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2012年02月10日(金曜日)
3体社会主義に対する宇田の見解
昨日までの記事で議論して来た3体社会主義を評価するに当たって、宇田の見解は、次のごとくだ。

(1) 究極的には、推定自由の原則と公平性の原則を判断基準として評価するべきだ。
(2) 概ねB,Cの意見に賛成だ。
(3) 公平性は拠出の平等であって、余力の平等ではない。
(4) 3人分の生活必需品を2人で生産できる、という事実が背景にある。
(5) 自由主義時代のAの不満は、分業によって生じている。
(6) 自由主義経済の方が社会全体の生産性は高まっている。
(7) aとbに価値の違いが有る以上、A,B,Cの各々が別々にa,bを自給自足するのでなければ、平等には成らない。
(8) A,Cにbの生産は無理である等の、A,B,Cの適性の違いも考慮する必要がある。
(9) 絵に価値はある。
(10) 独創的な絵を描く能力がCに有る場合、それに対して特別な配慮が必要だ。

(1)
Aには、そうしてもB,Cが限度を超えた困窮に陥らないならば、B,Cとの関係を絶って自給自足の道を選ぶ自由が、ある。
Aがa,bを自給自足した場合、bを2万円分とaを1万円分生産する事に成る。
自由主義時代には、販売用のaを2万円分と自分用のaを1万円分、計3万円分生産していたので、自給自足の場合と負担は同じだと考えられる。
単品種の生産よりも2品種の生産の方が負担が大きい事と、適性の事まで考えると、自由主義時代の方が自給自足の場合よりもAの負担は軽い。
したがって、自由主義時代にはAはB,Cから不当に何かを奪われた、という事は無い。
もし仮に、自由主義時代にAが、余力が無くて不自由だ、と感じていたとしても、それは、B,Cから抑圧されたからではなく、Aの持って生まれたものがそれだけだった、という事に過ぎない。

(2)
自由主義時代のCへのaの配分は、基本的にはAB間の偏務によって生じており、AはBからbを2万円分購入した時点で、aを2万円分生産・供給すべく宿命付けられており、それはCが怠けているせいではない。
Bは、bをAに売って得た2万円を全部使ってAからaを購入したのだが、1万円分はAから直接購入し、残りの1万円分はCにお使いに行ってもらった、と考えれば分かり易い。

(3)
余力の平等が求められるのは、余力が有る者が限度を超えた困窮者を救わないのはいけない事だ、という文脈においてのみであり、aの生産がAにとって限度を超えた負担に成っている場合だけである。
また、限度を超えた困窮が、余力の有る者の余力を減ずる目的で、必要も無いのに故意に作り出された場合には、余力の有る者は、それを救わなくても悪くない。
余力の平等は、所有権の否定、結果の平等であり、これが不公正の最たるものである事を私は、自分の人生経験に基づいて、断言する。
限度を超えた困窮は、生活必需品の必需の概念の観点から言うものであって、劣等感や屈辱や自尊心の傷付きは、それが幾ら大きくても、限度を超えた困窮とは見なされない。

(5)
自由主義時代にはaの生産と絵の生産がA,C間で分担されていたのに、社会主義経済では、A,Cのそれぞれがaも絵も生産する、という形に成った、という意味で、分業破壊が起こった、と見る事も出来る。

(6)
自由主義時代と社会主義経済へ移行した後を比較すると、aとbと絵のそれぞれについて、A,B,Cの間に適性の差が無ければ、生産される量は同じだ。
しかし、aの生産にはAが最も適し、bの生産にはBが最も適し、絵の生産にはCが最も適している場合は、自由主義時代には、AはaだけCは絵だけ生産していたのに対して、移行後はaの生産の半分がAからCに移り、絵の生産の半分がCからAに移る、という風に適応度が下がるので、社会主義経済の方が全体として生産される価値が少なく成る。
しかし、推定自由の原則によれば、社会全体の生産性を高める事は、必要な場合にのみ義務であり、そうでなければ義務にしてはいけないので、この事が単独で社会主義を否定する理由には成らない。

(10)
Cの権利の観点から言って、独創性を持つ人が独創性を発揮できない事は、独創性を持たない人が自分の能力を十分に発揮できない事とは、質的に異なる。
社会の健全性の観点から言って、社会全体を人体に喩えると、独創的な絵を描く事は、新しいものの見方の発見であるから、大脳新皮質の機能であり、必需でないからと言ってそれを排除する事は、生命維持に必要なのは小脳までだとして大脳新皮質を切除する事に相当する蛮行である。