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2013年01月25日(金曜日)
正の経済学と負の経済学の関係の基礎(宇田経済学の話の続き)
宇田経済学についての前回の記事は、2013年01月23日の記事です。

正の経済学では、2者間の益の授受、という現象が基本的な要素だった。
そこでは、与益者が与益の為にどれだけ苦労したか、という事は全く問題にされない。

これに対して、負の経済学は、同じ現象について、与益者が与益の為にどれだけ苦労したかのみを問題にし、どれだけ与益したかは全く問題にしない。
負の経済学では、与益者が与益の為にした苦労を、与益者が受益者から受けた害、受益者が与益者に与えた害、と考える。

こう言うと、負の経済学は何て捻くれたものの見方なんだ、と思われるかもしれないが、それは早合点だ。
違反と報復の様な現象を見るには、負の経済学の方が自然であり、正の経済学の方が捻くれている。
違反と報復の対は、負の経済学の観点から言えば、害の
貸借である。
これに対して、正の経済学の観点から言えば、報復においては、報復者が先行違反者から、ザマアミロと感じさせてもらう、という益を受け、先行違反者は報復者にその益を与える、という抑制されるべき捻くれたものの見方に成る。

以上の認識に基づき、私は、正の経済学と負の経済学の関係を、動脈と静脈の関係に例えたい。
2012年08月19日の記事に私が「汎地球的に静脈血の様に循環している不浄な犯罪文化」と書いたのは、直感的にそう書いただけであって、本件の内容をハッキリ意識しての事ではなかったが、本件を書きながら、あの時の直感は正しかったんだ、と感じている。

私は、社会常識の前提である、正の経済現象を促進し負の経済現象を抑制すべきだ、という考えには素直に賛成だが、負の経済学の道理の存在を知らばくれる態度には強く反対する。

負の経済学も条理である。
悪意による害の
湧き出しのみが不条理である。

何の罪も無い人が犯罪の被害に遭う事を何でもかんでも安直に「不条理」という言葉で表現する人、が居るが、そういう態度は、負の経済学の道理の存在を知らばくれる態度だ。
犯罪でもない事故による被害まで不条理と言われた時には、あまりに面食らってしまって、どこから説明したらよいのか分らなく成った。

労働を基本とする経済学の欠点の本質は、おそらく、それが負の経済学である事だろう。

正の経済現象の促進と負の経済現象の抑制の観点から言えば、世の中は正の経済学だけで回すべきものであり、与益者が与益の為にどれだけ苦労したか、という事は出来るだけ問題にすべきではない事なのだ。

しかし、負の経済学を全く使わずに済むのは、不条理の発生を未然に完全に防ぎ続け果せた場合に限ってであり、一度でも何処かで不条理が発生すれば、その態度は貫けなく成る。
そして、既に過去に不条理の発生は起こっている。
従って、現代社会の倫理から負の経済学を正当裡に完全に排除する事は不可能である。

苦労不問の原則は、楽不問をも含意する。
したがって、「楽して金儲け」という言葉で指し示される行為を「楽して」だからいけないと考える、のは社会規範への不理解だ。
「与益せずして金儲け」は宜しくないが、与益するために苦労する義務は無いのだ。

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2013年01月13日の記事への補足。
だれも自由主義の原則に違反しなければ、本音ではその種目をどの程度やりたいと思うか、の平均値等の統計値と、本音ではその種目でどの程度勝ちたいと思うか、の平均値等の統計値によって、プレーヤーにとってのその種目の競争の激しさが決まるだろう。
実際の競争の激しさがそう成っていなければ、どこかに自由主義の原則への違反があるはずだ、と見当付けるべきである。
自由主義の原則に従え、というのは、我流にしろ、という意味ではありません。
極論を言えば、我流か伝統の継承かの選択も自由競争(試合と人材獲得競争)で決めろ、という事です。
2013年01月20日の記事にも、2013年01月13日の記事への補足コメントが書かれています。