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2014年07月29日(火曜日)
イノベーション失業の倒錯(宇田経済学の話の続き)

手作業の要員を雇って製品を作っていた工場が、機械を導入したので手作業の要員を解雇する、という場合について考える。
一見すると、この論理は、全く不可避であるかに見える。

しかし、益ベースで考えると、この論理のおかしな所が浮き彫りに成る。
益ベースでは、同量の益の購入に対して支払われる代価は等しい。
工場にとって、作業を人にしてもらおうが、機械にさせようが、受ける益は同じである。
したがって、益ベースで考えると、工場にとって、機械を導入するメリットは全く無いはずである。
この点が、益ベース概念の不徹底な既存の考え方では、人件費よりも機械の購入と運用に掛かる費用の方が安いので、機械を導入する方が工場は得をする、という風に、理解されている。
これには、機械を製作し運用するのに掛かる負担(労働)が人件費分の(負担の意味での)労働よりも小さいから、という理由が付けられ、ここで負担ベースの考え方が混入してしまっている。
益ベースの考え方こそが正義であり、負担ベースの考え方は錯誤であるから、冒頭の論理は錯誤である。

それでは益ベースの考え方を貫くと、どうなるだろうか。
機械は工場が導入する物ではなく手作業の要員が自分用に買う物だ、と理解する。
手作業の要員は、工場には、次回からは私の代わりにこの機械が出勤します、と説明する。
変わるのは、手作業の要員の生活であって、工場側は何も変わらない。
工場にとっては、今までと同じ作業をしてもらって同じだけ支払う、という状況のままだ。

手作業の要員にとっては機械は、作業に伴う負担を減免する負担減免装置である。
機械という物は本来そういう物であり、その事が、本稿の解釈が正論である事を、再認識させる。
したがって、その機械を購入する事の受益量は、減免された負担の量でカウントされ、それが購入で支払う代金だ。
機械を購入すると、工場での手作業の負担を負わずに済む様に成るが、その代り、購入で払った代金の分だけ残存義務が増え、その義務を果たすための将来の負担が増える。
両者が等しいならば、元の木阿弥であり、手作業の要員にとって、機械を購入・使用するメリットは全く無い。

しかし、手作業で工場に同量の与益をするのに伴う負担は、作業員ごとに異なる。
負担が小さい、という事が生物個体として優れている、という事であり、負担が大きい、という事が、生物個体として劣っている、という事である。
また、機械購入で増加してしまった将来の負担の分量も、購入者ごとに異なるし、残存義務の増加をどういう種類の与益で消化するかによっても異なるので、元の木阿弥には成らない余地が十分にある。

思考実験として、手作業の要員が自分で機械を発明・製作した場合、を考えると、元の木阿弥には成らない場合がある事が、ハッキリと分かる。
もっと現実的な可能性としては、手作業の要員が機械購入前には工場で自分に向いてない仕事をさせられており、将来の残存義務の消化では自分に向いている別の仕事をする、という場合が挙げられる。
この場合、機械の購入・使用によって減免された負担の分量は、購入代金分の残存義務の増加を消化する際の負担よりも大きく成る。

別の工場に雇用されて今までと同じ作業を行なう事によって残存義務の増分を消化する場合でも、手作業の作業員は、負担を減らす事が出来る。
この場合は、
残存義務の増分=機械の購入代金=機械に代行させた仕事を自分でやった場合の負担、
だが、与益に伴う負担は当該与益よりも小さいのが普通だから、別の工場で作業を通して残存義務の増分だけ与益する際の負担は、普通は、機械に代行させた仕事を自分でやった場合の負担より小さい事に成る。

だから、機械が売れるかどうかは、負担の量が本当に減るかどうか、という点については、ほとんど心配なくて、本質的には、やはり失業の問題という事に成る。
機械購入代金分を購入者は、機械に譲ってしまった仕事とは別の(同種であっても良いが)仕事を自分がする事で稼ぐ必要が有るが、そういう就職が不確実である、という問題だ。
この点が、機械を工場が買う場合には、被雇用者の意志とは無関係に話が進んでしまう点が問題だが、被雇用者が買う場合には、自分で判断するので問題なく、その分だけ機械が売れ難い、と考えられる。

長期的大域的には、機械が売れる事が、機械を買う人の就職機会を増やす、という事にもつながるだろう。
これは、機械の売り手に何かを売る、という道が開けるからだ。
アテ価値の観点だ。

経済全体としての何かの保存則の様な物を見付ければ、益ベース方式ではマクロなイノベーション失業は生じない、という定理が導き出せるかもしれない。

この様にして、何が本当は正しいのか、を明らかにし、それと既存の論理の食い違いを見る事によって、既存の論理が、生物として優れた個体から劣った個体が収奪する手練手管の一例として使われている事を、見て取れる。
私は、雇用者が悪いと言ってるのでも、被雇用者が悪いと言ってるのでもない。
私の問題意識は、労働者と資本家の対立、という構図とは別の、生物として優秀な個体と劣った個体の対立の問題である。
労働者と資本家の対立、という問題は、生物として優秀な個体と劣った個体の対立という本当の問題に目を向けさせないためのチャフではないか、という疑い方すら、私はしている。

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昨日までの記事への補足
「既存の他の種類の益の買い物を自分の商品の買い物よりも安く上げさせる」中の「安く上げさせる」部分は「安く済ませさせる」の方が正しかった。
新種の益を登場させる以外に、既存種の益のもっと高級品を売って、消費者に他種の益の買い物を安く済ませさせる、という目標も、正々堂々だろう。
昨日の記事の社会主義批判の部分では、「不公正」ではなく「不公平」とした方が良かった。
不公平は不公正の一例だ、と考えて良いのかもしれないが。
豆アドヴァイスの追加として、大した与益をしてないのにたくさん支払われた者に売る時には高値を吹っ掛けても受け入れられ易い、とも言えそうだ。
同種の益内の売り手同士の競争では、他種との競争でどの程度勝てどの程度負けるかへの賭け、という要素以外に、他種との競争でめっぽう強い種類の益内では、どれだけ高級品を作れるかが勝負のし所だ、という要素もある。
負担ベースの価値観を皮肉ると、皆がすっころんだりすりむいたりして大いに負担し、ろくに仕事がはかどらない事が、皆よくやってる、と言ってもてはやされる、なんて馬鹿げている、と言える。
顔に炭を付けて「働いてます」というポーズを作るのは、演劇でのみ妥当するのであって、実生活でそれをやれば欺瞞である。
汗みずたらして働く、という言葉を私が嫌いなのは、このためだ。
負担ベースの経済は、言い換えると、損害と賠償の経済であり、これはあくまでイレギュラー対処であるべきで、これをレギュラーにする事は、価値観の倒錯である。


宇田経済学@持論@学問