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2014年08月11日(月曜日)
労働の売買は人身売買である(宇田経済学の話の続き)

2014年08月04日の記事に書いた、負担の売買は人身売買ではないか、という問題に対して、私の考えは、人身売買だ、という答に固まりつつある。

もう一度書くと、負担の売買とは、それに対して金銭の支払いを受けるために負担する事、および、負担させるためにその負担に対して金銭を支払う事、これらだ。
労働の売買は、これに当たろう。

では、何なら良いのか、と言うと、労働について言うならば、時給概念は、労働者がする1時間当たりの負担(時間喪失等)に対して支払われるのではなく、労働者が使用者に1時間当たりに与える益に対して支払われる、と考えるなら良い。

それだと、労働者が使用者に1時間当たりに与える益は状況によってめまぐるしく変化するので、一定の時給を置く事は間違いではないか、という問題が生じるが、それについては、労働者が使用者に与える益は定期使用可能性という益だ、と考えれば、一定の時給を置く事が間違いではない、と分かる。
つまり、実際にどれだけ使用したかの使用量に対して時給が支払われるのではなく、どれだけの時間使用可能な状態だったか、という使用可能な状態を提供する、という与益を考えるわけだ。

同一労働同一賃金のルールも、同一与益同一賃金という意味でなければ容認できない。
同一負担同一賃金という意味なら、人身売買だから容認できない。

金銭貸借での利息の正当性が、貸した人が使う事が出来ないという負担を負うからだ、という風に説明されるのを何度か聞いて、聞いた時には納得したが、これについても、同様の批判が成り立つのではないか。

人身売買という言葉は、今までは、人体を丸ごと売買する、という意味だったが、これを拡大解釈して、部分を売っても人身売買だ、という風に考えるのが進歩だ、と私は思う。
この意味では、臓器売買は人身売買に当たる。
負担という物を私は一生の部分だと言って来たので、負担の売買は人身売買である。
つまり、具体的に言うと、歩行中に故意に自分で転んで怪我をする、という形でした怪我という負担を、売るためにして売ったり、カネを払うからその分だけ怪我をしなさい、といって怪我という負担を買う、という取引は人身売買だ、という認識である。
負担の売買では、負担の分量と支払われたおカネが釣り合っている事が要求されるので、転んだけれど怪我をしなかったら、もう一度やり直し、という事に成ってしまう。
労働の場合で言うと、労働者が使用者にたくさん与益したけれど労働者が疲労していない、ならば、労働者は使用者から、もっとやってください、と言われる、という事に当たる。
こういう取引をしてはいけない、という事である。

損害賠償や救援としてなら、負担に対しておカネが支払われる事は、間違っていない。
これは、負担を発生させようという意志によって負担が発生したのではなく、負担を出来るだけ避けようとしたけれど避け切れず負担が発生した場合や、避けようとする意志が不十分だったために負担が発生した場合だ。
避けようとする意志を故意に不十分なレベルに抑える、等の形態であっても、負担を発生させようとする意志があれば、損害賠償や救援ではなく、人身売買に成ってしまう。

労働の場合は、損害賠償や救援に該当する支払いには、手当という言葉が使われている様だ。
手当というのは元々は医務用語であり、救援の意味を持ち、報酬の意味を持たない。
負担は災厄であり、これに対して支払われるべきは、手当であって報酬ではない。
報酬なら人身売買に成る。
負担率の高い益の売り手は、手当という形で、賠償金や救援金を受け取っているのが普通であるから、不公平に由来する感謝は、その分だけ減る、と考えられる。

負担に対して見返りを置く事は、おカネ以外の見返りでも、いけない。

道を歩いていて自分でコケた場合、通りすがりの人に、お前もコケろ、と要求する事は出来ない。
これは、誰にでも分かる。
しかし、その2人の間に少しでも取引が有れば、私はあなたの為に働いている途中でコケたのだから、あなたもコケなさい、という要求の不当性が、分かり難く成る。
しかし、これは負担の見返りに負担を求める取引であり、やってはいけない取引である。

小学生の頃に私は、授業で、ジャンルを指定されて、ストーリーを1つ作れ、という問題を与えられて、幾つかの課題を首尾よく解決して満足に至る、という冴えないストーリーを無い知恵を絞って作って先生に見せると、先生から、それではダメだ、何事も途中で必ず苦労する事がある、途中で困ったり苦労したりする部分が必要だ、と指導された。
その時の私も納得しなかったし、今の私も納得していない。
私が今口を酸っぱくして説いているのは、そういう意見への断固とした反対である。

学生時代に友人にその話をした後だったか、別の誰かから「ああ、サクセスストーリーの事ね」と言われて、名前を付けて特殊なストーリー展開であるかの様に言う事も、私の出した物は何でも既出でなければいけないと思われているみたいだった事も、私には気に入らなかった、という事が有った様な気がする。

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2014年08月06日の記事への補足。
国民栄誉賞は、子供が目指す物だ。
だから、賞の対象に成っている状態は、本人にとって心から「嬉しい、ああ良かった」と思える物でなくてはいけない。
辛くて苦しい物ならば、子供に「それを目指せ」とは言えない。
それに加えて、自己犠牲による社会への貢献、という物は、本人の口からは「嫌だ」とは言い出し難い物だ。
嫌いな物を押し付けておいて、「好きだから自分で選択しました」と言わせる、みたいな陰険な態度の横行につながる。
第二次世界大戦中の、徴兵される事を喜びと言わせ、死ぬ時にもバンザイ、というヤセ我慢にも程が有る態度がフラッシュバックする。

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宇田経済学@持論@学問