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2012年02月05日(日曜日)
推定自由
法律において「疑わしきは罰せず」「疑わしきは被告人の利益に」の標語で知られる推定無罪の原則に倣って、推定自由という言葉を作ってみた。
これは、人の発言や行動に制限を加える理由として、それらが自由な発言や行動だから、という理由付けを認めない、という考え方だ。

推定無罪の考え方は、まず無罪の状態から出発して、有罪を支持する証拠の分だけ、有罪の方向に移動し、有罪と無罪の境界を越えたら有罪に成る、という考え方だ、と法律家が説明するのをテレビで見た。
ただし、これは私の言い換えであって、テレビで見たのは、天秤を使った比喩で、最初は無罪の側の皿に重りが乗っていて有罪の側の皿には重りは乗ってない、その状態から出発して有罪を支持する証拠が出る度に有罪の側の皿に重りを乗せて行く、という話だった。
これと同様に、推定自由の考え方は、まず、完全な自由、全くの無制限の状態から出発して、必要なだけ制限する、という考え方だ。
推定無罪の標語に倣って冗談を言うと、他害無きは被告人の勝手に、という事だ。

これは、他人の迷惑に成らなければ何をやっても良い、という事だが、その揚げ足を取ろうとする行為がうるさかった時代があった。
1995年頃かなあ。
私は、そういう行為を肯定する者ではない。
ただ、麻薬や自傷行為がどうしていけないのか、については、今の私には、まだ自分を満足させる説明は出来ない。
推定自由の原則への例外なのか?それとも、自傷も他害だ、という論理が存在するのか?

まあ、自由の場合は、「推定」という言い方は変なので、「本来自由」とか「出来るだけ自由」という言い方の方が良いかもしれない。
だから今まで私は「出来るだけ自由」という言い方をして来た様に思う。
しかし、これだと、自由そのものを嫌って自由を制限する態度に対して、それをいけない事だとする私の考え、が伝わり難い。
そういう間違った態度の人も、これ以上はダメだ、既に出来るだけ自由にしている、と言うだろうから。

推定無罪も推定自由も当たり前ではない。
と言うのは、推定無罪については、有罪は証明されなければ成立しないのに、無罪は証明されなくても成立する、という点であり、推定自由については、自由が適度に制限された美しい形が理想なのではなく、理想は完全な自由、制限皆無であって、制限は仕方なく加えるもの、いかなる制限も妥協である、という点だ。
ついでの話、だから裁判で無罪に成った事をもって身の潔白が証明されたとするのは誤りだ。

自由そのものを嫌う考えは、確かに存在する。
それは、しばしば勝手という言葉で表される。
好き勝手、自分勝手、勝手。
ただし、これらは、他害を省みず、であるからいけない、という意味で用いられる事もある。

自由を制限する必要としては、自由そのものへの不快感や嫌悪感などは動機として全く正当性を持たず、極論すれば、自由を保障するために必要な事のみが自由を制限する理由として正当性を認められる、という意味のフランス人権宣言の考え方を適用して判別するべきだ。

「美しい国」等の標語は、その点を否定する政策を意味するのではないか、と懸念されたので、不安を感じた。

何故こんな話をするかというと、推定自由の原則が義務の範囲を定める原理だからだ。
経済活動をする義務、勤労の義務は、この原理から導き出されねばならない。