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2014年11月10日(月曜日)
私が陥れに引っ掛からなかった理由(8)

自分の進路選択の倫理的正しさに絶対の自信があった。

これについては、陥れに引っ掛からなかった事とどう繋がるのか、よく考えてみないと分からない。
陥れ犯の私を陥れる行為を正当化する理屈よりも、私の進路選択の正当性を根拠付ける理屈の方が、社会全体としては支持されている考え方である、という漠然とした安心感ではないか。
私が自分で対処する問題ではない、放っておけばどこかで自滅するだろう、といった考え方をしていたかも。

まず、孤独学者という進路選択は、法律には違反していない。
千葉で私の部屋の隣室に引っ越して来た不審人物Yは、私に「勤労の義務という物が有るんだぞ」と言って、私がそれに違反していると言いたかったらしいが、パートタイムであっても自分の食い扶持を自分で稼いでいれば、勤労の義務に違反はしない。

これに対して私はコメントしなかったが、それは、複数の要素が同時に頭に浮かんで、それらを上手に組み合わせた文章を即座に作るのが負担だ、と思ったからだ。
学生時代なら、そういう問題について喧々諤々と議論するのが本分だと感じられたし、目の前の友人1人に理解されるだけでも満足は得られたので、そこに体力を使う気にも成ったが、千葉に住んでいた頃はもう、今このページで私がしている様な不特定多数者に向けた公開の説明しかする気がしないモードに入っていた。
そういう理由で答えなかったのかどうかも、もう覚えていない。

頭に思い浮かんだのは、次の様な事だろう。
・勤労の義務の範囲を明確には知らない
・自分の食い扶持を自分で稼いでいる
・強制労働の禁止
・稼いでない時間の方が社会にとって重要な働きをしている、という事を盛り込まない反論は、不本意でしたくない

私は、法律の専門家ではないので、勤労の義務の範囲を明確には知らず、そんな事はない、と断言できなかった。
パートタイム労働で生活する事が、そうしているからという理由で何かの法律に違反する事は、とてもありそうにない、とは思った。
2000年を過ぎてから勤労の義務の範囲をインターネット掲示板で質問した、という事があったのは、そのためだ。
アルバイトで生計を立てつつ司法試験浪人している人はたくさん居た、という事に思い至れば、違反であるはずがない、とハッキリ分かっただろうけれど、その時は思い至らなかった。

法律の専門家であれば、勤労の義務は法律ではなく憲法の条文なので、個人の行動に直接の制限を加える物ではない、という反論も出来たであろう。
私は、法律の専門家ではないので、当時はそういう理屈は知らなかったが、その代わり、憲法の条文には強制労働の禁止というのも有るぞ、という事には直ぐに思い至った。

さて、この様に、孤独学者というライフスタイルは法律には違反していないので、残るは倫理的な問題だけである。
もとより、この話がしたかったのだが、前置きが長く成ってしまった。

私としては、Yから勤労の義務の話をされた時最も強調したかった反論は、
自分はフルタイムで働いた場合よりも大きな働きをするためにパートタイムで働いているのに、その事に対する、働きが足りない、という批判は、論理の逆転であり、甚だ間違っている、どこをどう間違えば、抜け抜けと、そんなサカサマな事が言えるのだ、という反論だった。
参考:
2014年08月08日の記事

言うならこれを言わずに居れるか、これを言わずに他の項目だけ答えても意味が無い、けれどこれは言葉で言い表すのが難しいので言うのはやめた、という事で、結局全部言わなかった。

これを言わなかった理由としては、言葉で言い表すのが難しい事や、他の項目が同時に頭に思い浮かんでいた事以外に、これを言うと必ずその後で、私に学問で社会に貢献する見込みがそんなにあるのか、という問題の議論に成り、あるのだという事を相手に納得させる事は出来ず、自信過剰だと言われれば、その主張の方が言い勝っている感じに成ってしまう、という事が見えてしまっていたからです。

この故に、正しければ良いのであって、それを他人に説明する義務も理解される義務も無い、やめさせたり処罰したりするには正しくない事を証明する必要があるが、
正しければ正しくないと証明される事は絶対に無いので、合法裡の介入を受ける心配は無い、という道理や制度に依拠するしかない、という見切りと悟りの境地に、その頃の私は既に至っていた。
して見せなければ信じてもらえないぐらいに優れた行ないを、そうであるからという理由で阻止・妨害する事が明らかに不当である事を考えれば、説明する義務も理解される義務もない事は、容易に理解される。

悪意のない誤解のために事実に反して馬鹿に(
侮辱)される分については、結果を出すまでの間は、全て私が我慢してやる、という態度で行く事にしていた。
そして、もう結果は出たのだから、そういう風に私を馬鹿にして来た軽率な人々には、大いに自分を恥じてもらいたい。
悪意が有った人は、それとは別だ。

これで間違っていないはずである。

子供の頃には私は親から、世の中には、みんなが楽しくワイワイやっている間に一人さびしく研究している人が居り、今の世の中が便利なのはそういう人のおかげだ、あなたがそこまでする必要は無いし、しても出来るかどうか分からない、と言われた。
これは、孤立学者という生き方の倫理的レベルが高い、という意見に他ならない。

本当に世の中に最も貢献しているのはそういう人達なのに、そういう業績で金儲けする事は出来ない、どの様にして報いれば良いだろうか、という質問を受けた事がある。
この事は、稼がない仕事である事が倫理的なレベルの低さを意味しない、という認識が前提として存在している事を、意味する。

大学に行かなく成って、再び登校を開始する前に、学生課の先生Kに相談に乗ってもらった際に、「自分にはそこまでする自信はないが、君がアルバイトをしながら一人で勉強するなら、それなら誰にもケチの付けようがないけれど、大学生として勉強するんでしょ」という意味の事を言われた。
これは、孤立学者という生き方に道徳的非難の余地が無い、という意見を含んでいる。

博士号取得方法には、課程博士と論文博士の2つがある。
課程博士は学校に通って博士課程(博士論文の提出を含む)を修了する事によって博士号を取得する方法で、論文博士は博士論文を提出してその内容を博士相当だと評価される事によって博士号を取得する方法です。
司法試験で言うと、近年の司法大学院が課程博士で、司法試験一本勝負が論文博士に相当します。
高校を卒業して大学受験するのが課程博士で、高校を卒業せずに大検に合格して大学受験するのが論文博士に相当するだろう。
どれも前者の方が容易で、後者の方が著しく困難です。
課程博士よりも論文博士の方が難しい、と友人から聞き、それはありそうな事だ、と思った。
これは、孤立学者という生き方が他者に甘えない自分に厳しい生き方である事を意味する。

この様に私は、子供の頃から色々な言説に触れ、出来れば本当はこうするのが正しいのだな、という意味で、孤独学者という生き方に踏み切る勇気を少しずつ増し加えて行ったのです。
だから、それに対して批判的な言説に触れると、昔と言ってる事が違うじゃないか、という風に甚だしい不条理を感じる。

私は、孤独学者の立場を取って世界史の年表に載る様な学問的業績を打ち立てる事が倫理的に最もレベルの高い生き方の一つだ、そうではない選択はほとんど全て、労働者であれ、管理職であれ、そこまでは無理だからといって妥協した生き方だ、という価値観を未成年の頃から今に至るまで一貫して揺るぎなく正しいと感じ続けている。
倫理的にだ。

それは、
如何に苦役を引き受けるかではなく、如何に生み出すかに価値の基本を置く私の価値観による事だ。
本気で生み出そうとする者は、苦役を引き受ける方に行ったりはしない。

資本家は生き方で妥協していないかもしれないが、それは倫理的なレベルの高さの問題とは独立の問題だ、と私は思っている。
また、為政者の功績の本質は、優れた意思決定を生んだ社会への理解や洞察であり、種類としては学問だ。

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最終更新2014年11月11日00:29AM