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2014年11月01日(土曜日)
私が陥れに引っ掛からなかった理由(1)

故意(私に対して)だと思わなかった。

私が陥れに引っ掛からなかった理由を、今日から1日につき1個、思い当たるだけ書き出して行く。

どの理由も、100%成立しているわけではなく、そういう傾向が私にはあった、という程度に過ぎない、と考えた方が正確な場合が多いだろう。
また、どの理由も、それ一つだけでは十分条件には成っていない、だろうと思う。
本当にそうかどうかは、書き出してみないと、私自身にも分からない。

今日取り上げる理由は、私に対して仕掛けられた‘陥れ目的の嫌がらせ行為’を私は私に対する故意の嫌がらせ行為だとは思わなかった、という理由です。
陥れだと思わなかった、という風に書かないのは、陥れ機構を準備した上での嫌がらせ行為ではない、単に嫌がらせる事だけを目的とした嫌がらせ行為だとすら思わなかった、からです。
100%思わなかったわけではない物もあったし、全件に対して思わなかったわけでもない事は、上の断り書きにある通りです。

例えば、自宅南西ほぼ最寄りの民家の畑から出される農業騒音は、陥れ目的の嫌がらせ騒音だ、という事が現在の私にはハッキリと分かっていますが、中学生の頃は、同じ畑で耕うん機が稼働しているのを見ても、そういう風には解釈しなかった。

音自体が昔と今では違う、という事も有る様なので、昔は私が気付いていなかった、というのだけが理由ではない事は、この件についても言えます。
この畑では、私が中学生の頃は人が乗車するタイプの耕うん機が使われていたが、近年は手押し車みたいな耕うん機が使われていて、音が違うだけでなく音源も違う。

故意だと思わなかった原因としては、私は中学2年生の初めに現住所の神辺町に引っ越して来たので、ここは元からそういう場所だったのだろう、という風に誤解した事が挙げられます。
これと同様のケースとしては、1999年09月から約7ヶ月間住んでいた岡山県笠岡市の社宅アパートで、国道2号線からしきりに聞こえて来ていた大型車両の走行音を、故意だと私は思わなかった事が挙げられます。

また、陥れ目的の嫌がらせ騒音である事が現在の私にはハッキリと分かっている自宅周辺での動力草刈音も、1995年01月に現住所に帰省して直ぐの時には、故意だと私は思わなかった。
その頃のスクーターによる自宅脇通過音嫌がらせも思い出すが、当時の私は、それを故意だとは思わなかった。
当時は千葉から帰省して直ぐだったので、それらの事象を「もう忘れたけど、そう言えば田舎の普段はこうだったかな」という風に認識した。
しかし、それを口に出して言った時の父か母の反応に不審な点があった事は、故意性に気付くための判断材料の一つに成った。
私は「今聞こえてる草刈りの音があるでしょ?」「田舎だなー、って(アクビの出る様な雰囲気を)感じる」という風に言ったのだったと思う。
これに対して、父か母には、私の発言の前半を聞いて過度の構えが生じ、後半を聞いて拍子抜けと欲求不満の様相が見受けられた。

現在の自室の南に隣接する井戸ポンプ稼働時の騒音についても、1990年代の私は、それを故意だとは思わなかった。

笠岡の件については、私が気付かなかったのは、国道2号線が幹線道路だったからでもある。
幹線道路なので、大型車両がひっきりなしに通過しても、そんなものなのかなあ、と思った。

これと対照的な反応としては、千葉に住んでいた時、住み始めからではなく途中から急に、それまで無かった騒音が自室周辺で出され始めた事に対して、私がそれを故意によるものだと認識した、という事が挙げられる。
これについては、途中からだったから、という理由以外に、自室周辺には大型車両が頻繁に通行する様な道路は無いのに、その辺りから大型車両のエンジン音が聞こえる様に成った、という点でも、笠岡のケースとは対照的だ。
ここでは、車両走行音だけでなく、近所から赤ん坊の異常な鳴き声が異常に高い頻度と持続時間で聞こえ始めた、という形でも異変が確認された。

ついでの話だが、赤ん坊の鳴き声については、次の経験を思い出す。
東京都杉並区に住んでいた頃、私は、その頃私の部屋を定期的に訪ねて来ていたエホバの証人に誘われて、郊外の大きな会場での集会を見学した事がある。
その時に、会場内から赤ん坊の口を押さえて一時退席する母親の姿を見た。
その時の私は、そこまでする事はなかろう、そこまでさせるべきではなかろう、と思った。
しかし、これについても背景に、赤ん坊の泣き声を使った嫌がらせ、という物が存在していたのではないか、と今の私は思う様に成っている。

故意だと思わなかった、という事は、陥れ目的で嫌がらせする人が言い訳や口実に使う事情が、本当に成立しているのだろう、という風に私が非自己中心的に考えた、という事だ、という言い方も出来ます。