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2015年06月02日(火曜日)
やり得(したもん勝ち)計算

昨日の記事の中の、
A(=因果関係が有る)が真なのにX(=因果関係が無い事を立証する義務を被告に課す)を実行しない事の不当さ
という部分を詮索する。

確実に無罪に成る一定の手続きが存在すれば、その犯罪は実質上やり放題であり、したもん勝ちに成る。
Xを実行しなければ、確実に無罪に成る一定の手続きが存在する。

その説明の前に、まず、したもん勝ちの論理を説明する。

通路の狭い部分に反対側から対向者として同時に来る、という犯罪を例に取って説明する。

通路の狭い部分に犯人が、被害者とは反対側から被害者より先に来て待機し、被害者がその部分に入るのにタイミングを合わせて自分も入って、被害者に狭い通路で他者とスレ違う厭わしさを負わせる、という手口だ。

これについて、同時に来るな、という苦情が被害者から出れば、通行する権利は同じだ、と反論して、それを退ける事が出来る。
そこで、加害を目的に故意に来る事はするな、という被害者の主張が通るのか退けられるのかが問題に成る。
故意であったならば、故意の加害という罪でストレートに犯人は有罪だ。
しかし、犯人の行為が故意であった事を立証する義務が被害者に課されれば、犯人が自白しない限り、そんな立証は現時点では実際問題として不可能である。
従って、犯人としては、まず故意にそういう事をして、訴えられても「故意ではなかった」と嘘をつけば、確実に無罪に成る。
無罪に成れば、明日からも同じ事をずっと続ける事が出来る。
これは、確実に無罪に成る一定の手続きが存在する違法行為、に該当する。

この様な、確実に無罪に成る一定の手続きが存在する違法行為、という物は、するかしないかは各人の任意の意志に委ねられ、その被害を懸念する人は、誰も自分に対してそれをしない事を祈るしか無く、あるいは、しない様にお願いするしかなく、どうしても私はそれをするんだ、という人に対しては、誰も止める事が出来ない。
お願いをすれば、見返りを要求される。
元々自分の物なのに、それを盗らないで下さい、とお願いし、盗らなかった事に対して礼を言わされ、見返りを要求される、という事は、元々自分の物だった何かを相手から与えてもらったと認定せよ、という理不尽な要求を呑まされる事に等しい。
私が「クソの様な」とか「クソみたいな」と言うのは、こういう事であって、ルックスの事を言っているのではない。

これは著しく正義に反する。
つまり、したもん勝ち計算の成り立つ犯罪を取り締まらない事の不当さは、非常に大きい。

さて、因果関係の立証が困難な事も、故意の立証が困難な事と、同様である。

因果関係の立証義務を原告に課すと、確実に無罪に成る一定の手続き、とまでは行かない(被害者が自力で因果関係を立証する可能性の分だけ絶対ではない)が、因果関係の究明という分野での、犯人と被害者の研究競争に持ち込む事が出来る。
本来は、この種目で私と勝負しませんか、という風に持ちかけて断られたら引き下がらなければいけない、というのがルールである。
それなのに、この犯人は、被害者に否応なく因果関係の究明という分野での研究競争を強いるのである。
その上、実利まで奪う。
さらに、犯人は因果関係を立証しなくても、これがそうだな、という風に特定できる所までで良い(実用できる)のに対して、被害者は、それだけでは立証できた事には成らない、という風にツッパネられる点が、不公平な具合に、犯人に有利、被害者に不利である。
被害者は、興味も無い、したくもない種目での競争に引きずり込まれた上、審判がエコヒイキなのである。

言い換えるならば、立証の手間を負担するか被害を受け続けるかのジレンマに追い込む、という事が確実に出来る一定の手続きがそれだ、と言える。

研究競争という言い方も本当は、犯人に優し過ぎ、被害者に申し訳ない言い方である。
それは、ほとんど犯人の私事を、さて何でしょう、と言って被害者に言い当てさせるナゾナゾの類であり、そんな事を被害者が一々知るわけが無い様な事なのだ。

因果関係の立証に必要な学典から、たとえば騒音やヒヤリハットによる攻撃と神経痛の関係についての記述を抹殺する、という風な工作を、件の一定の手続きに含めれば、ほぼ確実に無罪に成る一定の手続き、と言えるだろう。
被害者がこれを乗り越える事は、学問で業績を上げる、という事であり、それは普通は無理である。
少なくとも、自分の身を守るために、そんな義務があってはいけないのは、当然の事である。

量刑の上限を知った上で、この罪を犯してもそれに対する報いは高々コレコレだからそれを覚悟した上でその罪を犯す、という態度も、罰を受けるという負担を支払って禁止事項への許可を買い取る事だ、と見なされ、禁止されるべき事である。
ルールの範囲(罰というハードルで囲まれた競技場)内で競争するのが本当であり、これは、罰というハードルを障害物として飛び越えながら行なう障害物競争とは別である。
ルールの範囲内での競争で負けるからと言って、一方的に後者の障害物競争に持ち込んで勝とうとする、という行為も、障害物競争に持ち込む部分は、したもん勝ちの一例だと見なされよう。

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昨日の記事への補足

藁人形に五寸釘を打ち付けても何の効果も無いと分かってるけど自慰行為としてそうする、という行為が罰せられる心配は無い。
この場合は目的が自慰であり加害ではないので、通常の法的自由主義の原則の適用を受け、因果関係が無い事を立証する必要は生じないからです。

水鉄砲で撃ち殺そうと思いながら撃つと罰せられるので、水鉄砲で原告を癒やそうと思いながら撃つ、という方法によって、水鉄砲で撃ち殺す、という目的を達成しようとした場合、目的が撃ち殺す事だから、因果関係が無い事を立証できなければ有罪に成り、そういう誤魔化しが通用する心配も有りません。

次の3つの目的を全て達成するためにテスト結果の期待値が90点に成る様に勉強した、という場合を考える。

(1) 欲しがられている人材に成る為。
(2) 成りたい自分に成る為。
(3) 特定の他者を悔しがらせる為。

もし目的が(1)と(2)だけだったならばテスト結果の期待値が80点に成る様にしか勉強しなかったはずだ、という場合には、勉強の目的に加害が含まれる、と考えます。
もし目的が(1)と(2)だけだったとしてもテスト結果の期待値が90点に成る様に勉強したはずだ、という場合には、勉強の目的に加害は含まれない、と考えます。

勉強についてのこの理屈を藁人形の話に加味すると、藁人形に五寸釘を打ち付ければひょっとするとそれによって誰かを殺せるかもしれないし自慰にも成る、という理由で藁人形に五寸釘を打ち付ける行為は、誰かを殺せるかもしれないと思わなかったとしても自慰に成るからそうした、ならば、通常の法的自由主義の原則の適用を受ける問題です。

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2015年05月30日の記事への補足。

「狙って撃つ」という行為は有るが、「命中させる」という行為は無い、という事に気付いた。
今後の事についても、犯人が狙って打てば被害者は多く被弾し、狙って撃った事の罪の重さは被弾した弾丸の個数に反映されているので、犯人が狙えば被害者が多く被弾するから、という理由付けは、被弾数でカウントする方式でも織り込まれる。
故意であったか否かを問う、という態度の本質は、狙って撃って命中しなかった弾丸の個数も罪としてカウントする、未遂罪を罪として認める、という事に有る様だ。