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2012年10月29日(月曜日)
手段の如何にかかわらず悪い事は悪い
ある宗教団体の小冊子「目ざめよ!2012年8月号」の表紙に、道にうつ伏せに倒れた女性と、その女性のカバンを奪って逃走(逃歩かもしれない)する犯人が描かれていた。
暴力が如何にいけないか、という事を表現したかったらしい。
しかし、その状況は暴力だからいけないのか?
私は、違うと思う。
暴力だからいけないのではなく、泥棒だからいけないのだ。
そこに、暴力によらず詐欺によってカバンを奪い取られる人と奪い取った人が描かれていたとしても、同じ様にいけない感じがするだろう。
逆に、そこに誰かが強盗を暴力で撃退している様子が描かれていたら、それは憂慮すべき状況には見えないはずだ。
だから、この小冊子の表紙の表現は狡い、と感じた。

以前は、この小冊子は、ものみの塔聖書と小冊子協会(通称エホバの証人)の伝道師が配って歩いていたと思うが、今日調べてみると、そういう記述を見付ける事は出来なくて、www.jw.orgというアドレスのみが目に留まった。

強盗を撃退する際に使われる力は武力であって暴力ではない、とか言われるといけないので、以下では、暴力という言葉は使わずに、殴る蹴るなどの攻撃、と言う事にする。

私が言いたいのは、悪い目的を達成するための行動は、その手段として何を用いても悪い、という事だ。
殴る蹴るなどの攻撃はいけないけど詐欺なら良いとか、お金の力なら良いとか、愛の力なら良いとか、そういう事は無い、という事だ。

数か月ぐらい前だっただろうか、母が「お前は分かっているのか?このまま行くと、お前は殺されるのだぞ」という意味の事を、私に向かって言った。
それに対して私が「私が何も悪い事さえしなければ、私に対して正当裡に殴る蹴るなどの攻撃は出来ない」という意味の事を言うと、母は「そんな事はない、そのやり方を知る者が居るのだ」という意味の反論をした。
しかし、違反無き者に正当裡に殴る蹴るなどの攻撃をする方法は無い。
正当行為のみをどう繋いでも、不当行為と同じ効果を生じさせる事は、出来ない。
結果が不当行為なら、途中のどこかに正当性の破れが必ず存在するのだ。
それは、動力無しの機械をどう繋いでも永久機関には成らない、のと同様である。
ついでの話、ここで引用した母の発言は、私が何者かに付け狙われている事の良い証拠だが、それについてはまた機を改めて書こう、と思う。
同じ様な証拠としては、この他に、父が「お前は自分の周りがどう成ってるか分かってるのか」という意味の事を言った直ぐ後で「しまった、うっかり口を滑らせた」という意味の悔恨の言葉を口にした、という事もあった。

逆の、善い目的を達成するためにはどんな手段を用いても良い、という事については、そう言えるかというと、そうは言えないけど、目的が何であるかを抜きにして手段のみの善悪を言うのが間違いである事だけは確かだ。

自分がルールを踏み倒すための手段として殴る蹴るなどの攻撃を用いる事と、他者にルールを守らせるための手段として殴る蹴るなどの攻撃を用いる事の間には、与えられる評価に天地の開きがあって当然だ。
2012年08月03日の記事の終盤の件と同様に、これも子供の頃の私が言った事の様な気がする。

殴る蹴るなどの攻撃を否定する言説には、その事をシラバックレて、両者を十把一絡げに、暴力、暴力、といって非難する詭弁的な態度が目立ち、非常に腹が立つ。

まず自分からルール違反を犯して、それを相手に暴力で止めさせ、その揚げ足を取って、お前だって暴力を振るうんだから俺だって、と言って、自分は暴力でルールを踏み倒す、という詭弁的な態度だ。