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2014年11月27日(木曜日)
私が陥れに引っ掛からなかった理由(あれこれ)

2014年11月12日の記事への補足として2014年11月13日の記事に書かれている、犯人の意図は私の能力や性質を測定して結果を露見・露呈させる事だと私が思った、という観点については、測定なら検体を押さないはずだ、という事が言える。
押さない、というのは、円形の検体の形状を測定する際に押して形を歪めて「はい楕円です」という風にはしない、という事です。
もっと実際的な例を言うと、子供の泣き声を聞いた時に検体が、それをうるさがるか、それとも泣いてる子供の事を心配するか、を見て、検体の自己中心度を測定する場合、これなら誰も我慢できないだろう、という様な声を故意に発声させ、あるいは事前に検体を非常に疲れさせて怒りっぽくした上で、それを聞いた検体がうるさがる所をとらえて「はい自己中心的です」とするのは、押す事に当たります。
測定者が押さないならば検体は、測定されて悪い物を持っていなければ、何も思い煩う事は無い。
測定者が押したならば、悪い結果が出ても、それは検体の物ではない。
そういう風にして何が出ても何の理由にも成らないぞ、という風に過去に私は何度も思った事があるので、測定者が押していると私は色々な機会に感じたのだろう。
また、測定回数の多さで私に負荷を掛けよう、という態度として感じられた仕掛けも多い。

2014年11月23日の記事に書かれている、数年前福山駅の福塩線ホームに現れた影武者、の件について。
私は、小学校を卒業してから中学校に入学するまでの春休みに、当時住んでいた福山市沖野上町の自宅の近所で、ブロック塀の上から転落し、その際に地面に胸から落ちて、それ以来前方に突起する形で肋骨が変形したままに成っている。
これについて、オカマ曲解が流布されている可能性には、以前から思い至っていた。
この事は影武者の胸部のふくらみと無関係ではない、だろう。

2014年11月21日の記事2014年11月22日の記事で到達しようとした相対正義論の無限遡及的性格によって、相対正義論は幾ら延ばしても切れないゴムに例えられる。
したがって、それは、
2013年12月01日の記事に書かれている因果応報、を実現させる手段と成ろう。

2014年11月21日の記事2014年11月22日の記事に書かれている様な考え方は、サイバー・セキュリティのアルゴリズムに革命をもたらす可能性がある。

私は、尊敬する人の話を聴いている時に、話の内容に私が感心した事を相手に知らせるために、「はー」を無声化した様な発声で相槌を打つ。
本当に感心したのではなく、お世辞の場合もある。
自分で考え出した仕草だが、このやり方には私は満足していない。
そうする度に自己嫌悪の感覚が生じる。
ためらいがちに発声するので、音量不十分で、相手には意図通りに伝わっておらず、犬の威嚇の唸り声の様なニュアンスに成ってしまっている感じがするし、意図通りの声が出ていても、少し大袈裟で相手に媚びている感じがするからだ。
もっと良い方法が未だ見付かっていないので、これからも時々してしまうだろう。
2014年11月23日の記事に書かれている高校時代の同姓異名の同級生が件の英語塾でこの感嘆表現をしている、のを私は自分の耳で聞いた。
自覚している通りの感じ悪さだった。
東京都杉並区上井草の下宿で見た影武者の挨拶の感じ悪さとイメージがダブる。

2014年11月23日の記事に書かれている遊歩道を貸自転車で走行していた影武者を見たのは、花見川沿いの遊歩道でではなく幕張メッセ脇の川沿いの遊歩道での事だった。

2014年11月23日の記事に書かれている高校時代の同姓異名の同級生の卒業時「ぅだー」と類似の現象に、大学卒業時に、同じ下宿に住んでいた異なる大学の学生S君が、何故か腕立て伏せをして去った、というのがある。
同じ大学のI君は、学校で会った時に、何故か複素解析の留数計算をして去った。

2014年11月10日の記事に書かれている自分の正しさへの自信が如何に大きかったかは、陥れ犯の嫌がらせ騒音を私は、味方として存在している事を知らせる物ではないか、と解釈する事すら有った、という事実にも表れている。

2014年11月01日の記事2014年11月13日の記事に書かれている観点については、私が気付いていないならその状態を維持したい、という計算が犯人の側にあったはずだ。
気付いていなければ必要な時には不意を突く事が出来るし、また、他の被害者から被害を訴えられた時に、「あるでしょう」と言って被害が認定される事に寄与せず、「なかろー」と言って被害が認定されない事に寄与する事が見込めるからだ。
これに類似の計算としては、活発な人に対しては手を出さず自分でコケるのを待つ方が賢明だ、という計算を陥れ犯人はしている、と考えられる。
そのため陥れ犯は、活発な人には寛容で、ちょっとぐらい過ぎた所があっても大目に見る。
放っておいても、ちょっとでは済まない事を仕出かすだろう、という風に見込んでいるからだ。
手を出せばそれが発覚する危険がある事、を陥れ犯は知っている。