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2012年01月24日(火曜日)
貸借描像を超えて
通貨の表示価値を、貸しの量、と解釈すると、世界に存在する通貨の総合計がゼロでない事は、奇妙である。
なぜなら、何かを貸した人が居れば、必ず、それを借りた人が居るはずなのに、通貨の総合計が正(プラス)ならば、貸した量の方が借りた量よりも大きく成ってしまうからだ。

そこで昨日までは、負の貨幣という物を導入する事によって、通貨の総合計をゼロに保つ通貨制度の可能性を探った。
負の貨幣制度については、まだ未解決なので、また後ほど蒸し返したい、と思う。
今日は、貸借描像を捨てれば通貨の総合計がゼロでなくても良いじゃん、という着想に基づいて書いてみる。

貸借描像に代わる描像がどう成るべきかは、経済循環機関というものの特性から導き出されるべき事なのではないか?

まず、経済循環機関というものは、価値を生み出すシステムであるはずだ、という事が思い当たる。
つまり、経済循環機関と取引する個人は、経済循環機関と取引せずに自給自足する場合よりも、得なはずだ。
そうでなければ、経済循環機関は、市場原理によって棄却される。
実際には、必需品を金で買わざるを得ない、という事情もあるが、ここでは、そこまで詳しくは考えない事にする。
自給自足した場合よりも経済循環機関と取引した方が得とは、経済循環機関への与益量よりも経済循環機関からの受益量の方が大きい、という事だ。
つまり、経済循環機関が価値を生み出す、とは、与益の合計だけ価値が生み出されている、という意味ではなく、受益の合計が与益の合計より大きく成る、という意味だ。
受益と与益はペアーだから、そう成るはずが無い、とも思うが、感じとしては、そういう感じの事ではないか、と思えて仕方がない。

例えば、農作物の栽培を手伝ったら収穫物の一部をもらえる、という契約を考えると、手伝いの与益量よりも、収穫物の一部をもらう受益量の方が、大きく成り得る、という事は、容易に想像がつく。
貴金属の採掘を考えると、もっと分かり易い。
基本的には、人間の受益は、その全てが労働によって作り出されたものではなく、かなりの部分は自然から与えられたものである、という事実認識が、重要なのかもしれない。
しかし、そういう問題では与益量と見返りの受益量が等しく成らない、というのは、むしろ経済の原則から外れた例外的現象であって、経済循環機関が価値を生み出す、という一般論の根拠には成らない、という可能性もある。
もともと、通貨の合計が正である事は、誰も与益しなくても誰かが受益できる事を意味しているわけではないので、天然資源云々も的外れかな。

普通は、貨幣にある、とされる価値保存の機能は、実は、貨幣にあるのではなく、経済循環機関にあるのだ、と私は考える。
これは、経済循環機関が価値を生み出す事の実例を与える。
例えば、生卵を経済循環機関に提供し3日後に同価値の生卵を経済循環機関から受け取る、という事が、貨幣を使えば可能だ。
生卵を売って得たお金で別のを買い戻せばよい。
経済循環機関と取引すれば、自分で保管するよりも、冷蔵保存に要するコスト分だけ得だ。
この分だけ経済循環機関が価値を生み出している、と書こうかと思ったが、生み出しているのではなく、逸失を防いで(保存して)いるだけなのかも。

分からなく成って来た。
与益量や受益量が貨幣に表示されている価値とは必ずしも一致しない、と考えたんだけど。
与益の概念を捨てて、負担の概念で置き換える必要があるのかも。
しかし、負担の量は、どれだけ与益したか、で測るしかないなあ。
あ〜あ、分からない。

受益と与益はペアーだから受益の合計は与益の合計に等しい、というのは、任意の1つの時刻についてであって、与益した際にもらった貨幣で受益する事を考える時には、与益の時刻と受益の時刻が異なるので、そうは成らない、という点が本質的なのだろうか?

貸借描像以外の描像を見つけ出す望みは捨て難いが、このページに書いたことの大部分は的外れだったのかもしれない。
貸しと債権、の代わりに、寄与と利権、の様な概念対を用いて考える事あたりを目指していたのだが。
通貨が債券だとすると何故合計がゼロでないのか、という問題が生じるが、通貨は利権を代表するものだ、と考えると、合計がゼロでなくても良さそうだ。
その場合、与受益の際に貨幣が移動する事は、利権の移動と考えられる。
何か、答えに成ってない様な。

このページは、迷妄のページ、という扱いにして下さい。
通貨の合計が何を意味するのか、という問題は、一筋縄では行かない様です。