が教育者の面目勘定によって不当に侵害される可能性を、真面目に危惧せざるを得ない。
教育者が、出来て当たり前のラインを自分の面目の都合で勝手に釣り上げたら、その分学生の名誉と便益が侵害されるからだ。
教育者が、自分には分からない、自分には出来ない、自分には出来なかった、という情報を正直に出し合えば出し合うほど、それは学生に優しい学習環境につながる。
その点、並木さんも、自分にとって当たり前(だった)か否か、は一言も言わなかった。

日程の都合で、20pRAと21aRAと21pRAも見学した。
21aRA-7にコメントしたのを思い出す。
「どこが物理教育なんですか?」という風に質問した。
それに対する発表者の返答を私は否定はしなかったが、それを聞いても私は、どこが物理教育なんだろう、と思ったままだった。
しかし、日を置いて後で考えてみて、それも物理教育かあ、と思えるように成って来た。
あぁあぁ45度って何よ(条件次第で色々な角度に成るでしょ)とか色々思ったが、スポーツの力学をスポーツ実践者に教えスポーツ成績が向上した、という大意は評価してあげなくてはいけなかった。
2008年9月20日に応用物理学会から来た人とRA会場で知り合い、2008年9月21日にRA会場でその人とまた会った。
20日にその人から物理学会のポスターセッションに誘われた、のを覚えていたので、21日に私はその人と一緒にポスターセッションに行って、それがどういうものかを初めて知った。
その際に私はその人に、21aRA-7で言われていた右手の法則は、正確なものではなく、正確にはもっと混濁したものに成るだろう、と言った。
この言葉の意味は、回転する車輪の角速度ベクトルの向きは、軸の向きが変化している最中では、正確には軸の向きとは異なる、という事に起因する複雑性が法則に混入する、というものだったが、混濁という言葉だけでは伝わってなかったようだった。
21pRAでは勝木渥さんが発表していた。
そこで杉並病という言葉を聞いたので、ホテルに帰ってから携帯電話のブラウザでGoogle検索して、杉並病の解説サイトを見付け、その解説を読んだ。
今まだ公害の発生自体が十分に抑制されずに放置されているとしたら、とりあえずまず杉並中継所の圧縮圧を問題の起こらないレベルにまで下げる必要があるだろう。
21pRAは全体として反政府集会(比喩)の様相を呈しており、地震対策についての政府批判など、それ本当だとしたら大変じゃん、と思わされる話も聞いた。

さて、それでは、ここから、文法主義物理学についての23pSP-10「新文法版シュレディンガー方程式と新文法版エーレンフェスト条件の関係」について述べる。

20aRA-1のために宿泊していた盛岡から23pSP-10のために宿泊した山形までは、大曲駅を経由して鉄道で移動した。
移動中、岩手大学の発表会場の廊下で見付けたチラシを読んだ。
内容を見て、たぶんこれの著者は21pRAで活発に発言していたあの人だろう、と思った。
私は、それを部分的にしか理解していないが、二酸化炭素が増えたから気温が高くなった、のではなく、気温が高くなったから二酸化炭素が増えた、という主張が、そのチラシには書かれていた。
そして、二酸化炭素濃度の経時変化のグラフが気温の経時変化のグラフを時間軸の正の方向に平行移動した位置にある、という事が指摘されていた。
長期的傾向では違う、という批判に対する反証もグラフで表されていたが、その主旨は良く分からなかった。
私は、二酸化炭素濃度の経時変化の振動の中心のグラフと、気温の経時変化の振動の中心のグラフを、比較すれば良い、と思う。
山形では、山形駅西口ワシントンホテルに、宿泊した。
このホテルは、山形駅と渡り廊下でつながっている点が、便利(帰路これのおかげで雨に濡れなかった)だった。
このホテルの入っているビルは、とても立派な建物で、ホテルは、そのビルの高層階にあった。
そのため、私の宿泊した部屋からの眺望も抜群で、それはまるで君主のために供えられた眺望ででもあるかのようだった。
発表当日ホテルの食堂でモーニングセットを食べていると、私の発表するセッションの一つ前のセッションの座長さんが、入って来た。
私は、以前別の発表会場で見かけた人かもしれない、と思ったが、以前別の発表会場で見かけた人はメガネをかけていたのに対して、その食堂に入って来た人はメガネをかけていなかったので、同一人物だという確信を持てなかった。
またその時には、その人が私の発表するセッションの一つ前のセッションで座長をする、という事も知らなかった。
発表会場では、鈴木貞吉さんに会った。
鈴木貞吉さんは、ここ数年は、ほぼ毎回私が発表するセッションと同じセッションで発表している。
今回もそうだった。
ただし、物理教育の発表会場では、この人と会った事は無い。
今までは、自分の発表するセッションにしか顔を出さない、というのがこの人(鈴木さん)の傾向だったが、今回は、私や鈴木さんの発表が含まれるセッションより前のセッションにも、鈴木さんは参加していた。
それらのセッションは、弦の専門家たちによるもので、私や鈴木さんにはついて行けない高度な内容のものだった。
そういう場合、質疑応答時間に私や鈴木さんが質問すると、その分だけ、内容を理解できている参加者の質疑応答時間が減ってしまうので、配慮が必要だ。
今回は、鈴木さんが、今までに見た事が無いくらいに、たくさん質問していたので、私はその点を鈴木さんに忠告した。
発表権は物理学会員等特定の人にしか与えられていないが、たしか参加は登録さえすれば誰でも出来る事に成っているはずだ。
参加権には質問権が自動的に付随するはずだから、質問内容としても、個別の発表に即してさえいれば素人の立場からの質問も容認される、と考えるべきだろう。
だから、内容を理解できない人は一切質問してはいけない、という事ではないと思うのだが、もちろん権利の乱用はいけないし、そこまで行かなくても、配慮に欠ける行為は慎むべきだ、とは言えるだろう。
何しろ、発表一件につき質疑応答時間は5分しか与えられていないのだから。
私も、少しぐらい良いだろうと思って、質問してみた。
発表内容を理解できている人々の質問を聞いて、的確な事を言ってるみたいだが、今絶対に伝えておかなければいけない事、というものでもないみたいだ、と判断したからだ。
後で、言わなければ良かった、と感じるものもあれば、言ってみれば良かったのに、と感じるものもある。
一番気まずかったのが、一般論によって導かれた恒等式を使っての研究に対して、「その恒等式が、研究対象となっている個別的なケースに成り立つ事、を確認しましたか?」という風に質問したら、「しないといけませんか」と逆に質問されちゃって、したかしなかったか聞けなかったものだから、「いいけど、してないんですよね?使ったんですよね?」と聞き返しても、やはり発表者の答えは「しなくていいですよね」だったので、聞くのを断念して、「認めます」と答えた事。
「認めます」なんて変な言い方だ。
そんな変な言い方に成ったのは、「いいけど」で通じなかったので、最もハッキリした肯定の言葉を慌てて探したためだ。
そういう変な言い方に成った上、私のその質問は、その発表の最も肝心な部分についてでもなかった、と思う。
「一般論によって導かれた恒等式を使って」と言うよりは「一般論によって導かれた恒等式も使って」だったのだ。
聞いてもほとんど全く分からない発表内容に対して、少なくともこういう質問は出来るかな、と考えてしたのが、その質問だった。
この質問は、しなければ良かった、と後悔している。
質問者がいなければ質問する、という風に配慮したつもりだが、私が手を挙げたために質問できなかった人もいるかもしれないし、質問者がいない事を確認し過ぎたために質問の募集が締め切られて質問できなかった、という事もあった。
言ってみれば良かった、と思う事としては、弦の理論では時間が不明なので量子化が不明だ、と言っていた発表者に対して、私の新文法を使えないか試してみるように勧めれば良かった。
これは、今絶対に伝えておかなければ、という類の事だ。

さて、私の発表だが、OHPが5枚あったので1枚につき2分ずつ表示しながら口述した。
OHP-sr-1からOHP-sr-5までだ。
OHP-sr-2からOHP-sr-5までがOHP-sr-1の証明に成っている。
OHP-sr-2の最後の等号が部分積分によって達成される事や、証明は全体として既存の量子力学のエーレンフェスト定理の証明と並行して進む事など、若干補足も述べたが、基本的にはOHPに書いてある事以上の事はほとんど言わなかった。

講演概要

23pSP-10
日本物理学会講演概要集
第63巻
第2号
第1分冊
15ページ。

English
OHP 

OHP-sr-1


OHP-sr-2


OHP-sr-3


OHP-sr-4


OHP-sr-5


それで質疑応答に入ったが、質問時間は鈴木貞吉さんが独占してしまった。
私としては、もっと他の人の意見も聞きたかった。
今までの経験から言って、鈴木さんが質問しなくても他の人も誰も質問しない、という事は十分に有り得たが。
鈴木さんの質問内容は、OHP-sr-2の最初の等号に対する批判だった。
もちろん、この等号は問題なく成り立つので、鈴木さんの批判の方がトンデモなく間違っていた。
その点を私が丁寧に説明したら、途中で時間切れと成った。
けど、鈴木さんの質問も内容が少しずつは進歩しているように感じる。
勉強したんだなあ、と思った。
帰路、鈴木貞吉さんと一緒に食事をした。

この報告記事において私は、知らなかった人名についても、講演概要集を参照して可能な限り人名を記入するよう努めた。


最終編集2014年09月27日