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2014年08月05日(火曜日)
イノベーション適応の全貌(宇田経済学の話の続き)

科学技術がこんなに進歩したのに何故まだ人間がこんなにアクセク働く必要を負わされているのか、という疑問を私は何十年も前から憤りを持って感じ続けて来た。
子供の頃に聞かされた未来予想では、仕事は全部機械が行ない人間は遊んで暮らす社会に成るはずだったが、いつまで待っても、そんな時代は来そうにないばかりか、世の中の変化は全然そっちに向かっていない。
それを私は‘変だ’と思ったわけだ。
斥力維持活動の一環としてそうされているのではないか、という風に私は強く疑っている。
イノベーションでは必ずそれに伴う失業が生じる、という迷信も、言い出しっぺが本当にそう思って言った事なのか、疑わしい。
そう言ってみて誰も「そんなはずはない」と反論しなければ、いつまで経っても人の働く義務が減って行かない様に陰で工作しても誰からも怪しまれない、という
手口なのではないか、と疑う。

さて今日は、
2014年08月01日の記事への補足を書きます。

まず、負担指数の定義を訂正する。
2014年08月04日の記事の定義では、個人差は表現できているが益種差が表現できていない。
そこで、次の様に定義し直す。
(α生産に対する人Aの負担指数)≡100×(α生産に伴うAの負担)÷(基準益生産に伴う平均的な人の負担)
基準益としては、たとえば、受益者から1メートル離れた位置に置かれている1キログラムの球形の駄石を受益者の所まで運ぶ、という与益で与えられた益を考える事が出来る。
負担指数の定義におけるα生産で生産されたαの価値は、基準益の価値に揃える必要が有る。
試しに、α生産として、受益者から離れた位置に置かれている受益者の貴重品を受益者の所まで運ぶ、という与益を考えて、定義式を適用してみると、明らかに、これの負担指数は基準益生産の負担指数よりも小さい事が分かり、負担指数という概念の有用性が確認できる。
しかし、基準益の設定は、もっと考え直す必要が有ろう。

昨日の記事まででは、イノベーションにおいては作業員がD販売業からC'販売業に転職する、という風に考えたが、その後、もっと精密な理解の仕方を思い付いた。
それは、社会全体の職業を負担指数の大きい方から小さい方へ順に並べると、
Dの負担指数 > D'1の負担指数 > D'2の負担指数 > ・・・ > D'nの負担指数 > C'の負担指数 > Cの負担指数
という風に成っている事を前提として、
 D販売業の人は、仕事を機械に譲って、自分はD'1販売業に転職する。
 D'1販売業の人はD'2販売業に転職する。
  ・・・
 D'n-1販売業の人はD'n販売業に転職する。
 D'n販売業の人はC'販売業に転職する。
 C'販売業の人はC販売業に転職する。
という風に大域的なシフトが起こる、というイメージだ。
やはり、イノベーションの直接の恩恵は人に掛かる負担が減る事だ、という理解で良い様だ。
C販売業という物はイノベーション前には無かった物だから、全体として、
(D生産の負担) - (C生産の負担)
だけ負担が減り、負担に関しては、誰も損をする人が居ないので移行は不公平ではない。

もう少し厳密に言うと、転職において、退職して行った人よりも転職で入って来た人の方が適性が微妙に低い、という問題が上記の描像には潜伏しており、その分だけ、全体としての負担の減少は(D生産の負担) - (C生産の負担)よりも小さく成る。

昨日の記事で明らかにした、負担減免益の価値は減免された負担と同量の負担を伴う生産の産物の価値に等しい、という認識を踏まえると、機械を作業員に売るか工場に売るかで本質的な違いは生じない、という事が、もう分かってしまったので、C販売員は旧作業員よりD販売に向いたD販売員だ、という考え方が出来る。
こう考えると、イノベーション適応の本質を、機械提供者の適性が変化して機械提供者と旧作業員のD販売に対する適性の大小関係が逆転しそれによって分担の再最適化が起こる事だ、とする見方も可能だ。
イノベーション前は旧作業員の方が機械提供者よりもD販売に向いていたが、イノベーション後は機械提供者の方がD販売に向いている、という風に見るわけだ。
機械提供者の元の仕事C'販売業については、D'n販売業だった人との間の適性の逆転は生じないが、機械提供者が転職して空席に成るので、そこにD'n販売業だった人が入って来る。
D'n-1販売業だった人よりはD'n販売業だった人の方がC'販売に向いている、という事も示せそうな気がする。

ここまでの話をまとめると、自転車レースの隊列のローテーションになぞらえて、イノベーション適応の様子を説明できる。
自転車レースでは、空気抵抗に対する対策として、数人が縦に並んで走行する。
別々に走行すると空気抵抗は人数分に成るが、縦に並んで走行すると空気抵抗はほぼ先頭の1人分だけに成る。
先頭の1人がD販売員で、最後尾の人が機械提供者だ。
自転車レースでは、全員の体力を有効に投入するために、ある程度走る毎に先頭の人が後退して最後尾に着く、という事を繰り返す。
これと少し違うが、イノベーション適応では、最後尾の機械提供者が先頭に機械を送り出し、全員が後ろに1人分づつ繰り下がる。
これを業種数分の回数繰り返せば、人間がやっていた仕事は全て機械に置き換わり、人間は、その後ろで新しく生じたもっと負担の軽い仕事を行なう、というモードに移行するだろう。

自転車レースでも、勝負所が来るまでは、他チームの選手に勝つ切り札に成る様な特別な走行能力を持った選手は最後尾から移動せず体力を温存し、ローテーションはその選手の前でだけ行なわれる、という戦法が有る。
機械提供者というのは、発明家であって、そういう有力選手に相当する。
創造的な才能が抜群の人には、生活に要する負担を極力軽くして余裕を持たせ、イノベーションという
アテ価値生産を期待する、という戦略は、不公平という批判をチマチマしたセコい小言だと感じさせるに足る、大きな妥当性を持つ。

創造的な才能が抜群の人を優遇する、という不公平は、それを無くせば他の不公平を改善する道が断たれ、それを認めれば将来は不公平が全体的に大きく減る、という類の物だ。
つまり、不公平を無くすための不公平なのである。
「さあ、どっちにしますか?」と訊かれれば、私なら迷わず「認める」と答える。
毎日8時間働いていれば永久に毎日8時間働き続けなければいけないが、今日9時間働けば明日からは毎日7時間しか働かなくてよく成る、という状況に例える事も出来よう。

発明家よりもさらに後方に位置する学者という立場が自分の適性に合っている、と私は大学を卒業する頃には、既に判断していた。
1993年か1994年に私が、当時住んでいた千葉の下宿の自室内で「ある程度以上頭の良い人は、犯罪しない範囲内で、好きな事を好きな様に、やりたい事をやりたい様にするのが、最も社会の為に成り、個人が社会に出来る貢献の中でそういう貢献が最高の物である。私はそのレベルに達しているので、フルタイム雇用されないという自分の人生選択は全く道徳的な呵責を受けるべき物ではない。本当は、パートタイムでも働く必要が有る事は間違いであり、年金で生活できるのが正しい」という意味の独り言を言ったのは、そういう認識を前提としての事である。

一見不届き至極に見える私のこの言い分が全くの正論である事を、このページで説明できたと思う。
また、私の頭の良さがある程度以上であった事は、宇田経済学を見ても分かるし、文法物理学を見ても分かるはずだ。

このページの考え方は、昨日考え出した物だから、千葉に住んでいた当時の私は知らなかったわけだが、言葉に出来ない感覚としては、既に私の頭の中にあった。
その頃私はまだ20台前半だったが、年配男性の、私を生意気な若造だと思った事、の方がずっと生意気だった、という事だ。
当時から、私は、その事も分かっていた。


宇田経済学@持論@学問