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2012年07月11日(水曜日)
報復の応酬とエスカレート
2012年06月27日の記事の続きを書きます。

前回の話を辛辣な言葉で言い直すと、2n番目の攻撃が報復としての正当性を保ち続けている限りは、n≧2での2n-1番目の攻撃は、報復ではなく、先に手を出した人が報復という成立しない屁理屈をコジ付けて無反省にまた先に手を出した事、を意味するものだ。

私は法律の専門家ではないので、詳しい事は知らないが、法律では私的な報復は禁止されている様だ。
報復したければ、罪刑法定主義の原則に従って、裁判を経た後に公的な刑罰という形で、相手に報いを受けさせる、という形のみが許されている。
正当防衛では、相手を攻撃する事が許されるが、これは報復ではない。
損害賠償させる事も、報復ではない。
ただし、正当防衛としての攻撃も、損害賠償させる事も、それ自体として正当性が評価されるべきものであり、それ自体として正当ならば、それが応報感情の充足を伴っていても、その事が正当性を覆す理由には成らない。
それ自体としての正当性とは、正当防衛としての攻撃については、相手の攻撃能力を必要なだけ低下させる事であり、損害賠償させる事については、損害の内容に見合った賠償である事だ。
応報感情の充足とは、相手が痛みや苦しみを感じる事に対して、ざまあみろ、という風に満足を感じる事だ。
これらに反して私は前件では、報復はある範囲内ならば正当だ、という事を述べた。
この点を補足説明する。

私的な報復でも、2n-1番目の攻撃に比して2n番目の攻撃が大き過ぎなければ、正当なのだけれど、それを法律として通用させてしまうと、往々にして、先に手を出した人の精神的欠陥(正しい人にやっつけられた間違った自分という事実を受け入れる事が出来ない往生際の悪さ)によって漸次拡大する報復の連鎖が生じてしまい、カタストロフィーを招来しがちだ。
放火されたので放火で応酬した、という事を繰り返せば町中が火事に成る、みたいな話だ。
攻撃されたか否か、誰からどの様な攻撃をされたか、を誤認しての間違い報復も危ない。
そこで法律では、私的な報復は一切禁止、という事にしてあるのだと思う。
したがって、2n番目の攻撃を思い止まる事は、先に手を出した人の尻拭いをする事であり、これは先に手を出した人の当然の権利ではない。
仮に2n番目の攻撃をしてしまったとしても、先に手を出した人がそれを咎めるのは筋違いだ。
報復しない事は社会に対する義務であって、先に手を出した人への義務ではない。

私的な報復の禁止という法律上の取り決めは、報復したい人に非常な我慢を強いるものであり、あくまで公的な刑罰とセットでのみ、初めて受忍され得るものだ。
公的な刑罰を封じた上で、私的な報復の禁止のみを言う事は、両手を縛りあげた上で鼻に脱いだ靴下を押し付ける様なものだ。
従って喧嘩の仲裁においては、奇数番目の攻撃を止めなければいけない。
偶数番目の攻撃を止める事は、先に手を出した人への単なる加勢であり、偽善である。

我々は、暴力を否定した世界に住んでいるのでも報復を否定した世界に住んでいるのでもない。
否定されているのは、私的な暴力と私的な報復であって、公的に管理された暴力や報復は是認されている。
必要だからだ。
その点を非難する意見は昔からある。
しかし、もっと良くする方法は一度も聞いた事が無い。
単に公的に管理された暴力と報復を無くしただけでは、もっと悪く成るのは、目に見えている。
そうしろ、と言う人が居るが、それは、その害が自分の所まで及ぶ事はあるまい、と高をくくっている無責任派の人々か、今までよりもっと自由に悪事に勤しみたい、と願っている犯罪派の人々だろう。

これらの事を踏まえた上であれば私は、私的な報復の禁止という法律上の取り決めを、一概に否定する者ではない。

報復の連鎖がエスカレートする事は、必然ではない。
報復する人が、先に手を出した人を人徳と能力で凌駕する事によって、2n番目の攻撃を2n-1番目の攻撃よりも小さく抑える場合には、エスカレートは起こらない事が可能だ。

私的な報復の禁止が守られれば、報復の連鎖によるエスカレートは起こらないが、今度は先に手を出す行為の横行が懸念される。
その事をとぼけて、右の頬を打たれれば左の頬を差し出せ、なんて言うのも偽善だ。
そして今の日本には、その傾向が出ている。
私的な報復は禁止、公的な刑罰は当てに成らない、と来りゃあ、先に手を出したもん勝ち、って成るわけだ。
いじめの問題にも、この観点から考えないと分からない部分が、多かろう。
禁を破って報復する事の違反度よりも、先に手を出す事の違反度の方が大きい事は、明白だ。