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2014年05月28日(水曜日)
私が存在を感じて来た社会嘘

上手く書けるかどうか分からないけど、昨日同様、忘れないためにメモ程度に書きます。

大雑把に言うと、意見が極端に食い違う人同士を面と向かわせない様に配慮がされているのを感じた。
これだと、嘘ではないし、そんなに新しい事を言ってるわけでもない、と思われるだろう。

例えば、2人の人A, Bが居て、それぞれ、次の様に思っているものとする。

[Aの考え] 人には他の人から離れる権利が有る。(普通の考え方)

[Bの考え] 人には他の人を自分から離れさせない権利がある。(人が人を所有する考え方に通じる)

そして配慮者は、Aに対してもBに対しても、もちろんあなたの考えている通りですとも、という風に言い、AとBがこの論点で衝突しそうに成ったら、巧みに間に割って入り、問題をはぐらかし、AもBも互いに、自分の意見には当然相手も納得しているはずだ、という誤解を両者が保持し続ける様にする。

嫌がらせ行為(罠ではなく素朴な嫌がらせ)を考える場合、AはBにXをやめさせる事が出来ると考えているが、BはこのぐらいならAは許さなければいけない、と考えている。

自分がBに「Xをやめろ」と要求すればBはXをやめざるを得ず、それはいつでも出来るが、大目に見てやっている、という風にAが考えている間は、両者の間に衝突は生じず、表面的にはコメディー程度のストレス(つまり大した事ない緊張度)で、AもBも安心して過ごす事が出来る。
しかし、それは、両者とも、知らぬが仏の安心である。

ひとたび何かの拍子にAの、気まぐれや、他の負荷の増大による残存許容量の減少によって、AがBにXをやめさせようとしたら、問題が表面化する。

BがXをやめなければ、Aはやめさせる力を強めがちだ。
それでもやめなければ、もっと強めがちだ。
その結果Bは、Aから暴力を振るわれて怪我をする、という事も有り得る。

ここで、Bとしたら、たったXぐらいの事でそんな風にしなくても良いじゃないか、というAに対する呵責の気持ちが生じるだろう。
しかし、Aにしてみれば、BがXをやめなかった事が悪いのであって、結果を残念には思うが、Bの自業自得であり、これに懲りてもうするなよ、という論理に成る。

Aの要求に応じてBがXをやめた場合でも、Xぐらいさせろよ、という不満がBに残る。

これは、ハッキリ言ってBが悪いのだが、そう割り切って処理する事が文化的にあまりに強固に支持されて抗い難い状況を長く続けて行くと、段々とまたBが可哀そうに見えて来たりするものだ。

万人に共通の、Bへのこの同情傾向による正義錯覚を背景とすれば、Bの守護活動の体裁を取りながらAを侵略出来る、という事に目を付けた悪者が、嫌がらせを罠として用いはじめたのだろう。

嫌がらせの話とウソの話とごちゃまぜに成ったかもしれないけど、疲れていて、これ以上キチンと書き直せないので、このぐらいにしておきます。