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2012年08月28日(火曜日)
嫌がらせ原論
嫌がらせには、色々あるのかもしれない。
単に、イタズラをして、された人が嫌がるのを見て、ウップンを晴らす、という嫌がらせ、もあろう。
しかし、ここでは私は、特定の選択を強要したり阻止したりする手段としての嫌がらせ、というものを論じる。

自由な選択を妨害する嫌がらせ、というのは、表面的には選択の自由に反対せずして、実効的には標的に自由な選択を断念させる行為であり、実質上の強要である。

例えば、選択の自由が認められている事項について、自由な選択をしようとしている人Aと、それを妨害しようとする人Bについては、次の様な事である。

AがBに、分かれ道では私は右に行こうと思う、と打ち明ける。
すると、BはAに、私としてはあなたには左に行って欲しいけれど、右に行くか左に行くかは、あなたの自由だ、と助言する。
それなら、という事で、Aが右に行こうという意志を持ち続けると、Aの日常生活で色々とAにとって嫌な事が起こる。
それでAは、その鬱陶しさから逃れたいあまり、意識してとも意識せずとも分からない様な判断として、右に行く予定を左に行く予定に変更する。
すると、Aの身の回りでAにとって嫌な事が起こらなく成り、Aは鬱陶しさから解放される。
その後AがBに、左に行く予定に変更した事、を報告すると、Bは、それを聞いて、それは良かった、という風に感想を述べる。
BまたはBの背後に潜む集団によるAに対する嫌がらせとは、大体こんな感じの事です。

この他の例としては、好きですか?嫌いですか?という質問に対して、特定の答えを強要する手段として嫌がらせが用いられる場合を考える事も出来ます。

この様な嫌がらせが用いられるのは、強要罪の成立を免れるためだ、と考えられます。
・・・しなければ・・・するぞ、と言うと、強要罪が成立します。
そこで、別に良いんだよ、と言っておいて、裏で手を回して、良くないんだ、という事を暗に悟らせる、という方法です。

また、この様な嫌がらせは、正直に言うと自分自身が選択の自由は正しいと感じているために、選択の自由の正当性を正面から論破するなんて無理な事は最初から目指さない、という態度でもあります。

嫌がらせは、された人が言葉で説明するのが難しい様に注意深く選ばれ、何度も繰り返し使用され、その実効性や表現困難性が検証され、伝統的に蓄積され、体系化されている、と考えられます。
また、これは、異常者の犯罪ではなく、常者の組織犯罪です。

また、言葉で言い表せても、聞いた人にその内容が伝わり難い、伝わっても信じてもらい難い、信じてもらえても軽微だとして軽んじられ易い、そういう事が上手に組み合わされて用いられます。
偶然だよ、という言い逃れ方も多用される。
精神病院が登場するのは、ここにおいてだが、精神病院を、その様に位置付ければ、精神病院の悪用なんて有るに決まってる、という事が、良く分かる。

しかし私の意見は、嫌がらせの個々の要素に目を向けるのではなく一連の嫌がらせ行為全体に目を向けて、嫌がらせは軽微ではなく重大な悪だ、というものです。
その根拠は、強要の手段としての実効性がある事です。
私はどうしてもこっちへ行きたいんだ、という個人の志向性に基づく選択を曲げるには、大きな力が必要です。
嫌がらせに実効性がある、という事は、それが大きな力に成る、という事を意味します。
したがって、嫌がらせ行為は重大悪です。

また嫌がらせ行為には、目的が達成されなければ、もっと強力な嫌がらせ行為を実行する、という性質があります。
そうやって、目的が達成されるまで際限なく強度を上げるので、された人が仮に完全な信仰者であっても、ヨブ記に成ってしまいます。
誰にも、ヨブほどに我慢する義務は無いはずなので、強度が低い段階で告発する事は、際限なく続く嫌がらせ行為が自分に向かって開始された事を告発する行為として正当であり、これを軽微だとして退ける事は、間違っています。

嫌がらせ行為の、目的が達成されるまで際限なく強度を上げる性質を、一言で言うと、嫌がらせ行為は「・・・しなければ殺すぞ」という脅迫と実質的には同じである、と言える。

この様な嫌がらせは、一般論としては存在する事を疑う者は居ないが、いざ自分がされたと主張する段に成ると、とたんに、有るはずない、お前の妄想だ、という風に言われがちである。