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2014年09月18日(木曜日)
ヘイトスピーチって何だ?

私が無知なだけかもしれないが、何らかの言論活動がその内容が過激だからという理由で禁止される事、はあってはいけないはずだ。

ヘイトスピーチの具体例を見れば、これはいけない、と私も思うかもしれないが、それをいけないとする理由が「憎悪表現を含むから」とか「聞いた人が暴動を起こすから」という物である事には、大きな懸念を覚える。
「聞いた人が不快だから」という理由付けに至っては、呆れて物が言えない。

憎悪表現については、それによって指示されている憎悪対象(悪行)が存在するのか、相応の表現に成っているのか、で判断されるべきであり、表現だけを取り上げて是非を判断する態度は間違いである。

憎悪表現が憎悪対象を矮大化しているのがいけないだけでなく、矮小化していなければいけない、とするのも、いけないのである。

存在する憎悪対象に対して相応の表現ならば、その弊害の責任は憎悪対象にあるのであって、スピーチ話者にあるのではない。

聞いた人が暴動を起こす、という要素については、ヘイトスピーチの話者が、聞いた人に暴動を起こさせるためにスピーチしたのならば、そのスピーチは故意の違反行為だし、そうではないがスピーチ文中に「暴動を起こせ」という文句が含まれている等の場合には、そのスピーチは過失の違反行為だろう。
しかし、話者が単に「自分はどう思う」という事を言ってるだけならば、その内容が如何に差別的であろうと、そういう発言を取り締まるべきではない。
要は、本当にそう思って言ってるのか、それとも、思っていない事を思ってるかの様に偽って言う事によって聞いた人の判断を狂わせようとしているのかだ。
本当にそう思って言ってるならば、聞いた人が暴動を起こしても、それは、暴動を起こした人の罪であり、スピーチ話者の罪ではない。
スピーチ話者は少数であるのに対して暴動行為者は多数であるので、どちらを処罰するかと言えば、スピーチ話者を処罰する事に成る、という理屈は、正義に反する。
政治の選挙運動のネガティブ・キャンペーンについては、どう考えられているのだろうか?

意味内容を伝える事以外の、声の大きさで脅す、とか、意味内容を理解するために頭や時間を使わせる、という、スピーチに伴ってどうしても付随的に生じてしまう要素の方がスピーチ話者の真の目的であり、意味内容を伝える事は単なる口実に過ぎない、という場合には、それはもちろん、意味内容の如何にかかわらず、聞く人が一方的に拒絶する権利を持っていて当然である。

意味内容がどうであれ、付随する要素がどうであれ、話者と聞き手が、話したい、聞きたい、という点で合意しているのに、そこに第3者が割って入って一方的に制止する、という事は、
取引の自由にも反する。

この問題の本質は、言葉なのか言葉ではないのか、という所にあるのではないか、と私は直感する。
つまり、言葉と暴力の本当の境界が、言葉と暴力の形式的な境界よりは、ずっと言葉の中の方に入った所にあり、暴力主義者がその事に付け込んで、形式的には言葉に属する発言で実質的には暴力の効果を出したり、逆に、言葉なら何でも良いという訳ではない、と言って全くの言葉を不当に取り締まらせたりしている、という問題だ。

ウソを吐く、という行為は、形式的には言葉だが、この中には軽んじる事が出来ない犯罪と見なされる物が含まれる。
契約局面での嘘や偽SOSや偽訃報の罪が軽くない事は、明らかだろう。
この事を従来は、言葉の中にも例外的に禁止される物が有る、という風に理解して来たが、私は、そういうのは言葉ではないからダメ、言葉なら何でもよい、という風に境界を定義し直すべきだ、と思う様に成った。