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2014年04月05日(土曜日)
疑わしきは罰せず、が本当ならば

日本物理学会2014年春季大会で発表するために小田原駅の近くのホテルに泊まっていた時に、客室のテレビで、袴田事件の冤罪性に関するニュースを見た。

現在、このニュースが巷をにぎわしており、丁度良い機会なので、疑わしきは罰せず、という原則について原理的な事を、今日は書きます。
それは、次の二点です。
(1)疑わしきは罰せず、が守られている限り、無実なら必ず判決は無罪に成る。
(2)疑わしきは罰せず、が守られている場合、弁護側は、検察側の主張に含まれる論理の飛躍を見付けて指摘するだけでよく、何も立証する必要は無い。

(1)は、無実ならば絶対に有実の立証は不可能であるからだ。
事実が事実ではない事を証明する事も、事実でない事が事実である事を証明する事も、不可能である。
それらを証明できた、とする主張は全て勘違いかイカサマであり、そういう証明候補には、必ず途中に過誤が含まれているはずだ。
証明できたならば、それは事実であった、という事だ。
従って、疑わしきは罰せず、が守られている限り、処罰の対象と成る行為をしさえしなければ、処罰に関しては、全く何も考えずに安心して暮らせる、という事だ。
虚偽の自白をしたら処罰される、とか、裁判官の心証に配慮しないと有罪判決を受け処罰される危険性が有る、という事は、疑わしきは罰せず、が守られている限り、起こり得ない。

疑わしきは罰せず、という原則は、有実でも判決が無罪に成ってしまう場合が有る、という欠点を持つものであって、それは、(1)を保証するためのやむなき譲歩である。

(2)については、疑わしきは罰せず、が守られている場合、弁護側にとって、検察側の主張が事実に反する事を証明する、という様な事は全く必要ない、という事である。
何かを立証しなければいけないのは検察側だ、というのが、疑わしきは罰せず、の原則だから、弁護側は、検察側の主張に対して、それでは証明に成っていない、という事を指摘するだけでよいはずだ。
つまり、証拠について言うならば、弁護側には、検察側の提出した証拠に対して、それが捏造された物である事を証明する必要は無く、捏造でない事が立証されていない事、を指摘するだけで十分である。

自白についても、同様である。
無実の被告が「自分がやりました」と自白した場合、無実なのにそう自白した、という事を法廷で裁判官・裁判員に信じてもらう必要は、疑わしきは罰せず、の観点から言うと、有ってはいけない物である。
被告は無実なのにそう自白した、のではない事を証明して見せる必要が検察側にあるのであって、それが出来なければ‘疑わしき’の段階に留まるのだ。
この観点から言うと、取り調べの様子を録画・録音しない事によって検察側が得る物は本当は何も無いはずである。

無実の被告人の観点から言うと、逮捕され裁判にかけられた際に、自分には無実だと分かっているわけだから、検察側の有罪立証の論理を、どこかに必ず証明に成っていない所があるはずだ、という目で観察する事が出来る。
そして、そういう部分は必ずあるはずだから、たぶん見付けて指摘する事が出来るだろう。
しかし、無実である事を知っているのは本人だけだから、弁護人は、そこまで‘必ずあるはずだ’とは思えないだろう。

現在、私は、釈由美子主演の「7人の女弁護士」というテレビドラマの録画を少しずつ視聴しているが、その内容は、主人公の弁護士が独自に色々と証拠収集をして被告人とは別の人が真犯人である事を立証する、という物だ。
これを見ながら(2)を思った。
(2)の観点から言うと本当は、弁護士の業務は、被告人と面接すらする必要は無く、法廷にだけパートタイムで出席して、ハナクソでもほじりながら、検察側の主張の繋がっていない部分を見付けては、その部分は繋がってません、と指摘するだけで良いはずなのだ。

疑わしきは罰せず、が本当ならば、こういう事に成ってしまう。
従って、疑わしきは罰せず、を真面目に地で行くと、何も処罰できない、という事態に陥る事が、容易に想像がつく。
おおよそ、実際に起こった事を本当に起ったと証明する事は、証明という語の意味を数学における証明の程度にまで厳密に解釈するならば、実際問題としたら不可能である。
そういう意味で証明できる事なんて、実際には一つも無いだろう。

だから、処罰を完全には放棄はしない、という事は自動的に、厳密な‘疑わしきは罰せず’の放棄を、意味するのである。
こうやって、無実である疑いが非常に小さきは罰する、という実際的な基準に到達する事は、やむを得ない事だ、というのが、まずは、私の基本的なスタンスだ。
しかし、この様に少しでも論理に隙間を空けてしまうと、今度は、それをセキュリティホールとして活用する犯罪、という物を許してしまう事に成る。
そういう犯罪が無い限りは、ちょっとぐらい厳密でなくても、そんなに冤罪は生じないはずだが、そういう犯罪が実際には有るので、ちょっとの違いが、全くダメなのか幾らでもオッケーなのかの違いに繋がってしまっている。
この事情を汲んで、最近の私は、基本的なスタンスで十分だ、とは思わなく成って来ている。

処罰の対象と成る行為をしさえしなければ処罰を恐れる必要は無い、という状況は、肯定され目指されるべき物である。
これは、一々言うまでもないぐらいに当然の事であり、私もそう思うし、ここを読んでいる人の大半もそう思う事だろう。
また、疑わしきは罰せず、の原則の存在が、その事を証している。
しかし、世の中には、現行の制度の処罰の対象範囲の狭さを不満に思い、もっと些細な行ないに対して処罰を加えたい、という邪な願いを持っている人々が居る。

袴田氏も、そういう犯罪の被害に遭った可能性が有るだろう。
私は、間違い無く、そういう手口で狙われている。
テレビニュースを見ていて、事件当時の袴田氏の普段の態度が粗暴であったため犯人だと思われてしまった、という話が聞こえて来たが、勘違いされたのですらない可能性が有る、という事だ。
つまり、袴田氏の普段の態度が粗暴だったので、そういう態度を取った事に対して処罰を加えたいが、現行の制度では、そういう態度を取った事に処罰を加える事は出来ないので陥れた、という可能性だ。
さらに、もっと言うなら、粗暴ではなく、生意気であっただけなのに、生意気では正当理由に成らないので粗暴だと言い掛かった可能性もある。
生意気ですらなく、単に自分の分を盗られそうに成った時に、それを防いだだけかもしれない。

可能性を挙げれば切りが無いが、私に対して来ているのは、そういう状況である。
さて、自分の分を盗られそうに成った時にそれを防ぐ事は、現行の制度では処罰の対象と成らないし、当然そうあって然るべきであるのに対して、それを故意に処罰する事は、現行の制度でも処罰の対象であるはずだ。

参考:
2013年02月08日の記事