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2012年08月31日(金曜日)
指定広域嫌がらせ団、堅気組
巷では、暴力団追放の機運が高まっている。
しかし社会には、暴力団以外にも、同じぐらい悪い奴らは居る。
昨日までの記事に書いた嫌がらせ行為をする人々も、そういう悪い奴らだ。
これを、嫌がらせ団「堅気組」と呼ぼう。
嫌がらせ団「堅気組」のキャッチフレーズは「暴力はいけません、暴力は」である。
暴力はいけません、暴力はいけません、と言いながら、暴力以外の抵抗の手段を全部取り上げ、暴力未満の力で執拗にどんどん押して来る、相手がたまりかねて、ちょっとやめてくれんか、と言って少しでも押し返すと、それを暴力だと言って、刑罰や治療や保護の名目で、もっとひどい暴力を振るう、最初から暴力を振るう事が目的の凶悪な犯罪組織である。
暴力団追放運動は、暴力団対嫌がらせ団の抗争と見なされる。

私には、子供の頃、近所の大人から、雇われてもいないのに、ああしろこうしろ、と言われて、断ったら、それならお前はやくざだ、と言われた経験がある。
詳しく書くと、断った上で何故指図されなければいけないのか反語的に尋ねると、従属していない独立した人間は必ず悪い事をするからだ、という意味の答えが返って来て、それなら、悪い事をしなければ従属しなくても良いのか、と訊き返すと、良いけれど、それは非常に難しい事だよ、という意味の事を言われ、それを聞いた上で、僕は人に頼らず自分で生きて行く、という意味の事を言うと、それならお前はやくざだ、という風に言われた。
それを聞いた私が、やくざという言葉に、まんざらでもないものを感じて、やくざで結構、と言うと、やくざさん、お気を付けて、と言われた。
大体こんな会話だったと思う。
小学生の頃の事だった。
暴力団員が脅迫で、夜道で襲うぞ、とは言わずに、せいぜい夜道を歩く時には気を付けるんだな、と言うのと同レベルである。

そこから私が嗅ぎ取ったのは、落とし穴がたくさん掘ってあって、仲間に成ればその位置を教えてもらえるが、仲間に成らなければ自分で注意するしかない、というニュアンスだった。
また、子供ながらに、私が首尾よく最後まで自分の人生を我が物にし続ける事に、こいつらの精神は耐える事が出来なかろう、とも思った。
精神が絶えれない事はすなわち精神病であるから、精神病というのは、本来は、こういう人々が成るものである。
逆さまを言っちゃあ、いけねえ。

子供の時には、そんなに悪意に解釈はしなかったが、そういう人間は悪い事をする、というのは、そういう人間は陥れて犯罪者に仕立て上げてやる、という事であり、そうは言えないから、自分ですると言っている、のだと分かった。
これは、いつまで経ってもこっちが何もしなければ、向こうから当たりに来るのを、たくさん見たからだ。
そして、誰かを犯罪者や病人に仕立て上げるためにその人に当たりに行く行為は犯罪であるから、従属している人々は、陥れられなくても、既に自分で犯罪者に成ってるじゃないか。
病気に成る、も同じだ。
学生時代末期に、下宿の隣の家のおばさんに、卒業後はアルバイトをしながら勉強を続けるつもりだ、と言ったら、そんなことをしてたら病気に成りますよ、と言われ、まさか幾ら何でもこの私が病気に成るわけないでしょう、と不審に思ったのを覚えているが、こんな何でもない普通の主婦まで堅気組の組員だったという事だ。
これは、暴力団系の人が、罪を免れるためにあれこれと歪曲表現をするのと、本質的には同じだ。
恐喝で、金を出せ、とは言わず、誠意を見せろ、と言う等。
そんな事をしても無駄な様だけれど。

仲間に成れば落とし穴の位置を教えてもらえる、という事以外に、世の中のルールというものは、普通は守れないぐらいに厳しいものであるが、我々の手下に成れば、お前が何か違反をしても目をつぶってやる、みたいなニュアンスも感じた。

悪意に解釈すると、従属する事を強要する手段として故意に、守れないルールを置いているのではないか、という考え方が出来る。
表向きは、独立して自分でルールを守るか、従属してルールの守り方を教わるか、どちらにするかはあなたの自由だ、と言いながら、実質上は、従属する事を強要する、という態度であり、強要の手段として嫌がらせを用いる場合の手口と、相似形に成っている。

自宅の玄関の引き戸と井原鉄道湯野駅の引き戸が、不用意に開け閉めすると指を切断してしまう危険のある状態に成っていた事がある。
これは、私の指を切断して、見る人に私をやくざと勘違いさせよう、という堅気組の意図によるものだったかもしれない。

子供の頃、やくざだと言われた件よりずっと前に、私が、堅気の人々(自分もこの一部だと思っていた。そしてルールを守って一人で勝つ事こそが堅気の模範だと思っていた)は罪の無い善良な人々なんでしょ、と言うと、どこがやねん、みたいなリアクションを受けて、おや、と思った経験がある。