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2012年07月26日(木曜日)
名誉を第一とする生き方
名誉を第一とする生き方と言うのは、入学試験風の言い方をすると、名誉で一番に成る事を第一志望にする生き方、という事であって、無制限に名誉最優先、という事ではない。
つまり、自分の持ち物の中で名誉を最も大切にする、という事であって、他人の持ち物を不当に棄損してでも自分の名誉を保護する、という事ではない。

入学試験について言うと例えば、東京大学を第一志望にする、という事は、不合格だったならば東京大学に報復する、という事を全く意味しない。
他の受験生を殺せば合格できるかもしれないが、東京大学を第一志望にする、という事は、そういう行ないも辞さない、という事を意味するものでは全然ない。

これと同じ様に、自分の名誉を一番大事にする、という方針は、非が自分にあっても自分に恥を掻かせた奴には復讐する、とか、自分が恥をかかない様にするためには不当な脅迫も辞さない、という態度を意味するものではない。
当たり前の事の様だが、名誉という言葉を使わずに、メンツとか面目という言葉を使うと、この事情を分かっていない人が如何に多いか、思い当たるだろう。

しかし、不当な行ないは全て恥である、という点を考慮に入れた上であれば、名誉を第一とする生き方に、但し書きは必要ない。

以上の事を踏まえれば、名誉を大事にする生き方は、貫くのが非常に困難な、最もではないかもしれないが高潔な、自分に厳しい生き方だ、と言える。
俺に恥を掻かせやがったな、という台詞によって代表される様な態度とは、ほとんど正反対の態度なのだ。

最も高潔な、ではない、と言うのは、名誉を第一にする生き方は、宗教で模範とされる様な善を第一にする生き方ではない、という事だ。
名誉を第一にする生き方は、善悪の基準で言うと、善の追及を怠けて段々と悪の方に寄って来て、これ以上行くと悪に成ってしまう時に、悪の領域に入らず、その一歩手前で踏み止まった状態を維持しつつ、優劣の基準に関しては、優を非妥協的に徹底追及する、という姿勢だ。

結果的には、そういう人の方が、現代社会においては有為な人材に成るだろう。
これに対して、善の追求で出来る事は、たかが知れている。

貫くのが困難なのは、一つには、能力の限界によって優れた善行は成し遂げ難いからであり、もう一つには、名誉に繋がらない物事への執着を捨て難いからだ。
不心得者から妨害を受ける、という事を言っているのではない。

自分の持ち物の中で名誉を最も大切にする、という態度を直感的に理解するには、自分の持ち物の中の名誉以外の物を全て売り払って、その代金で名誉を買い足す、という状況を考えると良いだろう。
もっとも、これは喩えであって、お金で買えないのが名誉である。

自分の名誉を最も大切にするという事は、自分の名誉を他の何物よりも大切にするという事であるから、他人の命よりも大切にするという事だ、従って、これは、合格するためには他の受験生を殺す事も辞さない、という態度である、というのが曲解である事は、他人の持ち物を盗んで質に入れてそのお金で名誉を買い足す、というのが曲解である事として、理解すると、分かり易かろう。

私は、20才代前半に名誉を第一にする生き方を心に決め、そう口にも出した。
ただし、口に出した、と言っても独り言であり、対人的に発言した事は無いので、妄想だ(私自身は妄想ではなく常時盗聴されているからだと思っている)と思って読んで欲しいが、私が、そう口に出した頃から、故意に上記の曲解をした結果らしき現象が多々見受けられる様に成り、心を痛めている。
名誉を第一にする態度は大変な自制心を要するので、今の私も、まだ、その域には達していない。
しかし、もう結果が出たので、その域に達する必要は、ほとんど無くなった。
むしろ、第二以降にも目を向けなければ。

恥は、基本的には、掻いた人の非(または劣)の現れである。
従って、自分が恥を掻いた事に対して、恥を掻かせた人を責める事は、第一義的には、悪徳の典型たる責任転嫁である。
そのような事をしても、掻いた恥が消えて無くなるわけではなく、その上に責任転嫁したという恥が加わるだけだ。
恥の上塗り、とは、この事だろう。
(因みに、愚の骨頂という言葉を真似て、恥の骨頂という言葉を、今日思い付いた。)
自分が恥を掻かない様に事前に不当な圧力を掛けておく事も、上塗りではないけれど、恥である。
というわけで、名誉は人のあるがままの姿に伴うものであって、それ以上には出来ない。
不正に増やそうとしたら、した分だけ減る性格のものである。

「俺に恥を掻かせやがって、ただじゃあ置かねえ、覚えとけ」という台詞は、テレビ・ドラマに有ったかどうか知らないけど、有ったとしたら、間違いなく悪役の台詞だ。
私が何故これを悪役の台詞だと言うかは、上記の理由による。
しかし、そういう偏見を醸成して、恥を掻かされた事に怒っている人を見た人が、反射的にその人に対して嫌悪感と敵対心を持って、何も考えずに判断してしまう様に、してしまおう、という意図が、そういうコンテンツには隠されているのではないか、という疑いも私は持っている。
勧善懲悪もののテレビ・ドラマの内容は、誰が見ても異論の余地なく、悪役が悪くて、これだけ悪い事をすればこれだけの罰を受けても当然だ、と思う様な内容に、成っています。
しかし、その文脈の正当性は、ディテイルに鋭敏に依存していて、ディテイルのニュアンスを変えるだけで、正義の味方投入前の加害者と被害者が物の見事に逆転してしまうだろう、と予想されます。
つまり、恥を掻かされて怒っている人が正しくて、恥を掻かせた人の方が間違っている様な、そういう恥の掻かせ方が、コソ悪人のコソ悪事の典型例として存在していて、その事について世間の目を欺こう、という意図が隠されているのではないか、という事だ。
暴力を振るうために挑発する行為の、暴力を振るう、の部分が、恥を掻かせる、に成っている様なもの。

私には、中学時代もう少しで卒業だという頃に、廊下を歩いていると、1辺が数センチ程度の(非常に小さいという事です)ヌード写真が落ちているのに気付いた、という経験がある。
私は瞬時に、私がそれを拾う所を何所かから他生徒が密かに見ているのだろう、と直感して、非常に嫌な気持ちに成った。
この嫌な気持ちは、私の今までの全経験の中でも第一級レベルなので、今でもハッキリ覚えている。
もし拾っていたら、私は後で何かの機会に公然と恥を掻くか、色々な人が陰でコソコソ私の事を笑う事に成っただろう。
(こういうのは、後で脅迫のネタに使われる危険性がある、という事も覚えておいて下さい。
 他人に知られたくない事を誰かに知られてしまった場合、それは脅迫のネタに使われる危険性があります。
 対処法は、優劣の劣に関する事は開き直りに徹する事、善悪の悪に関する事は最初からしない事です。
 悪については、常に狙われている、ぐらいのつもりで居るのが、丁度良いでしょう。
 幾ら待っても悪事をしないと、次は陥れに掛って来る、という場合すらあるぐらいです。)
さて、その時私が、それを拾いたい、と思った、のは事実だ。
その分私が恥ずかしい人間であるのも事実だ。
しかし、それでは、そうやって私に恥を掻かせる行為は正しいだろうか?
正しいわけがない。
どこが正しくないか、直ぐには答えられないが。