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2014年08月06日(水曜日)
不公平の判定原理(宇田経済学の話の続き)

2014年08月03日の記事を書いた頃から、開封理論を再検討する必要を感じ始めた。
開封理論では、
負担の事を考えに入れていない。
そこで、2014年08月03日の記事では、取引によって双方の負担が減少するならば開封理論を適用し、そうでないならば開封理論を適用できない、という考え方を臨時に用いた。

しかし、本来は、
無取引自給自足状態での負担差に相当するのか否かで、判断せねばならない。
無取引自給自足状態での負担差に相当する負担差は不公平ではない、という判断基準だ。

自給自足の場合でも、負担が増加する選択を自分でする場合がある。
負担が増加する取引でも、こういう選択に等価な物は、不公平ではない、と考えられる。
負担が減少する場合も、実は、受益量が変わらず負担が減少するなら、必ずそういう選択を自分でするから、という理由と組み合わせて、無取引自給自足状態での自分で行なう変更に相当するか否か、という基準で判断される、と考える事が出来る。

無取引自給自足において、個人Aと個人Bの前の中空に、ドラえもんのどこでもドアの様な感じで、突然取引窓という物が現れたとする。
これは、AとBのエリア内にそれぞれ、突然有用な植物が生えて来た、みたいな物だ。
さて、AにもBにも、取引窓の奥の方がどうなっているのかは、見えない。
その取引窓は、Aに対しては、αを投入すればそれと同価値のβを受け取る事が出来る窓であり、Bに対しては、βを投入すればそれと同価値のαを受け取る事が出来る窓である、とする。
AにとってもBにとってもα生産の負担係数がβ生産の負担係数よりも大きいならば、Aにとってはその窓は利用しても負担が増えるだけだから、Aは利用しないはずだ。
一方Bは、その窓を利用すれば受益量を保ったまま負担が減るので、その窓を利用するだろう。
両者の選択が食い違うので、無取引自給自足での自発選択でAB間の取引を再現できない。
したがって、その様な取引は不公平である、と言える。

A,B双方が取引窓を利用して取引が成立する場合も、AとBでは一般に負担の変化も変化後の負担も異なるが、それらは、無取引自給自足で生じた差異なので、AとBの持って生まれた物の差異だ、と考えられ、不公平によって生じた不平等ではない、と判断できる。

AやBが、αやβの価値を、それらを生産するのに要した負担に比例する、という風に感じはしないだろうか?
それは、取引窓でαとβが相互に変換されるが、負担が増える事は、入れたよりも少ししか戻って来ない、という事であり、負担が減る事は、入れたよりもたくさん戻って来る、という事なのではないか、という疑問として、立ち現れるだろう。
価値と負担が互いに他から独立である事は、昨日は駄石と貴重品の運搬を例にとって説明したが、αとβが食品である場合に、それらの美味しさの価値、という物を考えても、容易に理解される。
そして、価値と負担の独立性を認めた上で、AやBが価値を負担に比例すると感じるのであれば、そう置けば良いだけの事だ。

A,Bどちらか一方の負担が増える場合だけでなく、両方とも負担が増え受益量が変わらない場合も、自給自足に換算すると、そういう選択は自発的にはされないので、そういう取引を強要する事は、不公平とは言わないかもしれないが、侵略である。
取引窓を利用すれば負担が減る場合に、負担を減らさず生産量を増やす、という選択も有り得る。
そういう選択でどこまで増やすか、については、私が
日本物理学会2014年春季大会で発表し日本物理学会2014年秋季大会でも追加説明する予定の性質関数を、積極度を負担に書き換えて、用いて論じるべきだ、と思います。

負担以外にも、
アテ価値を増加させるという貢献は、支払いを受けないので、不公平の判定では、カウントする必要が有ろう。
負担もアテ価値概念なのかなあ?

発明の才能は、負担指数で表せない適性だ。
発明の才能でアテ価値増加に貢献した人は、それによって負担の不公平に対するお返しをしたので、不公平は解消し、負担の大きい人に不公平由来の感謝をする必要が無い、という考え方は有り得る。
野球で最も負担の掛かるピッチャーの報酬よりも強打者の報酬の方が高額だ、と聞いた事があるが、この事に、そういう考え方が表れている。
私も、ハッキリと、そっち系の価値観の持ち主だ。
発明で歴史年表に載る事は有っても、負担で歴史年表に載る事は無い。
国会で野党質問として、国民栄誉賞は負担による貢献の顕著な人にこそ与えるべきだ、と主張していた人が居るが、これは考え方としてはやはり間違いだ、と私は思う。
イレギュラー対処として将来そういう事があるかもしれないが、それは不幸な事だ。
2011年の原発事故を見れば分かる様に、負担という物は、無い方が良い事、有ってはいけない事が起こってしまったために止むを得ず発生する物だ。
その負担を栄誉と考える事は、その原因に成った不幸な出来事をメデタイと言う事に通じる。

私は、昨日までに、負担率という指標を撤回して負担指数という指標を提案したが、[生/円]などの単位を付ければ、負担率という指標も可能だ、という事に気付いた。
負担率とは、単位価値生産に伴う負担の事である。
個人Aが益αを1円分生産する際に負う負担が一生のxパーセントならば、α生産に対するAの負担率は(x÷100)[生/円]だ、と定義する。


宇田経済学@持論@学問