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2015年06月03日(水曜日)
法核

本稿は、
2015年06月01日の記事で保留にされた表面的でない考察、です。

法核という概念を導入したい。
命名は、原子核や細胞核や結晶の核に倣った。

とりあえず、

(1) 義務の集合であって、それへの違反が全く無ければ、それ以上の義務は全く必要ない、その様な集合の中で最小の集合を法核と呼ぶ、

という条件によって、法核を定義する。
この定義には、まだ十分な自信を持てないが、定義の妥当性の詮索は今日は保留とする。
自由主義的に言うと、「それへの違反が全く無ければ、それ以上の義務は全く必要ない」の部分は「それへの違反が全く無ければ、それ以上の義務は一切あってはいけない」だろうけれど、「最小の」という条件で、それも既に織り込まれている、のではないか。

2015年06月01日の記事に書かれている、他人に危害を加える目的で故意に行為してはいけない、という義務は、法核に含まれる。

正当防衛や刑罰や賠償に関するルールは、法核を核として結晶を成長させる様な形で構築されるのではないか、と予想する。
これが、法核概念の導入の狙いだ。

法核概念を置かないと、正当防衛や刑罰や倍賞させる事を、いけない事ですか、してもいい事ですか、と尋ねられた時に、それらが法核には違反しているので、どう答えてよいか分からず、答えに窮する。
この事が犯人に付け込まれて来た事も、犯人側の屁理屈を撲滅できていない原因の一つだ。

もう一つは、犯人の考える正義と正統的な正義の食い違いは法核の選択の違いであり、その事が犯行動機であるのに、法核概念を置かなければ、どちらの選択が正しいのかを議論する事が出来ない、という点がある。
法核概念を用いずに議論すると、犯人への批判が、お前らだって刑罰などの形で肯定しているじゃないか、という風に言い返されてしまう。
法核概念を用いれば、自分の選んだ法核への違反を是認しているからと言って、法核の選択を間違えたと考えている事には成らない、という風に反論できる。

法核への違反が全く無ければ、それ以上の義務は全く必要ないが、法核への違反が少しでも有れば、次の義務が追加される。

(2) 違反した者は、相応の罰を受ける義務を負う。
(3) 違反しようとした者には、その違反の被害を防ぐために為された違反(正当防衛)による被害を甘んじて受ける義務がある。
(4) 違反した者には、その違反の被害者に賠償する義務がある。

罰の実行は、法核への違反であり、この違反の被害を受けたくなかったら法核を守れ、という風に正当な脅迫をする為の物である。
あるいは、法核への違反の被害者に代わって違反者に報復する物である。
罰は加害を目的とする行為である。

正当防衛は、加害を目的とする行為ではない。
正当防衛の被害を甘受する義務は、正当防衛で行なった法核への違反をしない義務よりも、優先される。

賠償は、被害者への
与益として定義されるものであり、違反者がする負担として定義される物ではない。
これに対して、罰を受ける事は、違反者がする負担として定義される物だ。

法核の周りに(2)(3)(4)をまぶしつけて出来たルール体系を法核の1階発展系と呼ぶ事にする。
任意の自然数Nに対して、法核のN階発展系に(2)(3)(4)をまぶしつけて出来たルール体系を法核のN+1階発展系と呼ぶ事にする。
実用されるのが正義である様なルールは法核の∞階発展系だろう、と思う。

一応そういう事だが、もう少し推敲すると、(2)(3)(4)の分類において、罰の正当脅迫用法を正当防衛に含めて、
(2a) 正当報復
(3a) 正当防衛
(4a) 賠償
とする方が、
(2) 正当報復、正当脅迫
(3) 正当防衛
(4) 賠償
という分類よりも理論的には整理が行き届いている様に感じる。

各段階でまぶし付けられる(2)(3)(4)は、昨日の記事で説明したハードルに当たるだろう。
つまり、法核という競技場が(2)(3)(4)というハードルで何重にも囲まれている、という状況だ。
従って、それだけでは、競争の土俵を勝手に一方的に広げるしたもん勝ち行為に対しては、何の対策にも成っていない。

そこで、ルール体系の昇階においては、(2)(3)(4)と一緒に、したもん勝ち行為の禁止という義務も、まぶしつけるべきだ。
つまり、N階以下の発展系からN+1階発展系に一方的に土俵を広げる行為に対する禁止を、N+1階発展系に義務として入れておくのである。
そうすれば、それへの違反に対して、N+2階発展系が、正当報復、正当防衛、倍賞を定めている。

法核の選択について、犯人と論争する際に争点と成るのは、以下の論点だろう。

法核に全く違反していない人が、違反の被害を受けない事に対して、誰かに感謝したり、違反の被害を受けない様に誰かに何かをお願いしたり、そういう事をする必要が少しでも有れば、それは不条理である。

法核に全く違反せず、だから私は誰にも何も負っていませんよ、という卑屈でない堂々とした態度を貫く人に対して、みんながそういう態度だと、法核への違反を誰が取り締まって防止するのだ、という批判がある。

しかし、そういう態度の延長上にあるルール体系を、法核を中心に結晶成長させる形で作れば、警察官や裁判官を何らかの献身的慈善活動家と見なさなくても、ルールそれ自体が非常に強力な防犯効果を生じている、という形に認識される実態が生じるだろう、と私は予想する。

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原爆や水爆を禁止しようとする動きが、最近活発化しているが、これについても、原爆や水爆を持ってはいけない、というルールを守らせるためには、守らなかった場合の罰が必要であり、罰としてそれだけの力を持っているのは原爆や水爆だけなのではないか、という矛盾を感じる。