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2014年11月04日(火曜日)
私が陥れに引っ掛からなかった理由(3)

空手の効能

(1)見切り
反撃トリガーの重さ。
対処能力が高ければ高いほど、反撃を遅らせる事が出来る様に成る。
例えば、路上に直立静止している所に自動車が突っ込んで来たとする。
この場合の対処能力としては、直立静止の状態から3メートル移動するのに掛かる時間、を挙げる事が出来よう。
対処能力が高いとは、この時間が短い事であり、対処能力が低いとは、この時間が長い事である。
明らかに、対処能力が高ければ高いほど、移動開始をギリギリまで遅らせる事が出来る。
これは反撃についてではないが、反撃についても同様だ。
空手では、この事は、その方が相手の引き返しを手遅れにさせまた自分の反撃を相手の懐の深い所で炸裂させる事が出来る、という意味を持つが、陥れへの対処においては、反撃しないので陥れられない、という形で効いて来る。
騒音による攻撃の中には、被害者に暴力の脅威を感じさせる事を目的とする物もあるが、空手的には、これは、反撃トリガーを引く力としては不十分だ。
反撃をギリギリまで遅らせる、という事は、正当防衛の成立を容易にする。
陥れようとして犯人が押しても被害者が反撃しないので、犯人がもっと強く押すと、被害者が反撃してもそれは正当防衛に成る。
拳銃について言うと、早撃ちとは撃つのが早い事ではなく抜くのが遅い事である、という観点だ。
既に出ていそうな言葉だなあ。
くどく成るのを承知で更に言い足すと、引き金に軽く触っただけで暴発したのでこの拳銃(被害者)は危険な不良品だ、という風に言い掛かりを付けるのが陥れの手口だが、引き金が重ければ、そういう言い掛かりは通用しにくい、という事だ。

(2)正統武力
アメリカで拳銃での正当防衛がどう考えられているか、という事に例えて説明する。
拳銃で銃撃して正当防衛が成立する場合があるが、同じ状況で植木バサミを使ったら正当防衛が成立しにくいのではないか、という観点だ。
全然そんな事はない、植木バサミを使っても拳銃を使った場合と全く同様だ、という事なら問題は無く、どちらなのか私は知らないが、アメリカでは拳銃が正統武力と考えられており、それに伴う太い金流がある、という背景から、そういう疑い方は出来ると思う。
空手の場合について言うと、内容的にはどちらも同じ正当防衛なのに、空手を使うと正当防衛が認められ、本能で戦うと喧嘩両成敗だとされる、という傾向があるのではないか、という事だ。
2013年12月06日の記事2013年12月07日の記事に書かれている事件で、歩行者優先の公道上で歩行者の私が自動車によって脅かされた、というのに警察官は、犯人にではなく私に敵対し、最大の凶器である自動車の事を棚に上げて、まだ使用されてもいない凶器を私が隠し持っていないか検査した、という事は、自動車の経済への貢献がそれを凶器と認定する正義の眼を曇らせている、という事だ。
空手使いにチョッカイを出すと反撃されても相手を悪者に出来ないのでチョッカイを出さない、という思考回路が犯人側の頭の中に出来上がってる様に感じる事があった。
私は、少年時代に、色々な友達と空手の話をしていて、変だと思った事がある。
それは、技の力学的・生理学的効果に対して、話し相手が真剣に考えていない、そんな事は本当はどうでもいい事なんだという事を話し相手が知っていて私だけがツンボサジキに置かれている、という印象を薄々感じた事だ。
多分、腕力の強弱で決着が着く事は実際には無く、たいていは、途中で第3者が割って入って来て、そこからは誰が悪いのかの話に成り、そこで悪いとされる事が本当の意味での負けなのだ、空手が勝利に貢献できるのは、せいぜい、そこで悪いとされないための、正しそうに見える格好の付いた戦い方だけである、といった考え方の存在を、私は察した。
私は、こういう考え方には、ハッキリと否定的だ。
極真空手という流派名には、そういう意味が込められているのかもしれない。

(3)皮膚耐力
少年時代に、ポリバケツを別の硬い物で叩く様な音が気に成った事がある。
私の分類では、これは硬質打音に分類される。
その時に思った事は、まず、例えばポリバケツの角をスネにぶつけられた状況だ。
この音を聞くと、聞いた人はそういう状況を連想し懸念を感じる。
これは、生理反射レベルで起こる事であり、大脳判断によるのではない、と私は思っている。
だから、嫌がらせ合戦を心理戦と言うのは間違いだ、と私は考える。
生理反射を利用した攻撃は、心理戦などという高級なものではなく、単純に暴力である。
さて、ポリバケツの角をスネにぶつけられたような状況を思い浮かべさせられた時、当時の私はサンドバッグを使った鍛錬などで体の表面を鍛えていたので、全然平気だ、と思った。
大丈夫だから、聞こえても音源の力学現象を甘んじて浴びる様に意識すれば、心身に負担が生じない、という見切りを付ける事が出来た。
しかし、これについては、誰でもそうだというわけではない、という点が問題だ、という風に、当時の私は既に問題として認識した。
当時の私には、この問題に関わっている暇は無かったので、取り上げるのが、こんなに遅く成ってしまった。
一人で持ち上げるのが不可能なぐらい重い鉄の塊がコンクリートの床の上に落下した時のガンッという音も、私に対して用いられた事がある。
これも、聞いた被害者が音源の力学現象が自分の身に及ぶ危機感を肌身で感じる種類の騒音攻撃だが、こういうのは、その力学現象を甘んじて身に浴びるつもりで過ごす、という対処法は通用しない。
こういうのは言葉で「殺すぞ」と言って脅迫するのと同罪だ、という道理が認められる必要がある。

(4)血行気行
空手の練習を習慣的に行なうと、全身に気力をみなぎらせる体質が出来る。
たぶん十代後半、たぶん自宅庭で、生理反射を狙った異音が不意に聞こえた際に、自分の身体に起きる負の生理反射を正の血行気行が余裕を持って弾き返すのを確認して、空手の効能だと思った事がある。

(5)想定されるストレスレベルの高さ
空手では、全力でぶつかり合う様な激しい接触が、少なくとも頭の中では想定されます。
寸止めルールでも、突きが軽く当たったぐらいでは、違反とは見なされない、これが空手の想定ストレスレベルです。
したがって、接触未満である音や徒歩通行嫌がらせでは、犯人が期待する様な生理反射が起きない体質に成る。
アクビをしながら「それ、もしかして、攻撃?」「あっ、そう」とコメントする程度の事に成ってしまう。
フルコンか寸止めか、という分類方法にも現れている様に、空手においては、接触という概念が決定的に重要です。

空手で身に付くのは、能力です。
空手をやっているから陥れに引っ掛からない、という事情が必要な様では、能力が高くなければ処罰される、という事に成っています。
しかし、処罰というものは、そもそも優劣(能力)に対する物ではなく、善悪(性質)に対する物です。
ここに、犯人の論理の最大の矛盾があるのです。
能力については、被害者には、試験を受けない権利があります。
義務教育でもない限りは、この問題を解け、といって一方的に試験を課す権利は、誰にも無いのです。
高校でも大学でも試験を課されますが、高校に行かない自由や大学に行かない自由はあります。
それなのに陥れ犯はしつこく私に能力試験を課して来る、というのが、私が前々から怒っている事です。

私が偉そうな事を言うと、「ほんなら、おみゃー、これ出来るんか?(それなら、お前、これ出来るのか?)」と言われる、といった様な経験をした事が何度も有ります。
理不尽な事だと思いました。
発言という行為の妥当性は、主に内容の正しさ、それから適時であるか、によって決まる事であり、どういう能力を持っているかによって左右される物ではないし、自分が携わっていない分野については発言してはいけない、という事も無い。
それが言論の自由ではないか。
能力が足りてるか足りてないかは、発言内容の正しさと適時性から判断されるべき事であり、それらが適正であれば、その事が能力の証明である。
お前より俺の方が偉いんだからお前は俺より賢い事を言うな、という要求は、私の言う事の方があなたの言う事よりも賢いならばそれは私の方が偉い事を意味します、という反論によって完全に論駁されるのだ。