since 2003
イレコナビ サイトマップ
< 日記 >
< 2014年03月 >
< 08日 >
2014年03月08日(土曜日)
嫌がらせが空手に勝てない本当の理由

嫌がらせの使い手と空手の使い手が戦った場合、嫌がらせの使い手は負ける。
その理由の候補としては、何段階かに分けて、次の様な物が考えられる。

(1)空手は、空手の試合で勝つ様に設計されており、実際の戦いは空手の試合に似ているから。
(2)空手をすると、恐れなくなる、勇気を持つから。
(3)空手の戦い方はスマートなので、第三者の支持を得やすい。
(4)空手ナルシシズムによって、空手家は嫌がらせに対して怒らない。

子供の頃の私は、(1)しか考えていなかった。
しかし、これでは、加害者として処罰されてしまう危険性がある。
それが嫌がらせの使い手の狙いであり、子供の頃の私が(1)しか考えていなかったのは、
嫌がらせの正体を知らなかったからだ。

嫌がらせの使い手の属する犯人連は、被害者の恐怖心を利用して、被害者に自分から権利放棄を申し出させ、自分たちは何も強制していないし、何も脅迫していない、という態度を取る。
私は、忌憚なく物を言った時に、それを聞いた人から「お前、怖くないのか」という言葉で脅された事がある。
(2)は、これに対する免疫として、友人から聞いた物だ。
しかし、これは、嫌がらせ行為に対する免疫ではなく、犯人連が、嫌がらせ行為の発覚リスクを嫌って、その一歩手前で処理してしまおう、とする時の言葉でのやり取りに対してだ。
(2)を私が友人から聞いたのは、私が、(1)の観点だけで、空手を習得しても必ずしもそんなに強く成れるとは限らない、という問題点を指摘した際だった。

嫌がらせ行為の正体を踏まえた上で言うと、(3)が、
2014年03月05日の記事の有能な剣士が第三者の支持を得やすい事に、相当する。
この道理に気付いた時には、私は、何か空手の格好悪い側面を、見てしまった気がした。
例えば、肘を高く上げて殴り掛かると如何にも暴力で悪い事をしている様に見えるが、空手の肘を下に下げたままの突きは、そういう印象を与えない、正義の武力行使に見える、といった事です。
空手を練習すれば、防御のみか、攻撃しても良いか、相手の何に対して自分は何をするか、の選択が的確に成る、という事もあろう。

しかし、本日、わざわざこのページを書いたのは、(4)が言いたかったからです。
これはですねえ、必ずしも習得しなくても、習い始めた最初の1日目から始まり得る物で、自分は空手をやっていてそうでない人よりも優れているんだ、という自意識から生じるプラスの効果です。
一つには、想定するストレスレベルが上がる、という事が言えます。
つまり、全力で当たり合う事が基準に成るので、自分から当たったという事をしらばくれる事が出来る程度にしか当たらない嫌がらせは、あまり何とも思わなくなる、物足りないぐらい、という事です。
もう一つは、空手を習い始めると、他人に、ちょっと攻撃してみてくれないか、という風に自分から依頼する事があるほど、当たりそうに成る局面を好む様に成る、という事です。
そして、通行嫌がらせを受けた際の反応が、相手の非を咎める事によりも、自分の身のこなしの達者さを自慢する事に、ウェイトが置かれる様に成る、という事です。
また、こなし切れなかった場合でも、相手を責めるのではなく、空手をやっているのでこれしきの事は全然平気なんです、というやせ我慢に寄る傾向が出ます。
そうでなくても、自分は優れていて相手は劣っているのだから、強健な若者が虚弱なお年寄りに接する時の様な、いいんです、いいんです、いいんですよ、あなたは劣ってるんだから、という優しい態度に成る。
空手を習うと、空手をやっていない人が善悪軸で見てしまう事象を優劣軸で見る様に成る、という事です。
このために、嫌がらせの使い手の意図する、被害者を怒らせて被害者に手を出させる、という事が非常に実現され難く成るのである。
これは、(3)よりも、もっと格好悪い空手の真実だが、もうここまで来ると、嫌がらせに勝ち目は無い。
もちろん、空手をやる人にも色々居るので、中には、格好悪い所が全く無い人も、居られると思う。

---
2014年03月05日の記事への補足。

「嫌がらせを受けると被害者は機嫌が悪くなる。機嫌が悪く成ると、その人に接する人からの評価が下がる。評価が下がると、その人々からの証言が不利な方へシフトする」というプロセスは、私の場合は「私が他者を馬鹿にし、それによって私への評価が下がっている」という形で、具現しており、これは、私への攻撃の真犯人が馬鹿にされて怒っている人々ではない事、を意味します。
馬鹿にされて怒ってる人は真犯人に利用されているだけです。
他者を馬鹿にする私の態度は、その全てが不正行為の被害に応じて形成されたものではなく、思想や表現の自由の尊重や心理テクニックとしての自己暗示なども含まれていますが、私としては、ここまでされたからここまで言っても良い、という事を各段階で良心的にチェックしつつエスカレートさせて来た成分を含んでいます。
したがって、私としては、自分は間違っていないんだから、それが他人に分かろうが分かるまいが、それ以上は知らないよ、という考えで生きて来ました。
しかし、そもそも犯人連は、被害者が間違っていなくても、その事が他の人に分かっていない、という事を最大限利用しようとする、という事が、徐々に私にも分かって来ました。
これは、つまり、宇田にこうすれば宇田はこう言う様に成る、という事(正当な反応)を、積み重ねて、私の口の悪さをステップアップさせた後で、その結果だけを周囲の人に見せる事で、私を陥れよう、という作戦です。
それでも、疑わしきは罰せず、という原則さえ守られていれば、処罰に関しては心配する必要は無いはずなのですが。
日本物理学会2013年春季大会@学会発表@活動報告@学問に「腕を切り取られたり切り取られそうに成った3本腕の人が、その後で、2本腕の人の腕の本数の少なさをどんなに蔑んでも、その事に呵責を受けるべき罪は微塵も無い」という記述が有り、これが、ここまでされたからここまで言っても良い、という基準に該当します。

(本当であった場合の事の重大さ)×(本当である確率)で考える必要が有る事は、推定無罪の原則(疑わしきは罰せず)を生んだ親原理だ、と私は考えています。
したがって、推定無罪の原則を強硬に主張しておきながら、(本当であった場合の事の重大さ)×(本当である確率)で考えろ、という原則の適用をどこかで故意に怠る、という態度は、一貫性を欠きます。
推定無罪の原則は、(本当であった場合の事の重大さ)×(本当である確率)で考える事の重要性を認めるどころか、本当であった場合の事の重大さを本当である確率よりも重要だとして取り扱う方針だと言えます。
これに揃えるなら、真性の嫌がらせをされたという本人の主張を、それが本当である確率の低さよりも優先的に採用する、というのが道理である。
嫌がらせの取り扱われ方が歪められている事は、こういう風に考えても、分かる事である。

「2者間の問題ではなく、第3者がどう動くか、の問題であり、政治種の問題である」という事は、つまり、嫌がらせ行為が、社会雪崩を引き起こす行為だ、という事だと言える。
これは、落石の連鎖の原因に成る小石を山で投げる事や、雪崩の原因の音を出す事に相当する。
この様に認識すれば、嫌がらせが重罪である事が、鮮明に分かる。
子供の頃に私は、まず、2者間の問題は2者間で解決せねばならず第3者を自分の味方に呼ぶのは卑怯である、という道徳で、さんざん嫌がらせられ、それを私が克服すると今度は逆さまを言われ出した、といった感じも受ける。

本当であるかないか、という些細な違いによって結果に天地の開きが生じる、というカオス理論種の状況は、取扱いに細心の注意が必要な非常に危険な状況なので、裁判という場に局在させて危険物取扱専門のスタッフによって集中的に公開裡に慎重に処理しなくてはいけない、というのが罪刑法定主義の意訳だ、と私は理解している。
したがって、裁判以外の場で密かに処理する、という行為は、仮にそれが形式的に合法であっても、脱法行為以外の何物でもない。

「分不相応」としては私は、主に
基礎的分限の事を、考えています。

ヒヤリハットを繰り返し経験させる事によって被害者の神経を壊す、という手口の存在は、私が子供の頃に放送されていたテレビドラマ「仮面ライダー」の敵役の名前がショッカーだった事、に暗示されているらしい、という事にも、私は最近気付きました。
この他にも、自動車による通行嫌がらせについてはメキシカンという映画に、歩行者による通行嫌がらせについてはロッキーという映画に、実例が出ています。
また、子供の頃に、政治家の選挙公約の文句で、交通事故を人為的に引き起こす犯罪を取り締まる、という言い方では犯人連が怒るので、交通事故を減らす、という言い方にしてある、という話を聞いて、犯人が怒る事は何の理由にも成らないはずだ、と疑問に思った覚えが有り、この事も、通行嫌がらせの存在の証拠です。

今日は、くたびれたので、推敲不完全のまま、やめます。
「て」「に」「を」「は」の変な所もあっても、放っとらかしにします。