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2014年01月27日(月曜日)
斥力ドライブと引力ドライブ(宇田経済学の話の続き)

最近は、他の事が忙しくて、なかなか
宇田経済学について書く時間を取れず、そのため、このテーマについての興味が冷めていたが、先日、新聞の書籍広告欄で「高校生から分かるマクロ・ミクロ経済学」という本を知って、これを購入し読み始めた事をきっかけとして、父に私の宇田経済学のサワリを説明したりしているうちに、だんだん頭がまたこのテーマについて熱く成って来た。

私は、経済学について正式にキチンと勉強した事が一度も無いので、ここらで一度きちんと知っておこう、と思い、この本を買いました。

その結果、私の宇田経済学を作る動機である、善悪の判断基準を得る、という目標にかなり近い概念について今日は、自分でも理解をハッキリさせながら、説明する。
それは、斥力ドライブという概念と、引力ドライブ、という概念です。
これらは、上記の書籍の内容とは、直接は関係ありません。

宇田経済学はエデンの園の第2の林檎か、それともエデンの園を奪還するための解毒剤か、と言った所です。
図らずも、拙著「古典物理学」のまえがきの前に聖書から引用した善悪云々という悪魔の台詞を彷彿とさせる展開に成って来ましたが、私は、悪を推す為に書いては居ないつもりです。

自由主義経済では、取引は自由な私人どうしが任意の意思で行なうものだ、とされます。
そして、広範に渡る実際の取引を自由な私人同士の取引と見なして、それらは任意の意思どうしのマッチングで決められるのが正しい、とされるのが普通です。

しかし、自由な私人とは、納得された義務が無い(ゼロ以下の)人に他なりません。
従って、ほとんどの人は自由な私人ではなく、その分だけ自由市場方式の正当性は減ります。

この状態で自由市場方式を採用して経済を運転すると、各人に、納得された義務に由来する強制力、が働く。
これを斥力ドライブと呼ぶ事にします。
経済に蓄えられている価値の根幹は納得された義務の和である、という先述した(
2012年02月26日の記事に書かれている)私の見解は、この経済が斥力ドライブの経済である事を表している。

納得された義務が経済にとってのその人の価値の根幹である、という事情は、納得された義務が残っている人は頼まれたら応じてくれそうな人であり、納得された義務を果たし終えてしまった人は頼まれても応じてくれそうにない人だ、という傾向性をもっともらしいと感じる事によって、明瞭に理解できる。
自由という事をもっと厳しく捉えれば、自由な取引において頼むなんて事は有ってはいけない。
許されるのは誘う事までだ。
だから、上記の「頼まれたら応じてくれそうな」と「頼まれても応じてくれそうにない」は、「誘ったら乗って来そうな」と「誘われても乗って来そうにない」に書き換えられねばならない。
後者は、つれない、という事だ。

さて、しかし斥力ドライブの経済は、それに力強さや安定性がある一方で、自由な私人に対してしか要求できない事を、自由でない人に要求している点で、正義の観点から言うと、非難の余地がある。
断れば困る様に仕組んでおいて、頼めば応じてくれそうだ、と言い、応じてくれれば、お前が自ら進んで応じたんだろうが、と言うのは、奸計である。
それは、他人の足元を見る、どころか、他人の足元を崩しておいた上でその人の足元を見る態度である。

それでは、そういう非難を受けない正義にかなった自由主義経済とは、どういうものだろうか?
それは、引力ドライブの経済である。

引力ドライブの経済というのは、
2012年10月15日の記事に書かれている宇田経済学の基準モデルを自由市場方式で運転する経済です。

この経済だと、各人は自由な私人です。
取引においては意思決定は、脅迫作用にではなく、魅力に従います。
これは、おいでおいで、はしてもよいが、客の腕を掴んで自分の店に無理やり引っ張り込んではいけない、というルールの持つイメージです。
もっと正確な描像としては、冬に店内を温かくして室温を屋外に表示しておく、という方法が、魅力による誘い方を代表する例として分かり易いでしょう。
正体は斥力ドライブのシステムである実社会の経済システムも、魅力によって誘う事しか許されていない、という風に公称するのだから、それが正義である事は、異を唱える事すら躊躇されるほどまでに、確かである、という事だ。
実社会の経済システムは、屋外の温度を下げておいてそれを不可抗力だとしらばくれる事によって魅力によって誘う事しかしていない、としらばくれる事に例えられる、引力ドライブ経済の仮面を被った斥力ドライブ経済です。

斥力ドライブの経済は不足を原動力として稼働しますが、引力ドライブの経済の原動力は必要以上の目標です。
引力ドライブの経済システムでは、人々が
退屈に耐える方を選んで自由取引を行なわなくなる可能性が有りますが、引力ドライブの経済システムは、もともと、必要の無い事しか自由に取引してはいけない、とするシステムだから、自由取引は行われる必要が無い。

斥力ドライブの経済システムでは、取引は行われる必要がある。
この事を説明するには、口を交換した2人を考えると良い。
あなたが私の分を食べてくれれば私はあなたの分を食べます、という状況です。
必要な事を他人に預けている状態が前提だから、取引が行われなければ、死んでしまいます。

引力ドライブの経済を説明する準備として、人に蓄えられている価値についての過去の私の見解に修正を加える。
過去の私の見解では、
(人に蓄えられている価値)=(納得された義務の量)+(金銭以外の所有財の価値の和)
(納得された義務の量)≡(必要生涯消費量)−(現在保有している金銭の量)
である、としていた。
この式における必要生涯消費量を、ツモリ生涯消費量(生涯で消費するつもりの価値量)で置き換え、
(今後するつもりの生産量)≡(ツモリ生涯消費量)−(現在保有している金銭の量)
(人に蓄えられている価値)=(今後するつもりの生産量)+(金銭以外の所有財の価値の和)
という風に、ここで修正する。

宇田経済学の基準モデルでは、納得された義務の量が斥力ドライブの経済システムより小さいわけではないが、その義務を取引を通して果たす事が可避なので、各人の価値の経済の駆動力への寄与は、納得された義務の量がゼロである場合と同じに成ります。
だけど、ツモリ生涯消費量が必要生涯消費量を上回っている分だけ、この人は、誘われれば乗って来そうな人に成り、これが引力ドライブ経済の駆動力を高めます。

駆動力へのこの寄与は、夢の力とでも呼ぶべきものでしょう。
したい、というのと、するつもり、というのとでは違うので、欲望の力ではなく、夢の力としました。
夢の力で駆動される経済は、全く潔癖ですが、はたして夢の力がどの程度の大きさなのか、という所に、大きい方にも小さい方にも計り知れない、という期待と不安を感じます。

ここまでに述べた事から、実社会における取引に対する善悪の判断基準としては、必要な消費を賄う取引は売手も買手も自由ではなく、必要が満たされる事を保証する方式での取引でなければいけない、という事が言えると思う。
これは、宇田経済学の最終結論の一つとして、私が当初から念頭に置いていた物です。
この結論は20年以上前から私には確信を持って分かっていました。
(その頃から、根拠付けも、明文化はした事がありませんでしたが、感覚的には分かっていました)
この事が言いたくて宇田経済学を書き始めた、と言われるべき物の一つです。

宇田経済学を書き進める、という形で、根拠付けの明文化を進めて来て、色々と勘違いしていた事や、思い至ってなかった事に気付き、今でもまだ抜けや間違いがあるだろう、と思います。

ここまでに書いた様な枠組みを置いておくと、誰を犯人とするどういう犯罪が存在しているらしいか、を推測出来る。
引力ドライブ経済は、取引が衰退してしまう可能性を秘めているけれど、それは可能性に過ぎず、実際には引力ドライブ経済も成長する、というのが本当の所だろう、と私は予想します。
引力ドライブ経済の問題点は、取引が衰退する事ではなく、もてない人が相手にされなくなり退屈の解決を独力だけに頼らざるを得なくなる、といった事ではないか、という風に思う。

これが、実際の経済を斥力ドライブ経済にするという根源悪、の動機である、という風に私は当たりを付けている。

「もてる」という言葉については、男女間の恋愛感情について用いられている「もてる」を流用させてもらった。
奸計についてもそうだが、経済の問題点を的確に言おうとする時に男女関係用語が便利だ、と感じる事は多い。

実際の実質上の義務が多過ぎる、こっちが尻尾を掴めっこないのを良い事に吹っ掛けられているに違いない、という義憤が、出発点でした。
私の勘では、必要生涯消費量はせいぜい最大生涯生産量の2割程度のはずだ。
(この、必要生涯消費量と最大生涯生産量の比を、エンゲル係数に匹敵する新指標として、提案したい)
私が正義として肯定する自由は、そういう、たるんだ自由である。
自由にすると弱肉強食に成る、と言われる様な自由ではない。
これは、
2013年12月01日の記事の「必死で働く必要なんてハッタリは非常に悪質だ」という私の意見とも良く調和する。

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2012年02月25日の記事への補足。
日本物理学会2007年春季大会@学会発表@活動報告@学問に、物理学の保存則についての発表の報告記事が有ります。