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2014年07月27日(日曜日)
価格決定律あれこれ(宇田経済学の話の続き)

益ベース価格決定律が正しい価格決定律だ、と私は思うが、それだとこの点はどうなんだ?と思う事が幾つかあるので、それらを今日は論じる。

まず、売り手にとって高過ぎ買い手にとって安過ぎる場合は完全一致市場原理に反しているが何も問題ないじゃないか、という批判の妥当性を検討する。
買い手にとって安過ぎならば益の超過分は景品、売り手にとって高過ぎならば報酬の超過分は賄賂、という考え方は出来ないか?
つまり、景品を付けるから俺のを買ってくれ、という態度や、賄賂を渡すから俺に売ってくれ、という態度とは見なせないか?
贈与は任意であるから、見返りを期待したり要求したりしなければ、益を無償で贈与したり、通貨を贈与する事は、任意であるはずだ。
見返りを期待したり要求する場合を、自由な取引における自由の概念に含めるのか否かが問題だ。
見返りを期待したり要求する場合は、贈与ではなく選択行為の売買と見なされるべきだ。
現行の制度でも、限度を超える景品を付けるから買ってくれ、というやり方は否定されている。
賄賂という概念は、公権力に関係する場合にしか使われないと思うが、考え方としては、民間の自由取引でも成り立つのだろうか?
現行の制度で禁止されている物と言えば、相場を操作する事を目的とした取引、投資での損失補填契約、売った人から買った人が優越的地位を背景に払い戻しを要求するキックバックが思い浮かぶ。
賄賂を渡すから俺に売ってくれ、という態度は、キックバックとは逆向きだなあ。

原理的な観点から私が自分で考えてみると、売り手にとって高過ぎ買い手にとって安過ぎる売買は、納得ポテンシャルの無駄な散逸だからいけない、という考え方が思い浮かぶ。
つまり、売り手にとって高過ぎるならば、その売り手はもっと安く売っても納得していたはずなので、そういう売り手は、安い価格で買えなければ納得しない潜在的な他の買い手を納得させる切り札だったのに、その切り札を、高く買っても納得する買い手を納得させるという、もっと易しい問題を解くのに使ってしまった事は、社会的なロスである、という考え方だ。
その様なロスを生じさせても、全体として至る所で売買が納得裡に成立すればよいが、その様なロスのせいで、納得ポテンシャルが全体として不足してしまう、という問題が生じるかもしれない。
しかし、個々の売買の当事者からしてみれば、売れ(買え)る時に売(買)っておかないと後でもうチャンスは来ないかもしれない、という事情がある。

個々人の自分の価値観での個々の益の価格の折り合いがついても、買い手の所持金が足りなかったり、売り手の商品在庫が足りなかったりすれば、取引は不成立と成る。
本来は、オークション方式は、そう成ってから使用される次善策であり、完全一致方式で解決する状況に対して、完全一致過程を妨げる形で、割り込み使用されるべき物ではない、と言えるのではないか。

オークション方式では、価格競争が売り手のコスト削減の工夫を促し、それが買い手を利する。
それによって売り手が得するのは、販売個数の増加を通してのみであり、薄利多売の危険性を考慮すると、工夫という自助努力の結果をタダで全部持って行かれ、自分は何も得る事が出来ない、という不条理が大いに懸念される。
これに対して、完全一致方式では、より軽い負担で同じ与益をする工夫は、買い手をより安く買える様にしてあげる、という形でではなく、売り手がもっと儲ける、という形で売り手に還元される。
自分でした分は少なくともまず一旦は自分が受け取り、それを他者に譲り渡すか否かは、その人が決める事であって、その人の了解なく、他の人が勝手に持って行く、というのは、正義に反する。

それじゃあ、どこで競争するんだ?
異なる価格の商品同士の競争で勝つ、という事かなあ?
大抵の人が千円で納得する高級なハサミと、大抵の人が5百円で納得する簡素なハサミの間の販売競争みたいな。

益を負担の軽減で計れば、益ベースと負担ベースは結局同じではないか、という問題。
負担の軽減として表す事が出来ない益もある。
後で考えたい。

納得にも色々ある。
仕方がない、という納得。
オークション方式での当事者の納得の仕方は、仕方がない、という納得の仕方ではないか。
これは納得と見なせるのか?
希少品のオークションで買い手は、自分の過去の与益の内容・価格と比較してのその商品の独自評価額より高く払って落札した場合、実際の支払価格と自己評価額の差額分だけ損した事に成る。
それだけ損する方が入手機会を失うよりもマシだ、という判断だ、と考えられる。
2つの損害の両方を同時に防ぐ事が出来ない場合の、どちらを取るかの選択、という事かもしれない。
しかし、入手機会を失う、というのは損害なのだろうか?
無くて元々って事は無いのか?
希少価値という価値を認めれば、差額分は希少価値の購入に充てられたので損害は発生していない、という考え方が出来るかもしれないが、私は疑わしいと思う。

個々の益と価格に対して、それらが相応していると思っても、その益をその価格で買いたいと思うとは限らない。
それは、所持金の有限性だけによるのではない。
書籍の場合を考えれば分かる様に、買い手の消費容量の有限性、という物も理由だ。
世の中にある全ての書籍の価格に納得していても、全部を買って読む時間も体力も無い。
また、欲しくない、と思う物の価格はゼロだと思う、という事も無いだろう。
なら、そのゼロでない価格で買うのか、と言えば、欲しくないのだから買わない。