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2012年01月27日(金曜日)
市場原理
私は、経済学については素人なので、市場原理の利便性については、ろくすっぽ何も知っちゃあいない。
知ってるのは、需要と供給の関係で価格が決まる、という事ぐらい。
ああ、そう言えば、市場原理には競争促進効果があって与益内容が高レベルに維持される、というのも知ってるけど。
また、透明貨幣描像的な考え方と経済循環機関の考え方を用いなくても出来る話を、宇田経済学と言って説明するのは、他人の先取権の侵害に当たろう。
それでも、宇田経済学を論ずる際に、市場原理は避けて通れない。
善悪の判断基準を得るためには、市場原理の重要性が大きいからだ。
そして、その観点から論ずるならば、市場原理という手垢にまみれた話題についても、まだ誰も言っていない事を、言えるかもしれないし、その過程で、宇田経済学特有の透明貨幣描像的な考え方と経済循環機関の考え方が必要に成るかもしれない。

今ちょっと思い巡らしてみて、次の2点が思い当たる。
・何が必要で何が必要でないかは市場が決める、必要性の実証。
・政治の王は選挙が決め、経済の王は市場が決める、経済の選挙。

まず、必要性の実証について。
経済循環機関は複雑に絡み合っていて、どこからどこまでが誰のおかげで、どこからどこまでが誰のせいなのかを、分離できない構造に成っている。
そのため、どこかで誰かが必要の無い物や事を貨幣で購入(贅沢)すると、そのツケが遠くの自分に回って来て、知らず知らずのうちに、そういうどこかの誰かの贅沢の尻拭いをさせられるのではないか。
たとえば、どこかで誰かが贅沢をすると、遠くの自分が買う必需品の価格が上昇する、みたいな事が考えられないか?
あるいは、どこかで誰かが贅沢をすると、遠くで働く自分の時給が低下する、みたいな事が考えられないか?
たぶん、こういう懸念が原因と成って、社会主義では、何が必要で何が必要でないかをドグマチックに定め、それに基づいて経済活動に強い制限を加えるのだと思う。
それに対して、市場原理に基礎を置く自由主義では、社会主義のそういう所が非実証的だ、として、何が必要で何が必要でないかは、実際に市場で何が売れて何が売れないかを実測する事によって判断するべきだ、という実証主義的態度を取るのだと思う。

次に、経済の選挙という考え方について。
透明貨幣描像で考えれば分かる様に、経済活動においては、自分の意思に他人を従わせてばかりの人と、他人の意思に従ってばかりの人が居る。
1万円札を、それだけの価値を持った物、と思わず「この券で人に10回命令できます」と書かれた命令券だと思えば、その感じがつかめるだろう。
どうしても、お金をたくさん持っている人が、そうでない人を一方的に支配する、という風に成ってしまう。
そうであれば、誰が金持ちに成るかを公正に決めよう、という事に成り、その目的に良く合うのが市場原理だ、と考えられるのではないか。
社会主義は、政治の王が経済の王も兼ねる、というシステムだ、と思うんだけど。

これら2つの市場原理の理念を理解するには、反面教師として、次の様な誤った態度を思い浮かべると良い。
・彼が王であるのは偉いからだ、そして、なぜ偉いかと言うと王だからだ。
・党が金持ちなのは必要な与益をしたからだ、そして、党がした与益が必要だった証拠は党が金持ちである事だ。
どちらも、循環論法に陥っている。

市場原理の目的を必要性の実証と経済の選挙に置くならば、その事は自ずと、市場原理のディテイルと経済活動の範囲がどうあるべきかを知るための、ヒントに成る。
経済の選挙の公正さがどうであれ、人が人を支配するならば、その支配の及ぶ範囲は限定的なもの(経済サイトにログインした時だけ)でなければならないし、市場原理を選挙と考え、購買を投票と考えるならば、政治における1票の格差問題の様なものが、市場原理のディテイルにおいても、存在する可能性がある。

私の考えを、見当程度の段階で書くと、以上の様に成る。