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2015年06月04日(木曜日)
故意の重要性(2)

2015年05月30日の記事で故意の重要性について考え始め、2015年06月02日の記事の末尾に、未遂罪が本質らしい、と書いたが、その後で、本質は未遂罪でもない、という事に気付いた。

(1) 犯人が自分の大事なツボで被害者の大事なツボを叩き割る、という問題に、故意の重要性が如実に現れる。
被害だけに着目すれば、ツボの価値が等しければ被害も等しく、犯人が被害者に加害した、という事実関係が認識できない。
その被害が犯人の故意によって生じた、という点に着目して初めて、犯人に生じた被害は自業自得で、被害者の受けた被害は犯人のせいだ、という事情が認識される。

これが、故意の重要性の本質だろう。

ツボについてのこの具体例は、現実の犯人の用いる手口に極めて良く似ている。
深く考えれば、抽象的な犯行動機や犯人像にも行き着くだろう。

ツボの例で特徴的なのは、犯人は何も得をしない、ただ被害者に加害する事が出来るのみだ、という点だ。
犯人は、得をしないどころか、自分も損する。
つまり、犯行動機は、自分が幸福に成りたい、という欲ではなくて、相手を不幸にしたい、という怨恨や嫉妬が基調なのではないか。

現実の例では、単純に(1)そのものではなく、当たり屋行為の様に、(1)に対する司法の反応も犯行の計算に入れられるが、単純に(1)だけで終わり、というパターンも有り、犯人集団の中では、それが自己犠牲的という理由で称揚される傾向がある、のではないか。

当たり屋行為は、被害者のツボは壊れず犯人のツボだけが壊れるケースとして、理解される。
ただし、当たり屋行為では、犯人が被害者に弁償させるので、犯人は何も損せず、被害者だけが損する。
当たり屋行為が成功するには、裁判で故意の重要性が誤認される必要がある。
逆に被害者の故意だったと認定されるのは無理だろうけれど、被害者の過失や両者の過失だったと誤認される事は十分に懸念される。
犯人には過失も故意も無く被害者に過失が有った、という風に誤認されれば、犯人は損をしないが、両者に過失が有ったと誤認されれば犯人も損するわけだから、やはり(1)単体と本質的には同じだ。

喧嘩両成敗という判決を当てにして故意に喧嘩を仕掛ける行為も、広い意味ではこれだろう。

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昨日の記事への補足

罰の内容を、違反の被害を受けない権利を所定の分量だけ剥奪し、その分量まで被害を受けた事は原則としてその罰を受けている人が立証しなければいけない、という方式が良いのではないか、と思う様に成った。
罰を受けている人は、その前に自分の犯行を他者に立証させているわけだから、その分も償うべきである、という点で、この方式は理に叶っている。

また、法核のN階発展系への違反に対する罰としては、法核のN階発展系への違反の被害を受けない権利の剥奪を置く、という風に、我慢しなければいけない被害の種類を定めると、犯した罪と受ける罰のバランスが良く成るだろう。