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2014年03月01日(土曜日)
赤銭と青銭(宇田経済学の話の続き)

構成員が2人(A, B)だけの貨幣経済を考える。
最初AもBも自分の今後不可避な消費量の50%相当の通貨を所有しているとする。

ある時Aは、有り金を全部はたいてBから受益したとする。
するとBは、その時点で、今後不可避な消費量の全部を購入できるだけのお金を持つに至る。

さて、そこでBが、今後は必需品の生産を自分では全く行わず全てAから購入する、という意志決定をした、とすると、その後どう成るだろうか。

AがBからした受益が必需品ではない場合には、Aは自分の今後不可避な消費量の全部を自分で生産しなくてはいけない事に納得している状態に成る。
AがBからした受益が必需品の供給を受ける事だったなら、そこまでは行かないが、仮にそこで供給された必需品の賞味期限が全て永久だったとしても、Aは自分の今後不可避な消費量の半分を自分で生産しなくてはいけない事に納得している状態に成るだけで、Bの分まで、つまり2人分の今後不可避な消費量の全部をAが一人で生産しなくてはいけない、という要求にはAは納得できないはずだ。

しかし、Bの意志が実現される、という事は、AとBの2人分の今後不可避な消費量の全部をAが一人で生産する、という事である。
そうならなければ、Bが「あれ?おかしいぞ」と気付く事によって、お金という悪魔がAとBに吐いているウソがバレてしまう。

お金という悪魔は、それを防ぐ為に、Bには何が何でも自分の持っているお金の全額を必需品以外の購入に充ててもらわねばならぬ、と考える。
たとえば、AがBに、歌を歌って聴かせる、という与益をし、Bはそれについてお金を払う、という事が考えられる。
それによってBが一文無しに成ると、Bは、自分の今後不可避な消費量の全部を自分で生産しなくてはいけない事に納得している状態に成る。
充電完了である。
あるロック歌手がコンサートで「はたらけ〜、はたらけ〜」と言うがどうしてだろうかと、その歌手のファンである友人が言うのを聞いた事があるが、背景にはそういう事情が有りそうだ、と私は思っている。

全体として見てみると、Aは歌唱という活動を、Bは必需品の生産を、通貨が全く無い場合に比べて、余計にしなくてはいけない。
その分量は、Aがする歌唱については、1人分の今後不可避な消費量の全部に相当する価値(Bへの説得力)を持っていなくてはいけなくて、Bによる必需品の追加生産の分量は、通貨が無い場合の半分である。

つまり、通貨の総量は、必需品の生産と消費、以外の活動の分量、と考える事が出来るだろう。
これが正義にかなっているか否かは、AとBが、必需品の生産と消費だけでは物足りない、という価値観で合意しているか否か、で決まるだろう。

ここまでが
2014年02月27日の記事の話だ。

今日は、必需益の売買にのみ使える通貨(赤銭)と必需益の売買には使えない通貨(青銭)を採用する事によって、通貨の導入による義務の増加を消失させる事、を考えてみる。

赤銭は、必需益の売買にのみ使える通貨であり、総量がゼロであり、負値も取り得る、とする。
青銭は、必需益の売買には使えない通貨であり、総量は正値であり、負値は取り得ない、とする。
青銭は、既存の通貨の再定式化、として位置付けられるべき物である。

こうしておくと、通貨の総量の分だけ義務感と必要が食い違う、という問題が解消される。
ただし、赤銭の、負値を取り得る、という性質は、
如何なる物質的手段によってそれを実現させるか、という解決困難な問題をはらんでいるので、当面は、赤銭は理論的な考察の道具に過ぎない、と考えて下さい。

赤銭は
斥力ドライブ経済を担い、青銭は引力ドライブ経済を担う、と言う事が出来るでしょう。

さて、赤銭と青銭を用いた引斥分離経済について、まず最初に考えておかねばならない事は、赤銭と青銭の両替の問題でしょう。
赤銭で青銭を購入したり、青銭で赤銭を購入する、という事が出来れば、それは実質上は、青銭で必需益の売買が出来る、という事と同じだ。
だとすると、分離してない場合と同じに成ってしまって、実質上の義務の増加の問題が再び持ち上がってしまうのではないか?
一見すると、そう懸念されるが、その様な取引においては、赤銭の総量も青銭の総量も独立に保存されるので、実質上の義務の増加は生じず、引斥分離経済は崩壊しない、という考え方で多分良さそうに思える。

宇田経済学@持論@学問