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2012年10月28日(日曜日)
何があっても絶対にしてはいけない事、なんて無い
何事にも限度というものがある。

どんな事があっても暴力を振るってはいけない、というのも、どんな事があっても人を殺してはいけない、というのも、ものの道理としては間違いである。

そんな事は、誰でも内心は分かっているはずだ。
分かっているけど公言できない、王様の耳はロバの耳、ってわけだ。

アクションスターが活躍するハリウッド映画では、危機に直面したヒーローが様々なルール違反を犯すが、それを悪事だとは誰も思わないはずだ。
あの状況ではあの行動が最も正しい、という風に成っている。
宇宙人が襲撃して来る等の、そういう状況は、我々の人生には実際には生じないだろうけれど、そういう状況が生じれば別だという事、何があってもではない事が、そこには表現されている様に私は感じる。

どんな事があっても暴力を振るってはいけない、というのも、どんな事があっても人を殺してはいけない、というのも、このルールを悪用しない限りにおいては、かなり良いルールだ。
このルールの悪用が無い状況では、何があっても単純我慢によってこのルールを忠実に守ろうとする事、は建設的な態度だと言える。

しかし、このルールを悪用して、誰かにルール違反の汚点をコジ付けるために、相手が暴力を振るわざるを得ないような事を仕掛け、それでも相手が暴力を振るわなければ仕掛けの強度を上げる、という事を、相手が暴力を振るうまで続ける、という行為に対しては、このルールは正当性を失い、そういう状況下では、単純我慢によってこのルールを忠実に守ろうとする事は、悪への無抵抗、悪への従順であり、間違った態度だ。
そういう場合には、仕掛けの強度がまだ小さい段階でルールをかなぐり捨てても違反ではない。
ただ、その事が十分に理解されていない環境では、普通に暴力で抵抗すると相手の思う壺なので、しっぺ返しの方法を考える必要がある。

そして、そういう事(ルールの悪用)をする者が実際に居る。
しつこい嫌がらせ(
2012年08月28日の記事参照)というのは、そういうものの事である。
そういう事をされた場合、暴力を振るわない義務は無い。
つまり、そういう事をされた場合には、暴力を振るっても違反ではない。
その場合には、それに加えて、暴力を振るった者が被害者で、暴力を振るわせた者が加害者だ。
例えるなら、手に強制的に包丁を握らされて、その手を上からつかまれて、誰かを刺さされたら、包丁を握らされた者は、罪が無いだけでなく、何か損をさせられている。
そういう意味で、包丁を握らされた者は、被害を受けている。

テレビ・ドラマで、登場人物が、親しい人の事を指して向きに成って、あの人は人を殺す様な人ではありません、と力説するシーンを見る事が多いが、私は、これを見る度に、心に引っ掛かるものを感じる。
その登場人物は、あの人は正しい人だから人を殺さない、という風に考えているらしいが、正しければ正しいほど人を殺してしまう状況というものだってある、という事に思い至らない人間が居るとは私には到底思えないからだ。
つまり、何か、とても白々しい印象を、受けるのだ。

ただし、テレビ・ドラマを、私の正義観に合う様に直すと、ろくなものには成らないだろうから、それはやめた方が良いと思う。
フィクションのドラマには、登場人物たちが厳密に正しいものの考え方に落ち着く事とは別の、台詞の耳触りの良さや俳優・女優の容姿との調和等の恰好を追及する自由があると思う。
厳密に正しいものの考え方を貫く事によって、それらが損なわれる事は、誰も望まないだろう。

このページの内容も、私の見解であって、法解釈ではありません。

現行の法律は、基本的には、禁止事項は何があっても禁止、という形に書かれており、この点が現行の法律の弱点だ、と私は思う。
現行の法律にも、正当防衛や、正当事由に基づく立ち退きや解雇の様に、その弱点を改善した部分もあるが、それらは場当たり的なものであり包括的なものではない。

この様な現行の法律をニュートン力学に例え、その弱点を改善したものとして相対性理論の様な法律、というものを未来に向かって考えるべきだ、と私は以前から思っている。