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2014年06月14日(土曜日)
行動義務を努力義務に置き換えろ

今日は、
2013年12月03日の記事2013年12月04日の記事の続きを書きます。
続きではなく補足説明に終わるかもしれません。

先日理髪店で散髪をしてもらいながら世間話をしていた際に、単純な具体例として良いのを思い付いたのがキッカケで、本件を書く事にした。

原理のレベルでは法的な義務は行動ではなく努力を対象とするのが正しい、というのが本件での私の主張です。
ここでの努力は、行動しようとする努力と行動しない様にする努力の事であり、内面の自由への制限ではありません。

この様な正義観は、現行の法律においては、正当事由という言葉を用いた但し書きを、行動に対する義務規定に付け加える形で、反映されている様に見える。
しかし、そういう但し書きが全ての条項に付け加えられているわけではない(正当事由が無い限り泥棒するなとは書かれていない)分だけ反映が不完全だし、義務の対象を行動だとしている点が概念的にスッキリしない。

理学と工学の違いを見れば分かる様に、上記の私の主張を法の運用にそのまま適用するのは無謀だろうけれど、原理としては異論の余地なくそうだ、と私は考える。
物理学の原理を工夫無しにそのまま工学で用いると機械は上手く動かないが、その事によって物理学の原理が否定されるわけではないばかりか、物理学の原理を否定して機械が動く物でもない。
私の主張をそのまま運用すると、努力はしたんだが避けられなかった、という風に犯人が嘘を吐く、という難点がある。
現行の法律が行動を義務とする形で書かれているのは、おそらく、この事情によるだろう。
しかし、行動を義務としたのでは、犯人が被害者を違反行為をせざるをえない状況に追い込む、という犯罪を許してしまう。
実際問題としては、故意の追い込みが無い限りは行動を義務とする、というのが実際的で、これでも自然に発生した困難に追い込まれて違反行為を避けるのが困難な場合が有るので、厳し過ぎるかもしれない。
どんな事があってもしてはいけない、という道徳律は、本来はそこまでの物であり、故意の追い込みが有った場合についてまで妥当する物ではない。
その意味で、「どんな事があっても」という表現は厳密には不適切である。
自然に発生した困難に追い込まれても違反行為をしなかった、という段階で既に、順法精神が非常に立派な人だ、という評価を受けるに値するので、それ以上が義務だ、なんて事は有り得ない。

また、原理をハッキリさせておく事には、普通はなかなか判明しない様な事実関係が判明してしまっている例外的なケースについて、原理が直接適用できるのに、そうせず、事実関係が判明しない場合の為の処理方法を理由にして原理に対して反論する、という本末転倒を防ぐ為にも、意味がある。

理髪店で散髪してもらっている際に思い付いて話した具体例は、下図の状況だ。

 

AがBを後ろから突き飛ばし、Bは、自力では持ち堪える事が事が出来なかったので、Cを後ろから突き飛ばす事によって自分の転倒を防いだ。
Cは転倒して怪我をした。
義務が行動に対してならば、Bは義務違反に成ってしまう。
Aも義務違反だが、Bに被害が出ていないので、Aは償いを全く要求されない。
Cには被害が出ているので、Bはそれを賠償させられる。
これではいけない、という話だ。

実際には、人間はそんなに馬鹿ではないので、全くの上図の状況では、そんな事には成らないだろう、とは思うが、上図の状況そのままではなく、上図の状況に例えられる状況では、そんな事に成っているケースが山ほどあるはずだ。
実際の、Bが償いを要求されずに済んだケースについても、何か施しでも受けたかの様に、その理由を情状酌量と言われるのは、Bにとって心外であるはずだ。
真性の嫌がらせはAの存在が第3者に見えない様に工夫された物と見なせよう。

義務を行動に対する物ではなく努力に対する物だとすると、BにはCを突き飛ばさない様に努力する義務があるが、Bはその様に努力しているので、Bに義務違反は無い、という判定に成る。
Aは、故意に突き飛ばしたので、突き飛ばさない様に努力する義務に違反しており、Cの被害は全てAが償う。
Bが無罪なのは、情状酌量などという不名誉な理由でではなく、何ら酌量する事なくストレートに無罪なのである。

Bに課せられる努力義務として、故意に突き飛ばされてもその被害を出来るだけ自分だけで吸収して他の人に拡散させない様にする、という義務(ITセキュリティでは、しないと加害者に成る、という言い方で肯定される事が多い)を置く事には、犯人に付き合ってしまう、という難点がある。
これはAがCを人質に取ってBを脅している状況であから、取引には応じない、という態度が本当は正しい。

故意の加害に対しては全く何も我慢しないのが正しい、というのが私の意見だ。
(我慢しないと自分が損をする場合には応急措置として我慢するが、後述する様に、それも損害としてカウントし犯人に貸して行く、という考え方を私はしている)
私の言動の特徴にはそういう成分が含まれており、過去の私の言動を見て負の印象を持った人の中には、それを見た人が居る、という事に私は自分で気付いている。
少しでも我慢すれば、犯人に付き合ってしまった事に成る。
付き合った場合には、Aから受けた被害をBが自腹を切って埋めた(自分の人的資源を費やして、の場合もあり、金銭的にとは限らない)、というのが真相であるのに、第3者からは被害が発生しなかったと誤認され、Bがその分をAから返してもらう事が出来ない、という問題が生じ、これに例えられる問題が現実の社会に多数存在している様だ。
これは、Cの存在の有無とは無関係に言える事なので、上の図の話とは切り離して論じる方が良いかもしれない。

加害未遂事件の中で、被害者が持ち堪えたために被害が出なかった物については、もし仮に被害者が無抵抗だったならどう成っていたかを考え、損害が発生した後で被害者が自腹を切ってそれを埋めたものとして扱うのが正しい、と私は考えている。
私が特にそう思うのは、被害者が普通では考えられない様な抜群の優秀性を発揮して防御に成功した場合についてだ。
他の人では絶対に防げなかったであろう様な攻撃についてまで、被害者が防いだために攻撃者の罪が不問に付されるのであれば、被害者は防ぎ損であるし、防げなかったら負ったであろう損害を負う危険にさらされた、という損害が軽く見られ過ぎる。

例えば、被害者にとって非常に貴重な物品について、加害者がそうと知っていながら「これ、もう捨てても良いですよね?」と何度もしつこく尋ねる、という手口が有る。
何度も聞いていれば、一度ぐらいは被害者が誤って「はい」と答えてしまう可能性がある。
加害者は、それを狙っているのである。
これを、被害者が一度も間違えなければ被害が無いので加害者は無罪、被害者が間違えれば同意を得たので捨てても加害者は無罪、とするのは明らかに間違いである。
被害者が間違えなくても、被害者は危険という損害を負わされたのだ。
被害者が間違えれば同意を得ていても、弱点への付け込みである。

努力義務の内容は抽象的な意味で、どちらの方向に少なくともどれだけの大きさの力で押す、という物です。
下図の様なイメージも思い浮かびましたが、方向は単一だ、とする方が正しいかもしれません。

 
赤色の直線の方向への努力義務の大きさが青色の双方向矢印で表されている。
方向性は順序観によって定まる。
違うかもしれないが、今の所こういうイメージが思い浮かんでいる。
マイクやアンテナの指向性を表す図を参考にした。


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2013年12月03日の記事には私は、「正義観とは順序観の事だ」と書いたが、正義観とは義務と権利についての順序観の事だ、という風に、書き直した方が良いかもしれない。
義務以上に善い事をする話は、また別の話の様な気がして来た。