since 2003
イレコナビ サイトマップ
< 日記 >
< 2014年04月 >
< 08日 >
2014年04月08日(火曜日)
疑わしいに過ぎない事を突く弁護術

2014年04月05日の記事に書いた様に、疑わしきは罰せず、という基準は、検察側にとって絶望的なまでに厳しい物であり、それを厳密に実行すれば、実際の裁判では、全ての事件に対して無罪判決が出てしまうので、処罰という物を完全には放棄しないためには、無実である疑いが非常に小さい場合には罰する、という基準に置き換える必要が有る。

疑わしいに過ぎない事を突く弁護術として最も厳しい物は、検察側の言う事の一々について「立証の立証を立証してください」という態度を取る事であり、これだと検察側は絶対に勝てないが、これは、無実である疑いが非常に小さい場合には罰する、という基準には適合しない。

現実の裁判はどうか、と言うと、疑わしきは罰せず、という基準に従ってます、それでは裁判に成らないからといって、無実である疑いが非常に小さい場合には罰する、という基準に置き換えるなんて譲歩は一切していません、と言いながら、その実は、無実である疑いが非常に小さい場合には罰する、という基準に従うよりも、遥かに検察側に甘い、というのが実態だろう。

テレビで裁判員制度についての番組を見た際に、具体的な仮想事件について、殺意の存在を立証する、という場面が説明されていました。
なるほど、と思わせる内容でしたが、数学の証明を念頭に置いている私の目には、立証とは程遠い物でした。
しかし、あれが、実際の裁判における立証の水準なのでしょう。
そこでは、刃物による傷の位置を根拠に、殺意は有った、という結論が出されていました。

これを例に取って説明すると、そうとは限らないじゃないか、と弁護側が反論しても、他にどんな可能性が有ると言うんだ、という抗弁が検察側から為され、弁護側が可能性を挙げる事が出来なければ、ほらみろ、そうと限るんだよ、という風に持って行かれる、のが落ちです。
しかし、疑わしきは罰せず、の観点から言うと、そうではない可能性が有る事を弁護側が示す必要が有るのではなく、そうではない可能性は無い事を立証する必要が、検察側にある、はずなのです。
この様な証明の責務の転嫁は、日常会話でも、詭弁のテクニックとして、頻繁に経験されます。

しかし、そうではない可能性は無い事を検察側に立証しろと要求する事は、ほとんど処罰の放棄でしょう。
そんな立証は出来ないから。
数学では、そこまで出来てないと、証明できたとは見なされないけどね。

しかし、それでは、弁護側がそうではない可能性を挙げる事が出来て、その可能性に対して、検察側が、弁護側に、それが可能性に過ぎず実現していた事を立証せよ、という要求した、という場合については、どうだろうか。
こういう証明の責務の転嫁も、日常会話で、詭弁のテクニックとして、頻繁に経験されます。
この場合に、弁護側は可能性を挙げるだけで十分なのであって、その可能性が実現した事を立証する必要は無い、とする事は、検察側に厳し過ぎるとは言えません。

たとえば、刺し傷が多数あったので殺意は有った、という検察側の主張に対して、容疑者の腕が痙攣して刺し傷が複数に成った可能性が有る、という反論を弁護側がした場合、そういう可能性が実現したなんて事はまず無いだろうけれど、この反論は有効とされねば成らない。

可能性を挙げる事よりもっと検察側に譲歩した弁護として、過去にそういう可能性が実現した例が有る、という例示を行なう事が、適当だと思う。
これが、今回私がお勧めする、疑わしいに過ぎない事を突く弁護術です。
疑わしきは罰せず、を標榜するからには、実際の裁判は、少なくとも、この弁護術を有効とする物でなければいけないだろう。

「私がやりました」という自白が虚偽であった、という実例が一つでも過去にあれば、弁護士は、それを例示する事によって、本件においても自白は虚偽である可能性が有るので自白が虚偽ではない事を検察側が立証するまではこの自白を証拠としてカウント出来ない、と主張できるのが、本当は正しいのだ。