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2015年06月06日(土曜日)
法核の相違

正義観の違いは法核の違いでしか有り得ない。
法核から∞階発展系を作る過程は普遍的であり、そこに違いは生じ様が無いからだ。

正統的な正義観で法核への違反が是認されている事を、正統的な正義感の矛盾だ、とする誤った批判を、そうでない正義観の人はするが、正統的でない正義観についても、罰の必要性から法核への違反が是認される事は不可避である。
犯人が異端者への罰だと考えて行なっている違法行為は、犯人が正しいと考える法核に、違反しているはずである。
従って先述した様に、法核への違反の有無の観点からどの法核が正しいかを決める事、は全く不可能である。

さて、昨日の記事に書いた警察の犯罪は、警察が公式の法核への違反以外も取り締まる、という事である。
表面的には公式の法核への形式的違反の取り締まりの体裁を取ろうとするが、実質上は、義務以上の義務を課す事に当たる。
例えば、ホームページに偉そうな事を書く奴は逮捕する、という態度は、言論の自由への侵害であり、違法である。
だから、ホームページに偉そうな事を書く奴は犯罪を犯す、そういう奴は犯罪を犯すんだ、という風に言うわけである。
そうやって、言質を取られない様に注意深く言葉を歪めておいて、陰でコソコソ工作をするのである。
しかし、幾らそういう風に言い換えても、それは、ホームページに偉そうな事を書く奴は逮捕する、という態度なのである。

警察の犯罪は、現代法的正義観の法核とは異なる義務集合を法核とする正義観が犯行動機である事の証拠だ。

警察の犯罪の証拠として、次の様な例があった。

1990年代後半、私が大学受験指導の通信添削の仕事をしながら
古典物理学を執筆していると、母から、そんな生活をしていると警察が来るよ、と言われた事があった。
私が、そんな事で警察が来るわけ無いだろう、と反論すると、本当に来るのだ、と母が言い返した。
そこまで言われると、ハッタリではない感じがした。
近隣住民から加害される懸念なら少しは感じたから、警察に来てもらえればむしろ安心だ、とその時は思った。
それだけに、警察の犯罪が間違いなく自分に向けられている事を知った今では、その事に対してハラワタが煮え繰り返るという言葉でも足りないぐらいに激怒している。

こういう者達の上に原爆が落ちても、「許すまじ」でも何でもない、と思う。
原爆ゆるすまじ、というキャッチフレーズも、当たり屋の被害申告に思えて来た。
私の居所は広島県だ。
広島県だが福山市と言って、原爆が落ちた広島市からは非常に離れた所だ。
故意が無ければ広島ナンバーは珍しいはずだが、広島ナンバーの車両が不審に多く私の周りをうろつく。
広島市は県庁所在地であり、精神病院への強制入院についての究極的な権限を県知事が持っている事との関係が疑われる。
その他で言うと、和泉ナンバーと大阪系のナンバーが目に付き、これらの現れ方は、かなり怪しい。
それよりは希だが、私の過去の住所の近辺である練馬ナンバーや千葉ナンバーを見かける事も有り、これらも不審だと思った。
島根ナンバーが多く怪しく現れていた時期も有ったが、最近は見ない。
北九州、名古屋、豊田といった極端な遠隔地の車両を見かける事も有り、これらについても、何かある、と思っている。

また、2015年現在まで最近では、お前の事で警察とも相談している、精神病院に強制入院ならいつでも来てくれと言われている、お前の様な奴は必ず将来犯罪を犯す、という事を父が言うのを何度も聞いた。
私が犯した犯罪について警察に相談なら分かるが、将来の犯罪について警察に相談とは妙である。
私に犯罪を犯させる相談を警察としている、という事に他ならないではないか。
因みに、こういう発言は、聞く度に身体にダメージが生じる。
ハッキリ暴力だと言える。
単なる言葉であって暴力ではない、という詭弁をキチンと論駁する必要があるが、言葉の暴力という概念で括る事には私は賛成しない。
禁止されてはいけない言葉への抑圧の口実を犯人に与えてしまうからだ。
お前をどうにでも出来るんだぞ、という発言が暴力である本当の理由は、犯人にとって、言葉の暴力という概念よりも、もっと辛辣であるだろう。