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2013年01月09日(水曜日)
意味の広すぎる語を用いた詭弁
私には、前々から腹に据え兼ねている事、がある。

強い者が勝つ世の中は悪い、と言うと、もっともらしく聞こえる。
しかし、「強い」とか「勝つ」という語の意味は広い。
強い者が勝つ、と言われると、正しくて弱い者が間違っていて強い者に負ける事を思い浮かべ、それはいけない事だ、という風に思ってしまう。
そうしておいた上で、具体的な事象を強い者が勝つ状態に認定し、三段論法でもって、Xでは強い者が勝つ、強い者が勝つのはいけない事だ、よってXはいけない事だ、という風に持って行かれそうに成る。

しかし最近では、大相撲の八百長が問題に成ったが、誰も、八百長を良い事だ、とは思わないはずだ。
許容範囲内だと考える人は居ても、八百長しないのはいけない事だ、と言う人は居なかろう。
八百長しない、というのは、強い者が勝つ、って事じゃん。
ものの言い様で180度逆の事を正しそうに見せる、というのは詭弁に他ならない。

不当な主張や行ないは、間に何を挿入しても、やはり不当な主張や行ないのままなのだ。

要は、勝った者と負けた者に、どの様な権利・義務を設定するかの問題であって、勝ち負けそのものを制御しちゃあ、いけないんだよ。
勝ち負け、というのは、神聖な事実であって、それを認められる事は勝った者の権利であり、それを認める事は負けた者の義務だ。
いくら権利・義務の設定には任意性がある、と言っても、この部分は固定だろう。
勝負をしない自由というものは、あろうけど。

私は、弱い者が強い者に勝っちゃあいけない、と言ってるわけでもない。
勝ち負け、というのは、強弱の測定結果だから、それに先立つ強弱を前提にして、弱い者が強い者に勝っちゃあいけない、という規則を置けば、それは強弱の測定ではなくなり、その結果は、もはや「勝ち」「負け」ではない。
強い者が勝つんじゃなくて勝った者が強いんだ、という言葉を時々テレビで聞き、この意見は当然正しい、と私は思っている。
私には子供の頃に、多少表現は違ったかもしれないが、これと同じ事を言った記憶がある。
ただし、強弱は一発勝負で決まるものではなく、もっと統計的な概念だ、と今では思う。
その点、子供の頃の私は「一発勝負の結果が強弱だ」的な考え方をしていて未熟だった、と思う。
大人から「でもね雄一君、強くても負けちゃう事があるんだよ」と言われた。
そのつぉーり。

強弱という言葉の代わりに優劣という言葉を使って、優れた者が勝つ世の中、と言うと途端に、あまり悪くない感じに成る。
正しい者が勝つ世の中、と言うと、もう全く悪くない感じだ。
正しい者というのは、正しさの勝負で勝つための能力が優れている強者であり、この意味では、強い者が勝って一向に構わないどころか、強い者に勝ってもらわないと困る。
だいたい、強い者が勝つ世の中は悪い、なんて論理を振り回してる時点で、そいつは、俺は自分の正しさで相手を打ち負かすぞ、といって、強さで勝負してんじゃねーか。

「強い」という言葉を使う時には、どの種目での強さなのか、種目を指定する必要がある。
そして、どの種目で勝った場合に、どういう権利を獲得できるべきか、という事が議論できるだろう。
その結果と現実とのズレをもって、強者弱者間公平性の観点からの世の中の良し悪し、を判定する事は可能だと思う。

「強い」と「勝つ」以外にも、意味が広くて、その事が詭弁を立てるのに利用される語として、以下の語が思い浮かぶ。

「馬鹿にする」
「偉い」
「自由」
「いけない」