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2012年01月29日(日曜日)
利潤のプラスイメージ
「金儲け」という言葉は、マイナスイメージを、持っている。
利潤追求は、取りも直さず、金儲けに他ならない。
それは、我欲を満たす事は悪い事で、我慢する事は良い事だ、という倫理観から来ているのだろう。
我欲を満たす事は他人から奪う事で、我慢する事は他人に譲る事だ、という風に。

しかし、利潤という概念を宇田経済学で分析すると、真実は全くその反対だ、という事が分かる。
利潤とは(売り上げ)-(費用)の事だ、と思うんだけど、これは、
金流で考えると(お金の流入量)-(お金の流出量)だ。
ここで、(金流)=-(益流)の考え方を適用すると、
(お金の流入量)=(益の流出量), (お金の流出量)=(益の流入量)
だから、(利潤)=(益の流出量)-(益の流入量)と成り、これは価値の創出量に他ならない。
つまり、利潤の発生は価値の湧き出しである様だ。。
国民総生産という言葉があるから、これは新しくないのかな?

ちょっと、ここで疑問。
お金の総量は決まってるので、誰が利潤を出しても、お金があっちに寄ったりこっちに寄ったりしてるだけ、という事に成る。
一方、色々な所で色々な人が価値を創出し、その結果、実体経済に含まれる価値の総量は増加するはずだ。
これらは矛盾しないのか?
分からない。
またしても、お金の総量の問題にぶつかった。
透明貨幣描像的に、お金を抜きにして考えても、世の中には、価値の創出という事があるのは確かだ。
人並みにしか食べていない人が、ある時、何かを発明する事がある。
これは、間違いなく価値の創出だ。
したがって、お金の総量が決まってるから価値の創出はどこにも無い、という事は有り得ない。

ひょっとして、ここに贅沢の必要があるのかもしれない。
与益のための手段として必要な受益に伴うお金の流出、以外にお金の流出が無いと、その人の所にお金が溜まってしまう。
そこで、利潤として得たお金を贅沢財の購入に当てて、溜まらない様にする、という事なのではないか?
う〜ん、まだ釈然としないなあ。
拡大再生産というのも聞いた事がある。
自由主義経済は成長し続けなければ成り立たない、というのを良く聞くが、この辺りの事なのかなあ。

さて、価値の保存機能は貨幣にあるのではなく実体経済の方にあるのだ、という事を、
2012年01月24日の記事で述べたが、この事は、利益を上げると、利益を上げた者に、その分お金が入って来るが、その入って来たお金の分だけ、価値が創出され、創出された価値は経済の実体の中に保存されていて、そのお金は、創出した実体価値の写しである、という意味だ。
そして、そのお金を価値を創出した人が持っている間は、その価値は無利子で経済全体に貸し出されている。

営利団体は悪で非営利団体は善、みたいな俗説が、蔓延しているが、非営利団体と営利団体の違いは、他人から奪って我欲を満たすか、自分が我慢して他人に与えるか、の違いではなく、お金という形で実測された価値の創出を行なうか否かの違いだ、という事に成る。

したがって、おおよそにおいては、正攻法での利潤追求は、善の典型だ。
しかし、利潤追求が環境破壊などをもたらしている、との指摘もなされている。
これについては、(お金の流出量)=(益の流入量)の部分に誤算が含まれると見るか、あるいは、与益・受益の概念以外に、被害・加害の概念も導入して、(お金の流出量)=(益の流入量)+(害の流出量)という風に捉え直す必要が、あるのだろう。
利潤の概念を、その様に従来の概念よりも厳格に定義し直すと、環境保護は利潤追求と矛盾しない。
そして、利潤追求は典型的な善として非難の余地の無い行為と成るが、その分それを成し遂げる事はいよいよ難しく成る。
本来はそうでなくてはいけないのだ、という事が、真面目に問われる時代に成って来ている。

害の流出量だけお金の流出量を増やせば公正が回復する、という考えは、弁償すりゃあ良いんだろ、と言って、他人の器物を勝手に壊す態度を正当化するものであってはいけないので、どう定義するか、問題が残る。