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2014年07月23日(水曜日)
生即正

生物個体として優れている、というのは、フェアな競争で勝てる、という事と同義だ。
同義どころか、生物個体として優れている、というのは、フェアな競争で勝てる、という条件で定義される、と言っても過言ではない。
逆に、正義とは生物個体として優れた個体が勝つ様なルールだ、と言える。
つまり、生物個体として優れている、という事と、正義は、互いに他を定義し合っている。
人生においては他の個体の影響も受けるし、科学技術の水準等のアテ価値によっても、フェアな競争の順位は変わるが、私の予想としては、例えば、ITの無かった時代にフェアな競争で勝てた人は、ITの有る状況でもやはり勝てる、パソコンの無かった時代に機器操作が上手かった人はパソコンの習得もうまい、ということがあるだろう、という事だ。
一見そうではない、と思われているのは、開始年齢による差との混同に違いない。
また、弱肉強食は正義に反するので、動物に比べて人間の場合には、優れていても評価され難い能力、という物が有る。
他者を取って食う能力、という物は、優れていても、人間社会では評価されない。
そういう能力で評価されたければ、捕食し合う競争を模した安全な競技を催して見物客に見物の楽しみを与えて報酬を得る、という風にする必要が有り、捕食そのものを職業にする事は出来ない。
「世の中はカネだ」という標語を、最大限善意に解釈すると、こういう事だろう。

この様に、生と正は一致しているので、生物個体としての優秀性に応じて幸福の程度が決まる、という傾向に修正を与えようとする試みは、必然的に全て不正な物に成らざるを得ない。
修正の必要を説く意見を聞いた事も何度もあるし、実際に色々な事について修正が行われているのが実態だが、そういう試みは全て隠蔽される、という事が、犯人が不正だと自覚している事の証拠である。

この事は、スポーツにおける八百長の事を考えれば、良く分かる。
八百長しないなんてお前は鬼か、という意見が有り、八百長が無くならないのも実態だが、やってますと公言は絶対にしない。

私は、ずっと前から一貫して、自殺する自由という物は万人にある、と主張している。
この考えの念頭に置かれているのは、生物個体として劣った人が、自分には最初から勝ち目がないので人生なんて面白くない、と感じて自殺する、という事だ。
これは、生きていたくない人が生きている事が、そうでない人を利しており、利されている人は、相手が死ねない事を良い事に、不利な条件を呑ませ続ける、という社会状況を私が不健全だと思ったからだ。
つまり、死ねない、という人間の限界が、宇田経済学で言う斥力に成っており、これを取り除かねば自由主義の正当性に詭弁が残ってしまう、という事だ。

生物個体として劣っている人間が複数で力を合わせて、生物個体として優れた個体を苛めて、苛められた個体が自殺する、という種類の自殺を、私は肯定しない。
これは、実態としては、自殺ではなく他殺だからだ。
面白くないから、という理由でしても良いのは、自殺までであって、他殺はいけない。

2014年07月22日午後に私は、笠岡市の干拓地の太陽の広場の遊歩道の木陰に自転車(シティサイクル)を停めて、タバコを吸いながら、上記の自殺論部分を独り言としてつぶやいた。
何らかの盗聴下に置かれているだろう、という意識は持っていた。

2014年07月23日朝に中国新聞で、藤田保健衛生大(愛知県豊明市)と海外の大学が協力して統合失調症の発症に関わる遺伝子を特定した、というニュースを目にした。
そういう物はあるだろうし、だから統合失調症も生物学的問題だと言えるだろうし、この問題についての正確な知識を臨床医療に活かす事は物事を善い方へ前進させるだろう、と思うが、次の様な懸念を覚える、という事の方が私にとっては重要だ。
精神科医療という物には、生物として劣った個体が、生物として優れた個体の優れた点を殺す手段として、生物としての優秀性以外の点に難癖を付けて病断をこじつけ、拉致・監禁・盛毒等を行なう隠れ蓑に使われて来た犯歴が有る。
上で私が生物学的に劣った個体が悪者である場合を述べたのも、こういう意味でだ。
なのに、精神病の原因が生物学的な欠陥だ、という事に成ると、その私の自説が、実際の意味とは反対の意味に曲解される危険性が生じてしまう。
精神病の原因が生物学的な欠陥だ、という事は有りそうな事だ、と私も思う。
従って、私の自説には、特別な場合として、そういう点で劣っている人が、そういう点で優れている人のそういう点で優れている事を嫌って犯罪を犯す、というパターンも含まれている。
しかし、そういう点で劣っている、と評価された人が、本当にそういう点で劣っているのか、という事については、過去に散々、劣っていない人に劣っているという難癖が付けられて来た、という背景が有るので、遺伝子についての新たな知識も、難癖付けに使われるのではないか、という心配をするのが当然である。
知識が確実なものであれば、それは、精神病ではない人が精神病だと言い掛かられた時に反証する根拠に使える。
しかし、統合失調症だとされている人の遺伝子と、そうでない人の遺伝子を比較して分かった事だ、と新聞に書かれていたので、誰が統合失調症だとされているのか、の部分が不当ならば、その不当な認定の受け売りにしか成らない。
分かり易く言うと、生物として優れた個体には精神病だという難癖が付けられる、という傾向が、統計全体を支配する程までに大きいならば、カルテと遺伝子の対応を調べて出した結果は必然的に、生物として優れた個体は統合失調症発症遺伝子を持っている場合が多い、という歪んだ物に成ってしまい、そこには何らの真理も含まれていない、という事だ。
何年も年月を経た後で、これが基に成ったデータとは独立の根拠として引用され始める、という悪質な目論見も警戒されねばならない。