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2014年05月22日(木曜日)
誤謬者負担方式の必要性

誤謬者負担の原則の必要性としては、刑務所が一杯で犯人を収容し切れなく成って来た、とか、被害者負担方式への甘えで犯人が増長している、等の理由が普通は想起されるだろう。
だから、特に言っておく必要が有るのだが、私は、それらの理由とは別の、以下に説明する様な事を、もっと重要だと考えている。

子供の頃、偉人伝を読んでいた時だったか、誰々は金持ちだから傍若無人だった、という風に書かれているのを見た事が何度もある。
また、公道をルールを守って貴族の様な姿勢、表情、動作様式で堂々と歩行している人を指して、あの人がああ出来るのは力が強いからです、という風に説明されるのに似た経験をした事もある。
いつ頃からか、何様のつもりだ、という避難語が流行し始めたが、この流行は、この様な状況への加担を助長する動きの印だ。

これは変な話だ。
傍若無人と言っても、それは自由として認められている範囲内での行為の事であるはずだ。
なら、それは金持ちでない人にも許されているはずだ。
また、歩行の様態にしても、美しく歩く事が呵責の対象に成る正当な理由なんて全く無い。
これらは、現代法的には、少なくともそれぐらいはその人の自由だ、とされている事項だ。

つまり、誰でもしてよいはずの事が特別な条件が成り立っている人にだけ許されている、という現状があり、私は、これが、被害者負担方式を相手の盲目や遠慮に付け込んで「なあそうだろ」と言って吹っ掛ける詐術、に由来する、と洞察している。
被害者負担方式には何も変な所は無い、という屁理屈を、屁理屈だと気付かれずに恐る恐る一旦通してしまえば、これが数学の公理の様に機能して、後は、そこから、反論を受ける心配が少ない屁理屈が数学の定理と系の様に、芋づる式にズルズルと使用可能に成るのである。
そういう問題は、誤謬者負担方式に切り替える事によって、解消するだろう。

誰でも取ってよい態度が、金持ちならではの傍若無人、とされるのは、金持ちでない人がそういう態度を取ったら攻撃を受け、その攻撃は不当な犯罪だ、という事だ。
これに対して本人が、それは不当な犯罪だから顧みろと言われる謂れは全く無い、とツッパネたなら、どう言われるだろうか?
「それじゃあ、その防犯コストは誰が負担するんだ?金持ちだろうが。防犯コストを負担せずに犯罪を誘う事は傍迷惑である」という風に言われる傾向が有る。

つまり、被害者負担方式は潔白者同士の競争に八百長効果をもたらす。
金儲けの競争は金儲けの競争で、立居振舞の美しさの競争は立居振舞の美しさの競争で、別々に競われねばならない、前者の結果を後者の結果に反映させようとする事は、美しい衣装を買って着るとか、立居振舞を習う、といった、自分はどうするかという事を通してのみ許されるのであり、ライバルにはさせないという形では許されない。
金持ちならではの幸福は、買った分だけの幸福でなければいけないが、実際には、副次的な効果(売った人に好かれる等)が生じ、それが甘い汁や押し売りされる商品に成っている。
金持ちでない人の側からは、買った分だけの幸福の間の不平等を問題だとする意見すらあるのに、金持ちの人の側には、副次的な効果(金持ちでない人に競争で負けない様にエコヒイキしてもらえる事)が生じないなんて嫌だ、という本音が有る事は、現状には普通言われている以上の根深い対立が潜んでいる事を意味する。

金持ちの傍若無人は、何によって保障されるか、について。
金も、持っているだけではだめで、使う事によって犯意を未然に抑制する、という事が必要だ。
日本には無いが、チップという商慣行が欧米に有るのは、これが原因ではないか。
金持ちが防犯コストを負担する、とは、警察代を払う、という事よりも、この意味合いが強かろう。
つまり、受け取る側の「くれなければ犯罪を犯すぞ」という脅しが背景にある、あるいは、過去にそういう問題が顕在化してそれへの対策としてチップ慣行が生じたのかもしれない。
これは、本来無料であるはずの自由が取り上げられた上で押し売りされている、という解釈だ。
エコヒイキを期待する場合には民民賄賂という解釈に成ろう。

自分以外には人が居なかったら存在しない被害を防ぐ事が本来は自分の義務で、それを他人に代行してもらえばその分謝礼を払うのが当然だ、というのはおかしい。
社会を自分と自分以外に二分して考えると、自分が受ける犯罪被害の防止を他者に代行してもらう事は、自分以外が犯行を自分で思いとどまる事に当たり、それに対して被害候補者がすべき事は、せいぜい「偉いねえ、お利口さんだねえ」と言って褒めて上げる事までであり、礼を言うには及ばない。
礼は、犯人が防いでくれた人に言うべき物、である。

高校時代にある社会科の先生が、標識に「夜道で痴漢に気を付けろ」と書かれているのはおかしい、と指摘するのを聞いた事がある。
被害者が負うべき事は全く無いはずだから、という理由が添えられていた。
実際問題としてそういう標識を間違いだとは思わないが、何が誰のせいかを指摘する考えとしては、全くその通りだ、先生さすが、と思った。
このエピソードにも見られる様に、突き詰めて考えると、誤謬者負担が正義である事は、異論の余地なくそうなのである。

犯罪は犯人の窮状によって生じ、その窮状は被害者の過去の犯罪によって生じた物だ、という主旨の問題指摘を聞く事がある。
社会主義者は自由主義領域内での出来事を、そういう風に言う傾向があるだろう。
私の主張は、その批判が妥当する場合についてまで現在の犯人を突き放す物ではない。
これについては、
2013年12月03日の記事2013年12月04日の記事が参考に成る。

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2014年05月18日の記事への補足。

過失の場合が脳裏をよぎった、というよりは、自損の場合も含まれるから、だった。
防犯以外に、攻撃を含む防衛もあった。