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2014年03月05日(水曜日)
嫌がらせ行為の正体

剣道の真剣勝負で有能な剣士は、敵の些細な様態の変化(動き未満の場合すらある)を捕らえてさっと身構える。
その時の敵の態度は、そう応対されて当然の態度である。
しかし、さて、それでは、敵の態度がそうだった事を他の人に分かってもらう事は出来るだろうか?
それは、本人の証言の信憑性に依拠するしかない。
(記録技術が発達した今では、本人の証言の信憑性以外にも頼れる物は有る)
それは、本人がどれだけ有能な剣士でどれだけ正直だと周囲の人から評価されているかである。
そこで、敵がそんな態度は取っていないとしらばくれれば、周囲の人に本人の勘違いだと思わせる事、が出来る可能性が生じる。
それは、本人の有能さや正直さを知る人がほとんど居ない場合や、知っている人が結託してしらばくれ、それ以外の人には分からない、という場合だ。
さて、それでは、身構え反応に要する本人の負担はどれ程だろうか?
真剣勝負の場合、非常に大きいと考えられる。
それだけでなく敵を倒すまで持続する心身の励起状態が始まる。
敵が戦おうとしない場合これがいつまでも解消されないので、その分負担は大きく成る。
電話を一時保留にしたままずっと過ごす様な状態です。
さらに敵が同じ事を多数回くり返せば、本人に回数分だけの負担の上乗せだけでなく、またいつ来るか分からない、という常時警戒(電話の長期保留の様な状態)の負担まで負わせる事になる。
これを、ずっとやって行くと、された人の体が壊れるレベルに達する。

寒いと体幹に血流が集中し手足が冷えるのと同じ理由で、危機でもそう成り、それを持続すると、手足に
リウマチが生じるのではないか。

敵の些細な様態の変化については、戦地で敵の伏兵を警戒しながら進軍している時、些細な音も聞き逃さない様に耳を澄ませ、ちょっとでも何か聞こえれば「お、何か聞こえたぞ、あれは何だ」と警句を発する状態を、別の例として挙げる事が出来る。
この状態では、いくら音が小さくても反応は大きい。
この状態を作り、似た音を聞かせる事を繰り返せば、聞いた人を壊せる可能性がある。
騒音嫌がらせには、この原理で加害する物が含まれている。
つまり、騒音とは別件で、自動車を迫らせるなど、被害者を何度も脅かしておいて、その後で、被害者の居宅付近で異音を出すと、被害者は、その音に、敵の動向を知らせる物として、注意せざるを得ない状態に成っている。

出来る出来ないで考える事が肝心だ。
以上の様に、こうすればこう出来るじゃないか、という筋書きは、幾らでも考えられる。
したがって、そういう事については、された、という訴えには耳を傾ける余地がある。

本人の勘違いである可能性がある、という事は、本人の勘違いである事が判明した、という事とは違う。
本人の勘違いである可能性が有るのと同時に、本人の言う通りだった可能性もあるのである。
それを、勘違いの可能性が有るから勘違いだった、と決めつけて取り扱う事は、エコヒイキ(犯罪への加担)である。
もし本人の言う通りだったなら非常に重大な事件だ、という場合には、言う通りである確率があまり高くなくても、軽んじる事は出来ない、とするのが順当である。
(本当であった場合の事の重大さ)×(本当である確率)
で考える必要があり、確率だけ言うのは、呆れた言い逃れであり、そういう言い逃れは言った人が犯人とグルである事の証拠と見なせる。
それに加えて、この問題は
2013年02月08日の記事に書かれている道理の出番でもある。

出来る出来ないで考えろ、という基準は、被害者に聞こえる様に故意に笑い声を出して被害者を怒らせ、その後で、お前の事を笑ったわけではない、怒ったお前は勘違いをしている、という風に言い掛かりをつける、という方法について、子供の頃に友人から、本当に笑われた場合だってあるよね、と言われた際に、私がコメントした事である。
背後に何らかの紛争が有り、その事が伏せられた状態で、私はその判決係として意見を求められた感じがしたが、私のその時の笑われた人に有利に働くコメントは持ち帰られた後でノーカウントにされる危険性がある、という懸念を、その場で私は感じ取った。
本当は笑われたのではない、と決め付ける事が出来ないのが、本当に笑われた、と決め付ける事が出来ないのと同様である事は、確率の話の所で述べた通りだ。

個別の事例について、笑われた人の勘違いであったかどうか、については、分からない、と私は答えたかもしれないが、出来る事をされたという訴えを門前払いする事は出来ない、という考え方は、私の一貫した見解だ。
とは言っても、その件で犯人連が私の返答を不都合だと感じた為か、それを答えとする質問が私に為される事はその後無く成ったので、そう答えたのは一度きりだったかもしれない。
日本物理学会2013年春季大会@学会発表@活動報告@学問に、犯人連の1人が別の件について「だからこいつに訊くなと言っただろうが」と言った、という話が書かれています。

笑う手口については、私はそれを間違いなく何度も経験した。
罠だと思って全く反応しなかったが、ロード自転車でサイクリング中に新涯付近の交差点で一緒に信号待ちしていた乗用車の愚連隊風青年達から、また、神辺町平野の友人宅と道路を挟んで向かい側に最近出来たばかりの住宅群の駐車場に立ちん坊に成った小太りの中年女性から突如、また、自宅北東の民家脇を歩行中に私の通過タイミングにピッタリ合わせて屋内から突如、ほぼ間違いなく、ここで論じている笑い声が発せられた。
ホームセンターで塩ビパイプをカットしてもらっている時に到来した夫婦らしい2人連れの中の婦人が、間違いなく、ここで論じている笑い声を私に向かって発した、という事もあった。
思い出せないだけで、他にもあったろう、と思う。
従って、笑う事から始めて陥れる犯罪、という物が間違いなく有る、という風に、私は断言できる。
これは、大変な事であるはずだ。
こんな物は、有ってはいけない。

ついでの話だが、その時私が罠に掛からなかったのは、罠だという事に私が気付いたから、ではない。
笑う、という行為に対して怒る事はしない、というのが私の基本だ。
(最近では腹が立つが、それは、笑われたからではなく、罠だからだ)
これは、侮辱という行為に対する私の位置付けが軽ランクだからだ。
その事は、
2012年07月18日の記事に書かれている。
間違った非難に対しては私は怒る。
相手の態度が侮辱であるか間違った非難であるかによって、私の反応は鋭く変化する。
侮辱に対しても、全く何もしないのではなく、自分の選択の自由の範囲内で侮辱されない選択をする、とか、間違った侮辱に対しては、それが間違いである事が良く見える様な状態で自分が居る様に心掛ける、という対処はする。

笑われた時だけでなく、私には、罠に気付いたからではなく、元が正しいから罠に掛からなかった、という事が多い。

現在、私に対する道路通行上の危険行為やあらゆる場所での騒音嫌がらせなどについて、本当は私の言う通りである事なんて、私の事実認識力の確かさを知っている人なら、誰でも分かっているはずだ。
従って本当は、周囲の人が聞いても分からない、のではなく、聞き役の周囲の人まで抱き込まれている、という事であり、嫌がらせ手法の隠蔽力が大きいからではない。
皮肉を言うなら、何も隠さず白昼堂々露骨に殴り掛かっておいて、それを見た人も犯人と一緒に、何も無かったとしらばくれる、のと何も変わらない。
その意味で、犯人のコソコソには、何の意味があってそんな事をしているのか、と訝しさを感じる。

嫌がらせの目的が被害者を怒らせる事である事は、私が子供だった頃に放送されていた「8時だよ全員集合」というテレビ番組のリーダー格の出演者の名前がイカリヤだった事に表れている、と私は最近に成って気付いた。
被害者をしつこく怒らせ続ける事によって被害者の神経が壊れる、という事がありそうだ、という事にも最近気付いた。
8時だよ全員集合のメインコンテンツであった寸劇には、ドリフターズのイカリヤ以外の面々がイカリヤから何度注意されても懲りずにしつこくイタズラを繰り返してイカリヤを怒らせ続ける、という内容が多く含まれていた。

8時だよ、で分かる様に、遠目に見ると笑い話に見える。
これが、犯人連の依拠している、傍観者に加害の凶悪さと被害の深刻さが理解され難い、という法則性である。

しつこくやめない、やめさせる手段を予め取り上げておく、という事が重要であり、この事は、嫌がらせ行為が、それ単体で存立している物ではなく、やめさせる行為への偽処罰という背景威嚇とセットである事を意味する。
やめさせる手段を予め取り上げておく、というのは、警察等との結託である。
その意味で、嫌がらせ行為をそれ単体で見て軽微だと判断するのは間違いであり、嫌がらせは凶悪犯罪である、とするのが正しい。

傍観者に理解され難い事としては、次の様な例を記憶している。
何年か前に、石原伸晃さんだったか、ある政治家が、ある特定のカテゴリーに属する人々に追い掛けられている、という風に切羽詰まった顔でテレビで言っているのを見た時に、私には、それが微笑ましい些細な出来事ぐらいにしか思えなかった、という事があった。
押しも押されもせぬ大物政治家が大した事ない幾ら大勢の人に追い回されても、それは脅威ではなくその人の繁栄の証だ、ぐらいにしか見えなかったからだ。
極端な話、追い掛けられると嬉しいんじゃないのか、といった問題すら頭に思い浮かぶ様な状態だ。
これは、加害者が、礼儀や優しさを口実にして、自分たちの犯罪をドギツイ言葉で被害者に言わせない様にする事によって、被害者の申告が聞いた人に分からない様にしている、という事だ。
(つまりは、追い掛けられるだけではなく、問題はそれ以外の部分に有った、という事だ)
言葉狩りの正体もこれだろう、と私は思っている。

気に成っている他の例としては、テレビで「圧力に対して断固戦う」と言っていた人が居た事や、私の学生時代の卒業研究の先生が、脅迫電話を受けた、という話をしていた事、が挙げられる。
断固戦う、と言っていた人は、もう誰だったかも思い出せないが、政治家ではなく、全くの民業で、それはその人の自由だろうが、という様な事についてだったから、そもそも何と戦う必要があるのか、という点で訝しく思い記憶に残っているのだと思う。
また、断固という言葉やそれを言う様子から、相手が非常に大きな力で押して来ているらしい事が感じられ、その分、あってはいけない事があってるんだな、そういう問題は放ってはおけないな、という懸念を喚起された。
私の学生時代の先生については、上記の政治家の件と同様の理由で当時は全く心配を感じなかったが、今では非常に困った問題を先生は抱えさせられていた可能性がある、と思っている。

そう言えば、学生時代に、ヘーゲル哲学を専門とする先生の哲学の授業で、その先生が、窓の外から聞えて来るガラス瓶を粉砕する音に腹を立てて窓を荒々しく閉める、のを見て、それを当時の私は理解できなかった、という事もあった。
今では、あれは間違いなく、その先生に凶悪な嫌がらせが仕掛けれられていた事の表れだった、と断言できる。
当時は、この先生は自分を偉いと思い過ぎているのでそんな態度に成るのだろうか、という風に誤解してしまった。
犯人の思う壺である。

嫌がらせを受けると被害者は機嫌が悪くなる。
機嫌が悪く成ると、その人に接する人からの評価が下がる。
評価が下がると、その人々からの証言が不利な方へシフトする。
嫌がらせ行為は、そこまで計算に入れて行われている。
私の10代後半に、だいたい憧れの大人のゾーンに位置する人の機嫌の著しく悪い姿を見る事が多かった事は、この様に考えるとうなずけるが、当時の私には、それが分からず訝しかっただけだった。
当時の私が理解できなかった事のもう一つの理由としては、犯人はリアルタイムで被害者の現在位置付近で音を出し続けるので、被害者以外の人は、一瞬の交点でしかその音を聞かず、被害の深刻さを理解できない、という事情もある。
これも、嫌がらせ行為の計算に入っているはずだ。

犯人連は、被害者が傍観者から理解されない、と高をくくっている様だが、私が、その時には言い出さなかったものの、今でも覚えている、という事は、その時にも異変に気付いていた、という事である。
気付いていなければ、その日の夕食に何を食べたか覚えていないのと同様に、忘れてしまっているはずだからだ。

間違えないと誰も助けてくれなく成る、というのを聞いて腹が立った、という事が子供の頃にあった。
まず、助け無しでは防ぎ切れない攻撃をするぞ、という事を、そういう風に歪めて表現している点に腹が立った。
それに加えて、助けない人が加害を依頼している、という点に腹が立った。
つまり、赤鬼が青鬼に加害を依頼しているのと同じである。
間違えないと青鬼が来ても助けないよ、と赤鬼が言う、のと同じだ、という事だ。
今でも、そういう行為は許されない、と私は考えている。
子供の頃よりも、むしろ今の方が、強くそう思う。
そもそも赤鬼が来なけりゃあ青鬼も来ないじゃないか。
タレントの大場久美子さんが、間違えないと誰も助けてくれなく成るそうだから昔は故意に音程を微妙に外して歌っていました、と言うのを最近聞いた事があるので、間違えないと誰も助けてくれなく成る、という言説の存在は確かです。
間違えない、という事に対して、報復が為される、なんて、とんでもない話です。

剣道の話で言うと、背景に、切り掛かって相手にしらばくれられたら自分が処罰される、という法則が成立しているのか、それとも、切り掛かったら相手はやられっぱなしなので相手の‘行くぞ’という脅し態度は自損なのか、の違いが非常に重要だ。
これは、2者間の問題ではなく、第3者がどう動くか、の問題であり、政治種の問題である。
違いが重要であるのは、切り掛かった場合の結果に違いが生じるからだけでなく、切り掛からなかった場合に限っても、やめといてやる、と、やめざるを得ない、の違いが生じ、その分負担が違うからだ。
怒りの持続時間も違う。
やめといてやる、なら溜飲は比較的すみやかに下がるが、やめざるをえない場合には、なかなか心が静まらないだろう。
怒りに基づく‘火事場の馬鹿力’的な心身の臨戦態勢は、ウルトラマンの3分間の様に、長く持続する事が出来ない(長く持続すると心身が壊れる)物である。
この意味で、嫌がらせは、遠回しに行使した傷害であり、その犯罪度は露骨な傷害と同程度である。

また、被害者が安心なのか危険な思いをするのか、の違いもある。
つまり、嫌がらせの犯人の態度は、崖っぷちで被害者をくすぐっておいて、くすぐっただけじゃないかと言う、様な態度だ。

現在私が置かれている状況下での嫌がらせの場合は、切り掛かった場合の処罰に当たる部分が
警察による逮捕精神病院への投獄だから、こちらで考えると、嫌がらせは、遠回しに行使した拉致・監禁であり、その犯罪度は露骨な拉致・監禁と同程度です。
精神病院については、拉致・監禁に加えて、被害者に適合していない薬を呑ませる、という盛毒傷害も加わる。
警察による逮捕の場合には、種々の刑罰を騙った権利侵害が加わる。
その分、この嫌がらせ犯罪の罪は救い様が無いぐらいに重い。

切り掛かれば監禁され切り掛からなければ傷害される様に押され続ける、というのが嫌がらせの正体だから、それが暴力である事は言い逃れ様の無い事実であり、嫌がらせに対して暴力に対する処罰が適用されるのは至極当然の事である。
そう言えば、高校生時代頃だったか、意見を求められてこの様な正論を述べたら、お前そんな事を言ってタダで済むと思うなよ、といった意味の脅し文句を返された事があった。
友人からではなく、大人からだったと思う。
私に意見を求めたのは友人だったと思う。

たぶん友人と小学校の下校中に、農作業か何かの老人との間に不和が生じ、言葉で突っぱねると、その老人は、手元にあった物で打音を出し始め、それが私には悔し紛れの八つ当たりに見えたので、あまりの格好悪さに私がそれを笑ったら、老人は口からはぶて調の無声破裂音を発して断念し尻餅をつく様に座り込んで果てた、という事があった。
笑った瞬間には気付かなかったが、老人の挙動の最後の部分を見て、何かあるんだ、と思った。
ここまでに書いた様な背景が有ったなら、老人の行動は許せない物だ。
そして、あったに違いない。
老人の打音発生は私を怒らせる事が目的だったので、私が‘笑う’という逆の反応を呈した段階で、老人は観念したものと思われる。

嫌がらせと呼ばれている加害によって被害者を傷害する事は、劣った生物個体が優れた生物個体を、その事を理由に劣化させる行為である。
この様な、正当な理由が無いのに、集団で個人に襲い掛かる犯罪に対する処罰は、厳正なものであるべきであり、それは犯人の人数が幾ら多くても変わる事の無い真実である。
むしろ、犯人の人数が多ければ多いほど、その犯行は凶悪であるので、その分それへの処罰も重いのが当然である。
ナチスの絶滅収容所での大量虐殺を始めとする、歴史上の色々な大量虐殺も、それ自体を取って善いか悪いか言えるものではなく、善いか悪いかは、何に対しての行為だったかによって変わる事である。

数年前に福山美術館で原爆関連の展示が有った際に、私は、その関係者に、世の中には原爆を落とされるぐらいで丁度良い人が多い、と最近感じる様に成った、という意見を述べた事がある。

ナチスを引き合いに出したので、ついでに言っておくと、犯人の類型を推測するに当たって、ユダヤかナチズムか、という2分法の眼鏡で見て、色々と思う事がある。
ヒトラーが生物主義的な正義感を持っていたらしい事から、同じく生物主義的な正義感を持っている私に対する攻撃の根もユダヤ人にある可能性が有る。
しかし、最近のアンネの日記への攻撃は、私の言論活動への攻撃と類似している(言葉に対して言葉で対抗せずに別件で調略に掛かって来る)ので、逆に、ナチズムが犯人かもしれない。
宇田経済学で私が言いたい事の中に、お金というものは人の生物的なパワーの差を相殺する働きを担っている、という洞察があり、これに基づくと、ナチズムよりもユダヤの方が怪しい。
私の周りをうろついて加害する人々の中には、日本の右翼の雰囲気を濃厚に持っている人が居て、これはナチズムだろう。

出来る事をされた、と言う時の、出来る、という事の証拠としては、過去に私が謂れの無い指図を拒否した際に「ほんならおみゃー、こうにこうにされたらどうするんにゃー(それなら、お前、この様にこの様にされたら、どうするのか)」と言って脅された、という事も挙げられる。
これは、相手が私に、往来妨害的な動作(尻をぶつけて来る様な感じではなかったかと思う)をジェスチャーで実演しながら発した言葉である。
つまり、「お前はこうされたら防げないだろう、だから、我々の言う通りにしろ」という主張であり、被害者が防げない、という事は、犯人が出来る、という事である。

私が、子供の頃に、空手をしたい、と言い出した時に、母から、空手をするのなら悪い奴らと戦わねばならないのよ、と言われ私が、悪い奴らはどうやって戦うのか、と訊き返すと、母は、上記の往来妨害的な動作の模式化された挙動を実演して私に見せ、それを見た私は、それが全然強そうにないので、なんじゃそりゃ、と思った、という事があった。
ほんなら・・・どうするんにゃー、の件とピッタリ符合する。

また母には、私が白色のズボンを履いて外出しようとした時に、そんな物を履いて出たら悪い奴らが寄って来るよ、と言って制止した、という事もあった。
「寄ってくる」という表現が嫌がらせの往来妨害的な動作と符合する、という点と、やめないと青鬼が来るよ、という形式に成っている点が、証拠として重要だ。

この他にも、私の母には、私の色々な選択を不当に差し控えさせるために、やめないと悪い奴らが寄って来るよ、と言った事が数え切れないぐらい多数回ある。
これは、私の母の常套句だった。
当時は、それを言葉の綾だとして言い逃れる事も出来ただろうけれど、実際に悪い奴らが寄って来た今と成っては、それは、悪い奴らが寄って来た、というのが事実である事と、母の言葉の意味は字義通りそういう意味だった、という事の両方に対する証拠である。

嫌がらせの幾つかは、‘なんだ大した事ない奴か’と思われ安心され興味を持たれない人が、その事を根に持ち、そう思った人を不当に脅かす事によってその人に自分を分不相応なまでに強く意識させようとする行為であり、その仕組みは、先述した様に、それがどうしたんか(反語)、という表現で揶揄されるのが適当な代物である。

つまり、嫌がらせは、それによって被害者の反抗を引き出し、その反抗に加害だとの難癖を付け、処罰を騙って被害者に加害する犯罪であるが、これは、馬鹿にされたから暴力をふるった、という犯罪の言い換えに過ぎないのだ。

犯人は、ひねくれた事に、安心された事に傷付き、自分を見た者がそういう風に安心できないように脅かすための嫌がらせをする。
自分に対して、安心するな、恐れなさい、
加害されたくなかったら、しないでくださいとお願いしなさい、という不当で僭越な要求を卑劣な手段を用いて通そうとする行為が、嫌がらせには、含まれる。
その上犯人は、被害者が自分を脅かした、被害者が加害者だ、とまで主張するのだから、もう助かるまい。