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2014年11月12日(水曜日)
私が陥れに引っ掛からなかった理由(9)

陥れ犯は自分を正しいと思っている、と私が思っていた。

陥れ犯が私について嘘を吹き込まれている、という感じがしていた。
陥れ犯が倫理について正しくない事を正しいと信じている、という感じがしていた。
総じて、陥れ犯が誤解している、という感じがしていた。
つまり私の反応は、コイツラ分かってない、だったわけだ。

そうであるならば、根本的な問題は(犯行事実の有無以外の点での)意見の相違であるから、それに対する私の対応は武力討伐や法廷闘争の様な物ではなく、何主義が正しいかといった種類の事についての自分の意見の広宣流布である。
これでは、陥れ犯は言い掛かりの付けようが無い。

広宣流布の具体的な形が、
宇田経済学相対正義論の執筆・公開です。

これらは、言論の自由の範囲内であるどころか、言論の自由のド真ん中、言論の自由はこういう事を言う為にこそ有る物だから、自由の濫用だとの言い掛かりを付けられる余地も皆無だ。

私がこの様な形での自説広宣流布の必要性を何十年も前から感じ続けて来た事は、私に根に持たれる様な事を犯人が既に何十年も前からしていた、という事の情況証拠だ。
私が何をどの様に根に持っているかは、
日本物理学会2013年春季大会@学会発表@活動報告@学問に結構書かれています。

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2014年11月10日の記事への補足。

出来ないからいけない、という考えは聞いた事があるが、出来てもいけない、と言った者は一人も居なかった。

私の周りに不自然に色々な人が来ている様だが、悪い意味で来ているのではなく良い意味で来ている場合が多い、と思っていた。
例えば、学生時代後半に、ファインマンに似た所のある後輩男子学生(言葉を交わした事は無い)が、教室で私の前の席に座って振り返り私の目前で顔だけ私の方を向けて視線は別方向に向けていた事があった。
これは一度だけでなく、同じ人が日を変えて何度も同じ事をした。
陥れの手段としてこういう種類の挙動が用いられる事が有る、と今の私にはハッキリと分かっているが、当時の私は、私の事が気に成ってしようがないが直視する勇気が持てない様だ、という風に解釈した。