since 2003
イレコナビ サイトマップ
< 日記 >
< 2013年01月 >
< 13日 >
2013年01月13日(日曜日)
バスケ部体罰自殺事件の論点
2012年12月、大阪市立桜宮高校でバスケットボール部主将の男子生徒が顧問の男性教諭から体罰を受けた後に、自宅の自室で自殺した問題について、以下に私の考えを書きます。

高校は義務教育ではないので、その分教育内容には任意性がある。
生徒は入学先として別の高校を選択する余地もあったはず。
桜宮高校に入学しても、そこのバスケ部に入部しない自由があったはず。
別種目の部に入部する選択肢もあったはず。
生徒がそれまでバスケ一筋だったら、バスケを続けたいだろうけれど、高校のバスケ部に入部しなくても、学外のバスケチームに入団する選択肢もある。
入学試験に合格する能力の観点から桜宮高校にしか入学は無理だったとか、自分の入学できる他の高校に入学しても同じようなものだったとか、学外のバスケチームなんて無い、といった事情が成り立っていたとしても、何があってもバスケを続ける権利、というものが、あるわけではない。
そもそも、中学までバスケ一筋だった生徒が、バスケ部の無い高校の入学試験にしか合格せず、学外にもバスケチームなんてない場合、そこでバスケを辞めざるを得ない。
これは誰のせいでもない。
そういう場合でも、自分で団員を募ってチームを結成する自由はあるけれど、誰も応募しないかもしれない。
1人で個人技を練習する事は、本人の意思のみによって継続できる。
生徒が事前に十分な情報を得た上で、それを承知の上で桜宮高校に入学し、そこのバスケ部に入部した場合には、こういった論理が成り立つでしょう。

問題の「生徒が事前に十分な情報を得た上でそれを承知の上で」ではなかった事による部分、というものは顧慮に値する。
また、法定限度を超えた金利での貸借契約が無効である、という理屈にも見られるように、相手の同意を得た事なら何でもしてよい、というわけではない。
特に、相手が子供の場合には、この考え方が、大人に対してよりも大きく効くだろう。
事前に十分な情報を与えれば欠陥自動車を売ってもよい、というのが正しくないのと同様に、公的な品質基準に適合している印としての高等学校という接尾辞を伴う名称の学校は、事前に十分な情報を与えても、高等学校だから当然こう成っているだろう、と生徒や保護者が信じる範囲を超えて劣悪であっては、いけない。

原則としては、どういう教育を受けるかは、生徒が選択する。
キャプテンに留任する事、は生徒が選択している。
キャプテンに留任なら殴る事、は先生が設定している。
キャプテンやめれば2軍、は先生が設定している。
先生は生徒を雇用しているのでも、徴兵しているのでもない。
どちらかというと、生徒が先生を雇用している。(この事は生徒に意識させるべきではないが)

厳しさに応じて、先生が松竹梅を設定し、それぞれについて見込める競争結果を生徒に事前に提示し、生徒に選ばせる、というのが筋だろう。
どれかを選ぶ事を、競争結果以外のムチを用いて強要する事は不当。
「キャプテンなら殴る」と「キャプテンやめれば2軍」をセットにすることが、この原則に適合しているか反するか考える必要がある。
しかし、そういう形式的な事ではなくて、実質上は先生が生徒に、殴られながらキャプテンを続ける事、を強要していたのではないか、という観点が重要だろう。
2軍という条件は、キャプテンを続けさせるための
嫌がらせ、だったのではないか、という観点だ。

試合で負けてもよいから楽をする、という道を選ぶか、苦しくてもよいから試合で勝ちたい、という道を選ぶかは、生徒の自由だ。
先生は判断材料を与える事が出来るのみだ。
たとえ、すべての生徒が、試合で負けてもよいから楽をする、という道を選んだとしても、先生は指をくわえて見ているしかない。
先生が、苦しくてもよいから試合で勝ちたい、という道を選ぶ事を生徒に強要するのは、間違いだ。
ただし、先生には、うちでやってるのは辛くて苦しい練習の方だけなので、楽をしたい人は他を当たって下さい、という態度を取る自由はある。
厳しい事を言うと、先生は、生徒に判断材料を与える際に、バスケットボールの魅力や勝つ事の喜び、負ける事の悔しさを、生徒がありのままに知るようにしなければいけなくて、誇張して表現してはいけない。
誇張して表現すると、詐欺やマインドコントロールに成る。
いくら詳しく丁寧に説明してもよいが、歪曲してはいけない。
そうした上で、生徒が、試合で負けてもよいから楽をする、という道を選んだなら、はい先生あなたの負け、バスケットボールという種目の負けです。

生徒の同意なしに強要された教育は、後で生徒が、そうされて良かった、と思う場合にのみ、正当化される。
義務教育は別だが。
歯磨きの強要を例に採ると、その事が分かり易い。
私は、幼少の頃に歯磨きをあまり強く強要されなかった。
そのため、食後に歯を磨く習慣が不徹底で、20才を過ぎた頃には、歯の健康に不安を感じる様に成った。
幼少の頃に親がもっと厳しく私に歯を磨く事を強要してくれれば良かったのに、と大人に成ってからの私は思った。
バスケ部体罰自殺事件の場合には、生徒が死んでしまっているので、この方向からの体罰の正当化は出来ない。

不正に獲得された競争力という観点。
会社の市場競争力を高める事よりも、労働条件の許容下限を下回らない事の方が、優先順位が高い。
労働条件の許容下限を下回る事は、倒産しないためにした、という理由によってでは、正当化されない。
それと同様に、部活での被指導の過酷さが許容上限を超える事は、強くするために必要、という理由によってでは、正当化されない。
高等学校の運動部のチームの試合での敗北は、会社の倒産の回避よりも優先度が低いので、その分、会社の労働条件を悪化させる行為よりも、部活での指導の行き過ぎは、不正の程度が大きい。
試合中の反則だけでなく、競争力獲得の手段に不正の概念を持ち込んだ先例としては、ドーピングが挙げられる。
北朝鮮の様に、負けたら強制収容所送りにするぞ、と言って脅す事によって競争力を高めるのも、不正な手段によって競争力を高める行為、だと私は思う。
この線で、体罰によって高められた競争力は、不正な手段によって高められた競争力だ、と言えないか。

先生が自分の名誉を生徒の実利よりも優先させていないか。
2012年07月26日の記事2012年07月29日の記事参照。

自由主義の観点。
いわゆるアメとムチのうちで、アメのみ許されムチは禁止。
アメは、ある程度までなら許容されるが、アメを使う事は模範的ではない。
ムチを使うと、脅迫や強要に成る。
許されるムチは競争結果だけ。
犯罪に対するムチは、この限りではない。
会社で言うと、業績が悪化して給料が下がる、とか、倒産して失業する、という競争結果がムチ。
バスケ部の場合には、試合で負ける事がムチ。

本来は、競争結果のみをアメとしムチとする、という態度が理想だ、と私は思っている。
なぜなら、目標に向かって努力する、という心の良い癖を育てるのが正道だと思うからだ。
アメに向かって頑張ったり、ムチから逃れるために頑張る、というのでは、自主性が育たない。

個人種目ではなく団体種目である事から来る事情は、原則に補正を要求するか?
団体種目では、負けてもいいから怠ける、という選択をする自由が、個人種目におけるよりも小さい。
しかし、だから入団しない、という選択をする事は、全く自由である。
また、負けてもいいから怠けたい、という人だけで集まってチームを作った場合には、負けてもいいから怠ける、という選択が可能である。

体罰の直接的効果(身体の損傷)によって生徒が死んだのではない点を、どう評価すべきか。
座学の授業では、バケツを持たせて廊下に立たせる事は体罰だとされる。
この基準で測るならば、罰としてグランドを10周走れ、というのも、体罰だ。
しかし、部活で、それを体罰だからやめろ、と言うのは、ナンセンスな気がする。
そして、そういう体罰でも生徒は自殺に追い込まれ得る、と思う。
本件の事件では、生徒は体罰の直接的効果で死んだのではないから、グランド10周と同種なはずだが、これを体罰だからいけない、と言えるだろうか。

40発という数字。
1発の強度や接触様態にもよる。
発数だけではわからない。
生徒が口を切った、というのは参考に成る。

バスケットボールだけ上手く成ればいいのか、という観点。
本件の問題についての識者のコメントには、体罰にはスポーツを上達させる効果が無い、というものが多いが、じゃあ効果があったら体罰もOKなのか、という点を考えるべきだ。
また、部活は、スポーツの上達のためだけにあるのではない。
体罰が、バスケットボールの上達には効果が無くても、部活を通しての人格形成に効くかもしれない。

スポーツ科学の研究成果というものは絶対ではない。
主流の見解に異を唱えるトレーナーが、実践を通して自説を立証しようとする事は、正しい行ないだ。
だから、体罰がいけないのは、主には、効果が無いからではない、だろう。
効果が無い、というのは、もし正しいとしても「その上効果が無い」みたいな事ではないか。

色々書いたが、そんなレベルの高い話ではなく、単純に乱暴な悪い先生だった、というだけの事なのかもしれない。
逆に、生徒と先生の心温まる話を、周りの人が被害・加害の関係に矮小化して誤解しているのかもしれない。
何分にも、現場を見ていないので、分からない面がある。