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2015年05月30日(土曜日)
故意の重要性

殺人事件の裁判では殺意の有無が問題にされる、という事を聞いた事が何度も有る。
当然そうあって然るべきだ、と思う。
殺人事件での殺意は、殺す事を目的に行為した、のでなくても、相手が死なない様に注意する義務を怠った、というだけで、存在したと判定されるらしい。
そういう基準を置いた人々が法を司っている事を、頼もしく心強く感じる。

さて、殺人事件で殺意の有無が重要視され、殺意の有無によって罪の重さが大きく異る事は、対他行為については、故意であるか否か、つまりワザトやったのか否か、が重要である事の一例に過ぎない。

それでは何故、故意であるか否かは重要なのだろうか。
それは心の中の問題に過ぎず、それを呵責の対象とする事は内面の自由に反するのではないか。
心の中の問題に過ぎないとは言えない、というのが答えだ。

射撃において狙わずに撃った場合と狙って撃った場合を比較すると、その事情が良く分かる。
明らかに、狙って撃った場合の方が狙わずに撃った場合よりも命中する確率が高い。
済んでしまった事についてだけなら、命中した弾丸の個数を数えて、それを罪の重さだとすれば、命中する確率の効果もそこに既に含まれているので、狙ったか狙わなかったかを問う必要は無い、かに見える。
これについても、被弾という被害に加えて被弾前に感じた恐怖という被害は、犯人の罪に加えられないのか、という問題があろう。
しかし、狙ったか否かを被害者が知らない場合は、これは無いはずだ。
また、被害者が知っていようといまいと、狙った場合の方が、被弾前に被弾の危険が大きかった事は確かだから、その危険に晒された、という被害を、被弾という被害に上乗せして被害量をカウントする必要があるのではないか、という疑問も湧く。
済んでしまった事についてだけなら、そのぐらいしか思いつかないが、今後の事については、狙って撃ってもよい、とするか否かで、明らかに被弾量が異なる。
これが、故意であるか否かが重要である理由の根幹だろう。

狙って撃つか否かによって生じる被弾量の差は、ちょっとやそっとではない。
狙わなければ全部外れ、狙えば全部当たる、と言っても過言ではない。
つまり、故意であるか否かは、それもカウントしなければいけない、といった程度の問題ではなく、何よりもまずそれが問題だ、と言われるべき事なのだ。
だから未遂罪という物が有るんだろうけど。

昨日の記事で
A = 殺意が有った
X = 殺人罪相当の刑罰
とすれば、故意であったか否か、という最も肝心な問題が裁判からこぼれ落ちてしまう様子が明瞭に理解される。
裁判では、Aが真である確率もAが偽である確率も両方とも、あまり小さいとは認定されにくい。
判例的な習慣では認定されているかもしれないが、正直な人は、そこには幾らでも穴が空いているではないか、と思うはずだ。
一方、誤審に基づいてXを実行する事も、誤審に基づいてXを実行しない事も、両方とも非常に不当である。
したがって、P1とP2が拮抗してしまって、どちらが良いかハッキリしないのだ。
重要性と不確実性が重なってしまっていて「分からないって、そこが肝心なんじゃないか」というツッコミを受けるべき状況に成っている。

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昨日の記事への補足

昨日の記事で「大変さ」という言葉で表現しようとしていた概念は、正確には「不当さ」だという事に気付いた。
正義の問題を論じているのだから、どの程度正義に反しているか、つまり不当さが問題である。

野放しにする事の不当さがそれほどでもないとは言えないのは、昨日の記事にはセットアップ犯の犯人だと書いたが、これについては、自信が持てなく成った。
セットアップ犯が悪質さの点で顕著である事は明白だが、野放しにするしないに関わるのは、犯意の継続性の有無ややり得計算に基づくやり逃げを許さない事であって、単純な加害量ではないだろう。
この見地から言うと、取り締まりや通報に対していわゆるお礼参り(逆恨み報復)をする様な犯人が、野放しにする事の不当性がそれほどでもないとは言えない人物、に当たるだろう。
特に、お礼参りが、取り締まりや通報を萎縮させる目的で、取り締まりを取り締まる活動の一環として行われている場合には、野放しにする事の不当性は積極的に大きいと言える。
そう言えば、昔過ぎてもう忘れていたが、取り締まりを取り締まるしか逃げ果せる道は無い、という事を犯人は悟るに至った様だ、という風に思った事が二十代前半の頃の私にはあった、のを今思い出した。

セットアップ犯の最大の特徴は、犯意の継続性ややり得計算ではなく、潜伏性だろう。
つまり、犯行が発覚せず表面的には別の人の犯行に見える、という点だ。
例えて言うならば、イヌとサルが犬猿の仲である事を知っているセットアップ犯は、これらを同じ檻に入れれば必ず喧嘩するはずだと予想し、それらを喧嘩させるために、それらが同じ檻に入る様に計らう。
その結果、イヌとサルが喧嘩すれば、表面的にはイヌとサルの片方または両方が間違いを犯した事にされてしまう。
本当に悪いのはセットアップ犯だが、処罰されるのはイヌとサルだけであり、セットアップ犯は全く処罰されず、イヌとサルはその構造に気付きすらしない。
これではいけない。
誰の故意行為によって狙い通りの被害が生じたか、で考えれば問題の本質を見誤らない。

シェルター措置には、必要性が立証されなくてもシェルターが与えられる、という性質を犯人が悪用して、ウソを吐いてシェルターの要請を乱発してパンクさせる、という攻撃の被害を受ける危険性が有る。
救急車の要請が乱発されて病院が困っている、というニュースを頻繁に聞いた時期が有ったが、今思えば、あれは犯人集団による病院への拷問だった様だ。
そうやって病院に拷問を掛けて、自分たちの言う事を聞くように病院を改変した事が懸念される。
病院が改変されれば、まずケガをさせ、病院に来た所を病院で拷問する、というルートが繋がる。
つまり、病院を拷問装置にするのが、救急車要請乱発の目的だったのだろう。

Xを変数として、P1とP2の比を指定すれば、量刑の算出式を得る事が出来よう。