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2014年08月03日(日曜日)
負担の不平等と不公平(宇田経済学の話の続き)

負担の不平等は不公平であるか、分業で避けたい仕事をしてない人は他人の犠牲の上に成り立っているか、という議論は、話の順番としては、ここまでの話を終えてやっと始める事が出来るものであり、それ以前にしようと思っても、必要な用語がまだ揃っていない。
無取引自給自足経済でも、負担は不平等だ。
取引のある経済においても、これに相当する負担の不平等は、不公平を意味しない。
分業経済で自分の
負担率を独自の工夫で下げた場合は、イノベーションの話で作業員が自分で機械提供者を兼務する場合と考えられるので、その事によって生じる負担格差は無取引自給自足の場合の負担格差に相当する物だ、と考えられ、不公平には当たらない。
したがって、そういう人から、お前だけ楽をしていて不公平だから、という理由で益を追徴する事は、侵略である。

無取引自給自足での負担が大きい事は、哀れみの対象であって、感謝の対象ではない。
なぜなら、それは、生物個体として劣っている、持って生まれた物が少ない、という事であり、他の個体から負わされた負担によるのではないからだ。

競争で負けたために大きな負担を負わされる、というのが不公平であるかが、中心問題だろう。
これは、益種によって益と負担の比に格差がある事によって生じる問題だ。
この場合の競争は、昨日まで議論した
異種益間の競争ではなく、そういう競争の結果定まった生産者椅子の奪い合い、という競争だ。

その中心問題を論じる前に、分業という物の性質を、明らかにしておく。
負担率の高い種類の益αの生産と負担率の低い種類の益βの生産を2人の人AとBが分担する場合を考える。
益の授受が釣り合っている場合、当然の事ながら、負担は不平等に成る。
Aは、αを自給自足の場合の2倍生産して、その半分をBに販売し、βを全く生産せず、αを販売して得た代金でBからβを自給自足の場合に生産していたのと同量購入する。
Bは、βを自給自足の場合の2倍生産して、その半分をAに販売し、αを全く生産せず、βを販売して得た代金でAからαを自給自足の場合に生産していたのと同量購入する。
AとBは益の授受については貸し借り無しだが、自給自足の場合に比べて、Aの負担が増加し、Bの負担が減少している事が分かる。
一見して、これは不公平との判定を免れ得ないかに見えるが、念のために注意深く調べてみる。

ここで、
負担率という概念を、改めて説明しておきます。
益αの負担率とは、益αの生産に伴う負担の、益αの価値に占める割合の事です。
つまり、(益αの価値)×(益αの負担率)=(益αの生産に伴う負担)です。
負担率は、誰が生産するかによって、異なります。
負担の生理的心理的限度量は万人に共通で、これを一生と呼ぶ事にします。
取引に関する法定限度量は、一生よりも遥かに小さくなければいけないでしょう。
(一生)÷(益αの負担率)=(生産できる益αの価値の限度量)
一生の1%を使って生産した場合には、[(一生)×0.01]÷(益αの負担率)=(益αの生産量)です。
だから、負担率の小さい人ほど生産できる価値の限度量が大きく、負担率が、いかに楽か、だけでなく、いかにたくさん生産できるか、を表す事が分かります。
能力の高い人は、他者と同じだけ生産する際には他者より楽で、他者と同じだけ頑張れば他者よりたくさん生産できるのが普通です。
この事から、負担率という指標の設定が、良い線行ってる、と判断できます。
負担の限度量は万人に共通だ、という私の考え方は、一見すると、航空機の墜落で遺族に支払われる賠償金などの算出根拠に使われている理屈と矛盾するかに見えるかもしれませんが、私の負担概念は本人にとっての自分の価値に基づく物であるのに対して、遺族への賠償金は本人以外の人にとっての価値の経済的部分だ、という違いを念頭に置けば矛盾は無いと思います。
最も損害を受けたのは死んでしまった人本人であるのに
賠償金が本人に支払われない、という現行の制度や慣行は、必ず何か重大な問題の野放しに繋がっているはずです。

負担率に個人差がある場合を考える。
つまり適性の差を考慮に入れてみる。
嫌いな事を行なう際の、嫌いだからこその我慢も負担であるから、好き嫌いも適性の見積もりに寄与する。
同じ作業をしていても、好きでやってる人はその分負担が軽く、嫌いなのに我慢してやってる人はその分負担が重い、という風にカウントするのだ。
嫌々やってる事は、ねぎらわれるべき事であって、それが責められるなんて本末転倒である。

Aについては、αの負担率<βの負担率だが、Bについては、αの負担率>βの負担率だ、という場合には、Aがαを、Bがβを分担すれば、自給自足の場合に比べてAもBも負担が減るので、
開封理論の考え方を適用して、負担に差が生じても不公平ではない、と言える。
これは適性の差が顕著な場合だ。
αを生産する能力がAには有るがBには無く、βを生産する能力がBには有るがAには無い、という場合は、これの特別な場合だ。

適性の差がもっと微妙なケースとしては、AにとってもBにとってもαの負担率>βの負担率だが、
Aのαの負担率<Bのαの負担率 and Aのβの負担率>Bのβの負担率
である場合が考えられる。
α生産にはBよりAの方が向いているがβ生産にはAよりもBの方が向いている、というケースだ。
この場合、AがαをBがβを分担すると、Aの負担は増加し、Bの負担は減少するので、不公平である。
しかし、こうすると、AとBの負担の合計が減少するので、経済全体にとっては意味が有り、その事がこの不公平を生む原因に成り得る。
また、AがαをBがβを分担するか、AがβをBがαを分担するか、どちらかにせざるを得ない、という前提も、この不公平を生じさせる原因として、ありそうな物だ。

α,βの片方を生産する能力がA,Bの片方には無い、という事や、AとBの合計の負担を減少させる必要は、無取引自給自足状態ではA,Bが元々は別々にα,βの両方を自分で生産していた事を考えると、無いけれど、もしそういう事があれば、それは不公平発生の原因に成る。

不公平の有無と感謝の必要の有無は一致している。
感謝の有る所には不公平が有り、不公平が有る所には感謝が有るのだ。
感謝の必要が有るという事は、不公平が有るという事だから、本当は感謝なんて無い社会が理想だ、と言える。

上記の不公平な場合に該当する場合でも、決定プロセスによっては、不公平および感謝の必要は存在しない場合がある。

まず、無取引自給自足で格差が生じ、それを見た貧しい側が豊かな側に益の一部を分けてくれ、と言い、豊かな側が、嫌だと答え、貧しい側は、代わりに与益するからくれ、と言い、豊かな側は、それでは、という事で、自分のしていた仕事の中から最もしたくない仕事を提示し、これをしてくれれば報酬として自分の益の一部をやる、と答えた、という場合が、そうだ。

もう一つ別の例を挙げると、AがβをBがαを分担する状態を目指した競争に、AがBの意志を無視して一方的にBを引きずり込んだ場合、Bが勝利して、AがαをBがβを分担する状態に帰着しても、それは、Bにとってはザマーミロであって、不公平でも何でもない。

同種益内での競争は、自種益が他種益との競争にどの程度勝ちどの程度負けるか、に賭ける競争と、どれだけ高級品を製作できるかの競争の2つによって構成される。
生産者椅子の奪い合いとは、具体的には、この競争の事であり、所定のコンテストで入賞する、といった事ではない。


宇田経済学@持論@学問

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2014年07月30日の記事への訂正。
「劣った個体に何を与えても優れた個体には成らない」という部分は間違いでした。
劣った個体をパワーアップする物は有るけれど、優れた個体から奪い取った物は、それではない、という事です。
他人の生命の一部を強奪して持って帰っても、別の個体にとって、それは使い道が無い。
人間には、他の生物の臓器を食べて良質の栄養を摂る事があるが、そこまでであって、その臓器を自分の身体に取り付けて使う、というのは無理だし、出来ても、それは自分ではない。