since 2003
イレコナビ サイトマップ
< 日記 >
< 2014年07月 >
< 30日 >
2014年07月30日(水曜日)
生物個体としての優秀性(宇田経済学の話の続き)

人の生物個体としての優秀性をどう表現するかは、時間を掛けてゆっくりと究明して行くべき問題であり、直ぐには完全な答は出ないかもしれない。
しかし、今までは、この点が完全に無視されて来たために、生物として優秀な人が不条理な目に会って来た、という事があるので、簡素な物でも良いから、人の生物個体としての優秀性を表現する指標を即席で設定して、何が言えるかを簡単に調べてみる、という態度は正しい。
今日は、それをする。

弱肉強食という言葉も、本当は強肉弱食である事を見破られないためのチャフなのではないか、と私は疑っている。

取引の全く無い自給自足の状態では、それぞれの個人は自分の生産した分だけ消費する。
他人から与えられたり奪ったりした物ではないから、その分量が他者より多くても、他者から責められたり非難されたりするいわれは全く無い。
他人に奪われたり与えたりしたからではないので、その分量が他者より少なくても、他者を責めたり非難したりする事は全く出来ない。
そして実際に、その分量には個人差がある。
中学生の頃だったか社会科で、狩猟採集の時代から定住農耕の時代へ移行すると貧富の差が出る様に成った、という風に習った。
そういう意味でだ。

さて、取引の有る貨幣経済では、自分の生産した益を、直接自分が消費するのではないが、販売と購入を通して他者を経由させるだけで、量的には、他者に渡したのと同量の益を他者から受け取り消費する。
自給自足の場合よりも太いだけで、やはり、アウトプットした分だけインプットするのである。
したがって、自分が生産した分だけ自分が消費する、という点では、自給自足の場合と同じであり、この特徴を破壊する形での弱肉強食という物を貨幣経済が肯定している、なんて事は全く無い。

取引のある貨幣経済は、自給自足の場合に比べて、1人当たりの生産と消費の量が多く豊かで、貧富の格差も大きいが、それが何らかの不正によるとは限らない事は、自給自足の場合の格差を
相互開封補助取引というレンズで拡大した物だ、と理解する事によって、分かる。

相互開封補助取引には、良きにつけ悪しきにつけ、経済が発達していない社会では発現しない何を呼び覚ましてしまうか分からない、という側面がある。
したがって、基本は自給自足の場合の格差の拡大であるが、大番狂わせも有り得る。
経済がものすごく発達した社会で初めて発現する才能という物も、やはり、人の生物個体としての優秀性だと考えられるから、大番狂わせまで含めて、公正な経済現象という物は生命現象の相似拡大である、と言える。

生物個体としての優秀性と言うと、誤解されそうなので、付言するが、私は、人間関係的な物を除外して考えろ、と言っているのではない。
人付き合いの上手さは生物個体としての優秀性だが、獲得した人脈は違う。
こう考えると、生物個体としての優秀性が成功度に反映されるルールが正義だ、という事は、ほぼ自明なのだ。
これが、
生即正の考え方だ。

さて、今日の本論である、優秀性を表す指標であるが、生産に伴う負担が当該生産量の何パーセントか、という指標を置いてみる。
この値が小さいほど優秀である。
この指標を使うと、限界まで頑張った場合の生産量は優秀な人ほど大きい、という事が言えよう。
可能な負担の最大値が万人共通に成る様に負担の値を定義すると、そう成る。
そういう定義は、個人の価値を平等に認める考え方と調和するのではないか、と予想する。
つまり、小さな人が自分全体の10%を失う事と大きな人が自分全体の10%を失う事は、同等な損害だ、という考え方である。

自給自足の場合に、必要な生産が限界負担の30%でこなせる人Aと、必要な生産をこなすのに限界負担の60%を要する人Bを、比較してみる。
Aは、必要な生産をこなした後も、まだ余力が残っているので、その余力で酒を造って飲む事が出来る。
これは、Aが持って生まれた物であって、Bから奪った物ではないのだから、Bにはそれが出来ないからと言って、Bからとやかく言われる事ではない。
ところが、AとBが互いに他の必要益を生産供給する取引をして、そこで負担ベースの公平性を通用させると、AはBから、お前も限界負担の60%を使ってBへの供給をしろ、という風に要求される事に成る。
まず、それだと、AのBへの与益量が、BのAへの与益量と釣り合わず、Bばかりに都合が良く、それはAには納得できない、という事が指摘できるが、それでは負担ベースより与益ベースが正しい、という言葉を言い直しただけなので、その理由を説明したい今は、それでは酒を造って飲む楽しみ、という物をAが失ってしまう、という点を主に指摘したい。
それはBには無いけれど、Aにとっては、Bと付き合う前は有った物だから、AにもBにもそれは無い、という終状態は平等ではあるけれど、Aは損を強いられBは何も損をしなかった、という点は不平等であり、Bが自分には無いAの長所を強奪して捨てた、という風に理解されるべき事である。

これが、劣った個体が優れた個体からタダで吸い取るメカニズムの代表例である。
これを私は机上の空論的に論出したのではなく、長年嫌という程実感して来て、言葉での説明は後でしよう、と思い続けて来た。
言葉で説明するのは、こんなに大変な事なのだ。
私だけでなく多くの人が、実感は、しているはずである。
犯人は、言葉で言い表し難い事に付け込んで、不正を実感している人が不満を訴えても、それならどこがどう間違っているか言ってみろ、という風に突っぱねて来た、あるいは訴える側が、そこまで先回りして考えて黙って我慢して来た、という事なのだ。

私が口を極めて他人をコキオロスのは、そういう背景が有るからであり、しない方が良い、とは絶対に思わない。

劣った個体が優れた個体から奪う、という傾向性は、劣った個体が自分が益を得ようとするから生じる物、ではないと考えられる。
自分が益を得たい、というのではなく、相手に損をさせたい、というのが、動機なのだ。
と言うのは、劣った個体に何を与えても優れた個体には成らないからだ。
劣った個体は、最初から自分で、その事を分かっている。
あるいは、分かった瞬間が犯意の出発点である。
上記のA,B,酒の例でも、Bは、Aから過分の供給を受けたい、と思っているわけではないのだ。
Bには無いAの長所を殺すのがBの目的である。
だから、Aが供給量を増やさず無駄な損失を生産過程に挿入して負担を60%に持ち上げても、Bはそれで満足なのである。

病気に成った人には、他人に自分の病気を移したい、という気持ちに成る傾向が有る、と聞いた事があるが、これなんかも、他人に移したところで自分が治るわけではなく、相手には有って自分には無い健康という物を相手から奪って捨てる、という特徴が良く出ている。

その事から推すと、負担の平等を公平性だとするBの主張は、Bの本音ではなく単なる口実である事が分かる。
本当はBは、Aの余剰能力を、無かったら良いのに、と思っているのだ。
Aの余剰能力が自分には無い事を、是正されるべき不公平だと主張する事には無理がある、とBは自分で分かったので別の道を考えた、というのが真相だ。
しかし、無理がある事を言いかえても、所詮は屁理屈である。


宇田経済学@持論@学問