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2015年05月31日(日曜日)
因果関係と故意

結論を先に言うと、
(1) 容疑者の行為が故意だったならば、それと被害との因果関係が無い事を容疑者が立証しなければいけない。
(2) 容疑者の行為が故意でなかったならば、それと被害との因果関係が有る事を被害者が立証しなければいけない。
というのが私の意見だ。

(1)は、容疑者が被害者に危害を加える目的で故意に何か行為し、その結果であるか否か分からないが、容疑者の狙い通りの被害が少なくとも部分的に被害者に生じた場合、についてです。
容疑者が被害者を呪い殺すために藁人形に五寸釘を打つ、という、普通は因果関係が立証できず無罪であるという理屈を説明するために用いられる例でも、その後被害者が体調を崩したり死んだりしたならば、容疑者は因果関係が無い事を立証しなければ有罪にされるのが正しい、というのが私の意見です。

(2)には、容疑者が故意に何か行為しても、その目的が、実際に生じた被害を生じさせる事、とは全く別だった場合も、含まれます。

(2)の根拠は法的自由主義の原則だ、と考えて良かろう。
容疑者の行為が故意であっても、犯行が立証されるには因果関係が有る事を立証する必要があるので、(1)は法的自由主義の原則に反する。
したがって、(1)の存立の可能性は、法的自由主義と根本原理の食い違い、という僅かなスペースの中にのみ有る。

そこで以下では、根本原理から(1)を導き出す事を試みる。
法的自由主義の原則が限界を露呈するのは犯人を野放しにする事の不当性が大きい場合であり、野放しにする事の不当性が大きいのは、次の様な特徴を持つ犯人だった。
(3) 犯意の継続性が強い。
(4) やり得(したもん勝ち)計算に基づくやり逃げをする。
(5) 取り締まりを取り締まって萎縮させる。
したがって、これらの条件の成立を確認する事を目指す。
それに先立って、Aが真である確率が小さくない事を、まず確認する。

故意に加害しようとする時、手段として周知でない方法を自分で発明して、それを用いて加害する事には、どの程度成功の見込みがあるだろうか。
これは、犯人が未知の因果関係を発見しようとする、という事だ。
また、既知の因果関係を未発見であるかの様に集団で結託して隠ぺいする工作、が成功する見込みは、どの程度有るだろうか。

発明については、ある程度困難だが不可能ではない、個人でも可能だし、大勢の犯人が共同で刻苦勉励して発明を志ざせば出来そうだ、と言える。
隠蔽については、被害者が自分でその因果関係を発見する事が非常に困難だから、被害者以外の大多数の人が結託すれば見込みは大きいが、被害者以外の大多数の人を被害者への敵対という形で団結させる事が出来る見込みは非常に小さいので、トータルでは見込みは、政治の不透明性に似た推測困難さを抱える。

したがって、周知ではない因果関係について、
A = 因果関係が有る
と置いた時、Aが真である確率は小さくはない。

P1 = 魔女狩りの不当さ
P2 = ハッカーを野放しにする事の不当さ

上でAが真である確率が小さくない理由を具体的に考えた時に挙げた犯人像は、言ってみれば、手品師のギルドの様な物である。
これは(3)を満たすし、(4)はそのノウハウの一部だと考えられ、(5)は単に手段であるのみならず目的でもある感じがする。
そういう犯人については、(3)(4)(5)が成立するので、野放しにする事の不当性が大きく、法的自由主義の限界を越えており、(1)が妥当する。

そういう犯人像に該当しない人も、故意に狙う事はしない、という事は常に出来る事であり、そうする事が何かの妨げに成る事は全く無いので、前もって断った上であれば、(1)を全ての人に適用する事は正しい、と言える。
犯人像を特定しなくても、これだけでも理由に成るなあ。

ここまで考えてみて、安全性を十分に確認した上でなければ、良い方へ必要の全く無い事をする自由は無い、という論理が本質の様だ、と気付いた。
ここに言う必要は、生きるために絶対必要、といった狭い意味での必要だけではなく、何かを良くするために少しは役立つかもしれない、といった広い意味での必要も含めた必要です。
自分の幸福を追求するために必要、というのはこれに含まれますが、誰かを不幸にするために必要、というのは含まれません。
誰かの不幸を自分にとっての幸福としてカウントすれば、誰かを不幸にする事は、自分の幸福を追求するために必要だと見なせますが、そういう理由付けでの、誰かを不幸にするために必要、というのも含まれません。
この見地から、幾ら自由が尊重されるべき物だとは言っても、他者に危害を加えるだけの為に故意に何か行為をする自由は権利として認められない、という形での、法的自由主義の原則に対する直接の修正が、(1)の根拠だ、という理解の仕方がスッキリしているだろう。

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2015年05月29日の記事への補足。

法的自由主義という言葉の接頭語を「法的」としたのは、経済における自由主義と区別するためです。
自由を制限するには、制限する必要が有る事を立証しなければいけない、という考えです。
自由を制限されないためには、制限する必要が無い事を証明しなければいけない、のではないという事です。