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2015年06月14日(日曜日)
自然災害幇助

一応、自然災害幇助という単語を作ってみたが、もっと良い言い方が有れば、後で変更したい。

これは、自分に対して(被害者の)義務以上の協力をする様に被害者に要請したが断られた犯人が、あなたが私に協力しないのなら私もあなたに協力しない、と言って、被害者を自然災害から守る活動から手を引く、そうする事によって、被害者に報復したり、その報復を背景として被害者を脅迫し、被害者に義務以上の協力をさせる、という犯罪を指し示すための言葉です。

自然災害という言葉の代わりに不可抗力という言葉を使おうか、とも考えたが、抗する事が不可能な物ではなく、抗する事が出来るのに故意に抗しない、という犯罪を考えているので、不可抗力という言葉は不適当だと思った。
過失による事故は、故意に引き起こされたのではなく自然に起こった、という意味で、ここでは自然災害だと考える。

この際に犯人が用いている屁理屈は、長い間使われ続けて来て、未だに公然と論駁されていない様に感じる。
この状態がそのまま放置されている事は、社会不安の源泉の一つに成っているだろう。

赤鬼・青鬼、マッチポンプ、病院や役所のたらい回し、人数を凶器とした犯罪の、根に在る論理だろう。
今日中にキチンと論駁できるかどうか分からないが、とりあえず、ここで問題だけでも特定しておく事、には意味があると思う。

実際の犯行は、自然災害に頼むのではなく、外国や青鬼による襲撃、責任の所在を分散させ特定困難にするために多人数で襲撃する、という物も含まれるが、これらは人工的な自然災害であり、基本形は自然災害だ、と理解してみる。

自然災害という言葉の代わりに第三者という言葉を使わなかったのは、このためだ。
自然災害の加害者は責任能力を持たない自然である、のに対して、第三者には責任能力がある。
加害者に責任能力が有れば、原理的には、そいつに賠償させれば済む。
自然災害では、それが出来ない。

犯人の言い分は、「私は被害者に協力しなかっただけで、加害者に協力したわけではない」という物だが、これを論駁する必要がある。

自分の防災への協力を他者から受ける権利は、自分が相応の協力を他者にする事によって生じ、その相応の協力の中には、義務以上の事は含まれていない。
自然災害幇助は、その契約への違反である、という捉え方はどうだろうか。

他者の防災への協力を所定の分量だけする義務、という物は、法核の中に絶対に含まれているのか、という問題の答えは必ずしも自明ではない、と私は思う。
もし、絶対に含まれている、ならば、法核への違反を誰も全くしていないのに、誰かが率先して自然災害幇助をしたならば、それが不当である理由としては、それが法核への違反だから、という事だけで十分だ。

しかし、法核の中に含まれていないとすれば、それは任意契約の問題と成る。

既存の法律では、公道を通行中に死にそうな人を見掛けたら、その人が見ず知らずの人であっても、119番通報する義務ぐらいはあった、と思う。
しかし、そのぐらいまでであって、加害しない義務は非常に強いが援助する義務は原則皆無であり、それへの例外としてそういう義務が挙げられている、という感じに見える。

日本では健康保険や自動車関係の保険への加入が義務付けられている、という風に、防災互助の義務が実際には有り、それを良い事だと思うが、原理的考察のレベルでもそういう義務が法核に含まれているのかは疑問だ。

自然災害幇助の罪を、加害する事を目的に故意に自分の計画や予定を変更する、という犯罪に帰着させる事が出来ないか、考えてみる価値は有るだろう。
能動的に何かをする、という事については、そういう考え方が妥当するが、故意にであっても、何かをしない、という事についてまでは、妥当しないかもしれない。
故意に予定変更という形で被害者が自然災害を受ける様に能動的に手配したならば、それは故意の重要性に基づいて、犯罪だと判断できるが、このページで論じている自然災害幇助という犯罪は、もっと積極的でない犯罪だ。

ガッカリさせるために故意に、であっても、自分の予定を変更して、相手の期待を裏切って、約束もしていない義務でもないプレゼントを贈与するのをやめる、という行為は、法核への違反ではないのではなかろうか?

宇田経済学で基準状態として考えている独立した自給自足の状態で被る自然災害の被害は、他者から何かを奪われた事によるのではないから、他者がそれを防止してやる事は、与益であり任意である。
おそらく、この論理が根幹だろう。
従って、他者の防災に協力しない事が何かに違反しているとすれば、それは経済取引のルールへの違反で有り得るのみだ、というのが根幹だろう。
それを根幹として、実際の経済では、斥力(自衛の手段が取り上げられているという事情)が存在する分だけ取引は自由ではない事による修正が加味される、と考えられる。

ニュース等で耳にする「不作為」という言葉に該当する問題だ。
被害者を自然災害の被害に遭わせるための不作為は、どこがどう間違っているのか、という問題を解く必要がある。

池の周囲に転落防止の柵を新規に設置しようか検討している段階で、これからも水難事故を生じ続けさせるために柵を設置しないでおく、という選択をした場合、柵の設置は元々は自分の予定に入っていなかったわけだから、予定の変更には当たらない。
普通は、池の管理責任の観点から、危険が有るのに柵を設置しなかった事は、呵責されると思うが、もっと原理的な問題を考えたい。
たぶん私の問題意識は、管理責任なんて原理レベルでも有るのか、という問題だろう。

警察が、特定の個人への犯罪は全く取り締まらない、という形で、その特定の個人への攻撃を幇助する、というパターンも、考えれば、色々と分かりそうだ。
これについては、被害者が自力で自分を防衛する行為に加害だと難癖を付けてそれを取り締まる、という部分だけが問題であり、それ以外は全部犯人のせいだ、という事なのかもしれない。
そうだとすると、それは自然災害幇助ではなく犯人への単純な加担であり、自然災害幇助の観点からは、犯罪を撲滅しないで温存・培養しておく、という事が考えられる。

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私は、子供の頃に母から、「そんな事をすると、誰も助けてくれなく成るよ」とか「言う事を聞かないと悪いヤツらが寄って来るよ」といった言葉で、不当な要求を何度もされた。
それを完膚無きまでに論駁できずに今日に至っている事は、大変な我慢であった。
言われて直ぐに、「来るって、それはしてはいけない事だろうが」という風に言い返すと、母から「それでも、来るものは来るんだ」と言い返され、それっきりに成っている。
「助けてくれなく成る」については、言われて直ぐの時には、助けの必要が生じない様に気を付けよう、と思ったが、自分でコケなければ能動的にコカしに来る、というのが、「助けてくれなく成る」の正体だ、と今ではハッキリ分かっている。