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2015年06月25日(木曜日)
山口周南5人殺害事件初公判の感想

山口県周南市の集落で、2013年07月21日に男女5人を殺害し2軒に放火した罪で保見光成被告を裁く裁判の初公判が行われた、というニュースを最近耳にした。

被告の犯行前の被害認識が妄想だとされているらしい事が気に成ったので、今ウェブで調べて、ニュース記事を読んでみた。

弁護側が妄想障害による責任能力の喪失を主張しているだけでなく、責任能力は有ったと主張している検察側も、妄想障害の影響は責任能力を喪失させる程ではなかった、という風に、妄想障害の存在自体は否定していない点が気に成った。

判決に関係しない事は出来るだけ争わない、妄想障害が有ったにせよ無かったにせよ責任能力が有った場合の判決は同じだ、弁護側が妄想障害を主張しているのだから、責任能力の有無のみを争い妄想障害の有無については争わない、というのが検察側の方針ならば、それは合理的だと思う。

しかし、ニュース記事の文面からでは、検察側の主張が、妄想障害が有ったとしても責任能力は有った、という意味なのか、妄想障害は有ったけれど責任能力は有った、という意味なのか、どちらなのかハッキリ分からない。

初公判前に裁判所が行なった精神鑑定で、被告は周囲が自分に危害を加えようとしているなどと誤った思い込みをする妄想性障害だったという結果が出されている、という事もニュース記事には書かれているので、検察側もこれを追認している可能性が高い。

妄想なんて、そんなに都合よく生じるものではない、という事を、私は、強く言いたい。
各ステップで立証が要求される裁判において、精神鑑定などという占いまがいの方法が証拠として採用されている、という事は、私にとってほとんど信じ難いズサンさである。

裁判で、証拠能力を持つ、とされるからには、指紋の一致やDNA鑑定程度の厳密性が必要である。
指紋の一致やDNA鑑定と比べれば、精神鑑定が如何に不釣合いに非厳密であるかが、良く分かる。
実際の裁判のニュースを見聞きしていて、精神鑑定の結果、名前の付いている様な精神異常が認められた、という話を聞く頻度が高い事は、精神鑑定が誰かに便宜を図っている事の情況証拠だ。

そういう精神異常が、そんなに都合よく生じるはずが無いからだ。

精神異常が認められれば、犯行時の責任能力の喪失が認められる事への道が開けるのだから、浅く考えれば、精神鑑定は被告に便宜を図っている、という風に推測出来るが、これは違う、と私は思っている。

精神鑑定が幾ら便宜を図ってくれても、責任能力の喪失が裁判で認められるのは非常に難しい、と聞く。
ダメで元々、という考えで、責任能力の喪失を認められる事を目指して、その第一歩である精神鑑定を受けてみる、という態度は有り得るが、これも違うだろう、と私は思っている。

私の推測では、便宜の供与先は被害者である。
つまり、犯人に加害されたのは、それに先立って被害者が犯人に加害したからだ、という被害者の不名誉な事実を揉み消す事が、精神鑑定の目的である。

そして、既に殺されてしまった被害者だけでなく、将来の被害者候補も、便宜の供与先に含まれる。
将来自分達が犯人候補に加害しても、その罪は不問に付されるのだ、という保障を得る、という形で、これらの人々は得をしている。
精神鑑定を悪用する主体は、まだ生きているこういう人々だ、と推測できる。

罪の無い人が気の狂った犯人によって殺された、という事実のパターンを繰り返し人々に偏見を植え付ける事によって、将来自分達が、犯人候補を取り囲んで犯人候補にリンチを加えても、その事実が発覚する危険は小さく成るのだ。

そして、その事によって、犯人候補への脅迫作用は強く成る。
そういう計算なのである。

被害者候補: 私の言う通りにしろ。
犯人候補: 嫌です。
被害者候補: そういう奴は犯罪を犯す。
犯人候補: そんな事は無い。
被害者候補: (犯人候補に嫌がらせをする)
犯人候補: (正当防衛する)
被害者候補: ほら、見ろ、お前は犯罪を犯した。
犯人候補: 私のは犯罪ではなく、あなたの犯罪への正当防衛だ。
被害者候補: それなら、みんなに訊いてみるか?

つまり本当は、被害者候補が犯人であり、犯人候補が被害者なのである。
この経緯を善意の第三者に評価させると必ず、そういう評価を得る事が出来るはずだ。
だから、本当の犯人である被害者候補は、自分達の嫌がらせ行為を揉み消す必要が有るわけだ。
そこで、精神鑑定、妄想、という誤魔化しの道具が出て来るわけである。

自分は悪くないんだ、相手が悪いんだ、と主張するために、その理由として、相手の認識が妄想なんです、という話が出たら、そう言ってる人の方が怪しい、と感じるのが普通である。
相手がウソを吐いている、という主張よりも、もっとウソっぽいよ。

精神鑑定の便宜の供与先が被告ではない、という事には、もう一つ直接的な理由が有る。
それは、精神病院で刑罰よりもっと傷めつけてやる、という魂胆を被害者候補が持っている事である。
私には父から面と向かって、そう言われた事が有る。

山口周南の今回の事件で本当に悪いのが殺した人であって殺された人ではない、という事は、私のこういう反応を狙っての物でもない限り、有り得ない事である。
私の裏をかくそういう事件でなければ、間違いなく、殺された人が悪く、殺した人が被害者である事は、分かり切った事である。

それに対して殺人という報復は不当である所の挑発という語もニュース記事には見られたが、事件直後には被告が自宅に監視カメラを何個も設置していた事が報じられていたので、被告が感じたのは、周囲が挑発して来た、という感覚ではなく、周囲が侵害して来た、という感覚であっただろう。

この事件は私に向けられた事件だ、とも感じています。
私に同じ手口を適用するために、下準備として私に似た人が犯罪を犯し、私への犯行の成功率を高めた、とか、私がウェブ上で暴露している私に向けて用いられた犯罪の証拠を、見る人に妄想の産物だと誤認させたり、そういう目的で人為的に引き起こされたのではないか、と疑っています。

周囲が自分に危害を加えようとしている、というのは、今まさに私が置かれている状況そのものです。
この記事を書いている間も、音を用いた方法で拷問が掛けられています。
↑この文を書いた後は、ずっと鳴っていません。

どんな事があっても人を殺してはいけない、という迷信のせいもある、と思う。
どんな事があっても人を殺してはいけないから、人を殺した人は全否定されねばならない、殺された人は全肯定されねばならない、という間違った基準に導かれるのではなかろうか。
これは、どんな事があっても人を殺してはいけない、という考えに異を唱えるのが恐いから生じる発言傾向である。
一方、どんな事があっても人を殺してはいけない、ならば、犯行前に大変な事があっても犯人を断罪できるはずだ。
それなのに、何も無かったんだ、全部妄想なんだ、と言うのは、どんな事があっても人を殺してはいけない、という考えが支持される自信が無いからだろう。
つまり、どんな事があっても人を殺してはいけない、という命題は、それを肯定しても否定しても、どこか心配であり、どちらにもしない様に上手く立ちまわって逃げまわる、という悪しき傾向が、メディアには有る、と感じる。