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2015年06月08日(月曜日)
集団道具理論

学生時代に、交通誘導のアルバイトで知り合った司法試験浪人の友人から、道具理論という言葉を聞き知った。
酒に酔っての違法行為は責任能力の不足が理由に成って罪が軽い、という基準を悪用して、酒を飲んだ上で犯行に及ぶ、という犯行パターンには、飲酒による責任能力の低下を理由とする減刑が適用されない、という話だった。
これは飲酒を道具とした犯行であり、道具を用いるか否か判断する時点では責任能力は不足していなかった、という理屈だった、と思う。

道具の代表例と言えば銃刀等の凶器だが、道具の概念を凶器に限定せず抽象化したのが道具理論なのだなあ、と思った。

そこで今日は私も、抽象的な道具理論の一例として、
人数は凶器である、という考え方を提起する。
これが法律の専門家の言う道具理論に属する種類の物かどうか、は知らない。

共通の目的を持つN人が協力して目的を達成する事は、その構成員の1人1人が、残りのN-1人を道具として使って目的を達成する事として理解される。

具体的には、大人数で協力して特定の個人に甚大な被害を与える為に、1人1人は故意に不確実で些細な被害を与える、という方法が考えられる。
この場合、もし協力した事の罪が全く問われなければ、
2015年06月01日の記事に書かれている原理に従っても、犯人の1人1人が問われる罪は些細であり、ほぼ無痛で賠償可能である。
その事を計算に入れた上で、この犯罪が実行されるならば、皆で少しづつオカネを出し合えば人を殺す事が出来る、という理屈に成ってしまって、不条理である。
一人で大金を払って殺し屋を雇う事は許されないが皆で少しずつオカネを出し合って殺し屋を雇えばオッケー、なんて事は有り得ない。
実際には、加害者を多人数に分散させる事によって、犯行の特定や立証や裁判が不可能に近いぐらい困難に成るし、故意の重要性が不当に低く見積もられる危険性まで考えると、犯人の1人1人は実質上ノーリスクと成ってしまう。
これでは、いけない。

集団道具理論に基づけば、犯人の1人1人は、被害者に犯人全員で与えた被害を全部自分1人だけで与えたのと同じ罪を犯した、という風に判定される事に成り、これが本当は正しい、と私は思っている。

人数は凶器であるから、1人に対して複数で物理的な作用を及ぼす事によって攻撃する事も、そう出来る状態を準備する事も、凶器使用や凶器所持であり、その禁止が法核に含まれているべき事である。

大人数で協力して1人に立ち向かってもよい事も有る。
経済競争は、それだ。
小説を書いて売る、という行為でも、ペットボトルを作って売る、という行為でも、会社でやっている人が居るから個人でやろうとしても市場参入出来ないんだ、集団でやるなんてアンフェアだ、という主張は聞いた事が無いし、そう主張する人が居ても、それで会社が作れなく成る事は無いだろう。
小説を書いて売る、という行為の場合には、大人数で書けば良いのが出来る、という法則は成り立たず、個人でも十分に集団と勝負できる。
この事情を私は、30℃のお湯は何リットル集めても30℃、50℃のお湯は1CCでも50℃だ、と言って人数の価値という物を蔑む。
体積で勝負の分野では人数が力に成るが、温度で勝負の分野では人数は役に立たない。
そして私は、温度で勝負の分野で為す所あらん事を人生の目標として選んで、頑張って来た。
本当に素晴らしいのはそっちだ、と思ったからだ。
素晴らしいけど極度に難しいので、ズルくはない。
つまり人数なんて、悪い事に使えるばかりで、良い事には効かない、長物なのだ。
もちろん、居てくれて有難う的なアテ価値として、経済への参加人口が多い事は温度分野の人にも良い事だ。
また、客観的には馬鹿なのに皆が賢いと言って褒めてくれるよりは、誰にも認められないが客観的には賢い方が、自尊心の満足度が高い、というのが私の感じ方だ。
これらを口に出して言った事も何度も有る。
こういう私の態度に対する反発が、私に対する集団犯の犯行動機で有り得るだろう。

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昨日の記事への補足。

昨日は、L1の具体例の話をした辺りで、話がそれてしまった。
法核の相違もウソ、という観点からは、次の様な話をした方が本当は良かった。

目上の人を尊敬する義務の話。
私が年上の男の前で自分を卑下した態度を取らないと、それへの報復として、私よりも年下の男が私に対して、ルールを完全放棄したやり方で立ち向かって来る、というパターンが有る。
(参考:
即達 > 2015年04月27日の記事)
これを見て私はいつも、犯人は私に、年下の男に向かって「年上の男である私を尊敬しろ」と言わせようとしている、と感じる。
つまり、犯人は自分がかかされた恥を私にかかせようとしている、と感じるのだ。
これは、目上の人を尊敬する義務を置く事を犯人が恥だと思っている事、の証拠だと見なせる。
若者を上手に育てる事が出来なかった事を恥ずかしく思う、といった恥ではなくて、誰に対してであれ、私を高く評価しろ、と要求する事はカッコ悪い、という意味でだ。